見出し画像

【短編】白い記憶(1/2)

(2,753文字)

 妻が庭の芝に散水している。その傍らを三歳になる娘が走り回る。白いワンピースの裾がなびいている。妻は娘を出来るだけ避けようとしているが、それでも少しは飛沫が掛かるらしく、その度に小さいさけび声が上がる。
 私はそれをながめている。空にはギラギラと太陽がどっしりと胡座あぐらをかいている。
 静かな午後だ。


 先日、叔母が亡くなった。私の母の弟の連れ合いだった。叔父はとうに鬼籍に入っている。二人には子供がいなかったので、実家を継いだ従兄弟の孝男が葬儀を取り仕切るらしく、連絡をくれた。
 入院中の母に代わり、私と妻が参列することにした。
 昔と変わらず交通の便が悪いと聞いたので車を使った。カーナビに行き先を入力すると、青い線で経路が表示される。
 あの時、お袋が書いてくれた地図みたいだな。
 私の中に忘れていたはずの記憶がよみがえってきた。


 あれは二十年ほど前、僕が小学校五年生の夏だった。何の用事だったか忘れたが、僕は叔父の家まで一人で行くことになった。二年前、母に連れられて訪れたことがある。
 だからという訳でもないだろうが、母は驚くほど簡単な地図――路線名と下車駅名だけが書かれていた――と叔父の家の電話番号を書いたメモを待たした。
「これだけ?」
「大丈夫よ。電車もバスも一本だから」
 母は私の不安を笑い飛ばした。
「そうね、駅からは坂下まで三十分ほどかな。今からだと昼前には着けるわね」

 予定通り十時半前にM駅に着いた。バス乗り場で滝川行きの時刻表を確認すると、少し前に出たばかりで、次まで四十分以上もある。朝夕の通勤時間帯は本数が多いものの、昼間は一時間に一本しかない。こんなに少ないとは聞いていなかった。
 不覚だ。僕は母の大まかな性格を見くびっていた。

 近くには時間をつぶせそうな場所もない。駄目元だ。隣の乗り場で時間待ちしている運転手に、坂下というバス停を通るか尋ねてみた。彼は小さくうなづいた。青沼行きとある。母から教わったのとは違う路線だが、そのバスに乗り込んだ。乗客は僕の他にいない。席に着くと間もなくドアが閉まった。
 心地よい振動と刺さるほどの日差しを帳消しにする冷房の風。乗って直ぐに僕は、強い眠気に襲われた。

 どれほど経っただろう。
 目覚めると時刻は十二時を回っている。母は昼前には着くと言っていたはずだ。
 いけない、乗り過ごした。
 僕は思わず「降ろしてください!」と大きな声を上げた。バスが急停止する。僕はあたふたと降りた。背後でドアが閉まる音を聞いた。
 あれ? ここはどこだ。
 尋ねようと振り向いた時にはもうバスの影はなかった。いつ発車したのか分からなかった。心がざわつく。

 いつの間にか空は、どんよりと厚い雲におおわれていた。にわかに空気がひんやりして、遠くに望む山々の背から霧が流れ込んでいるのが見えた。
 そうだ、叔父さんに電話しなくちゃ。
 だが無情にも携帯電話の液晶画面には圏外と表示されていた。不安がつのる。
 どうしよう。坂下まで戻らなくちゃ。
 きょろきょろしていると、少し先に枝道を足早に歩く白いワンピースが見えた。

 よかった、教えてもらおう。
 追いかけたが、一向に距離が縮まらない。ほどなく女の人は白い壁のしょうしゃな家に入ってしまう。
「すみませーん」
 僕は大声で呼び止めた。彼女ははじかれたように振り返る。目を見開いている。
 しーっ。
 口元に指を立て周りをはばかるように見渡すと、右手で白いつば付きの帽子を押さえながら駆け足で近づいてきた。
 長い黒い髪が風に揺れ、ワンピースの裾がなびいた。

「なぜ、ここにいるの!」
 押し殺した声。彼女の顔には怒りと戸惑いが貼り付いている。僕は道を尋ねようとしただけなのに、どうして責められるのか訳がわからない。
「いや、そのぉ、バスを乗り過ごしてしまって……」
 僕は勢いに押されて口ごもってしまう。
「早く! こっちよ」
 彼女はじれったそうに僕の手を取った。家に連れて行こうとする。
「僕は坂下に行きたいんです……」
 しーっ。
 振りほどこうとするが、思いの外彼女の力は強い。僕は引っ張られるがまま走った。

 あっ。
 いつの間にか200メートルほど前方に、山頂まで届くほどの白い塊みたいなものがあった。
 えっ、あれは霧?
 見る見る間に、それはダムが決壊したかのように、ほとばしりながら急速に僕らに迫って来ていた。
「まずい、気づかれたわ」
「何? 、あれ……」
 僕は得体の知れない恐怖に足が竦《すく》んだ。

「急いで」
 家まで数メートルの所で、僕はつまづいてしまった。彼女は引きってでも走ろうとしたが、その前にそれは僕らに襲いかかってきた。彼女は僕をかばうように抱きしめた。あっという間に僕たちはそれみ込まれた。音もなく衝撃もない。だが呼吸する度にそれが口や鼻にまとわり付いてくる。息苦しくて手で払っても、また直ぐに顔をふさがれる。

 殺される。
 僕は恐怖で叫びそうになる。察した彼女が手で僕の口を押さえた。僕の目を見つめてささやく。
「静かにして」
 彼女の目が僕の恐怖を吸い取ってくれた。
「いい。手を放すけど、声は出さないでね」
 彼女の落ち着いた口調が僕の心を静めた。僕は何度もうなづく。
「鼻と口の周りを両手でおおって、なるべくゆっくり呼吸するの」
 僕は指示に従って、身をひそめる。しばらくするとそれの動きがよどんできた。

「今よ。あわてないでね」
 彼女に続いてゆっくり歩く。そっとドアを開けて、体を滑り込ませる。そしてそれが家に入らないよう素早くドアを閉めた。僕らにつられて、それの動きがにわかせわしなくなった。
 彼女はしばらく外の様子を伺っていたが、
「もう大丈夫よ」
 と緊張を解いた。ほっとした途端、涙があふれてきた。彼女は僕の背中をさすりながら、
「よく頑張ったわね」
 とねぎらった。ひとしきり泣いて、少し落ち着いてきた。

あれは何だったんですか?」
「何でもないわ」
彼女は私の問いに答えてくれなかった。
「さあ、これでも飲んで。気持ちが楽になるわよ」
 ミルクの入ったコップが差し出された。急にのどかわきを覚えて、僕は一気に飲み干した。味はしなかった。
「もう少ししたら逃がしてあげるわ。でも、いい。今日のことは忘れるのよ。そして絶対誰にも言ってはだめ。約束できる?」
 僕は頷いた。急激に睡魔が襲ってくる。
「でないと、悪いことが……」
 彼女の言葉は続いている。僕はそれを夢うつつで聞いていた。

(2/2)に続く


よろしければサポートお願いします。また読んで頂けるよう、引き続き頑張ります。