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【ショート・ショート】パソコン

「ちょっと出かけてくるよ」
 それが、あの人の最後の言葉になろうとは夢にも思わなかった。

 あの日、あの人は朝早くから秋葉原まで出掛けていった。
 午後過ぎ、右手にどこかのパソコンショップの紙袋、左手にToposのケーキを持ってのご帰還。求める物が手に入ったようで、すこぶる上機嫌な夫は、私や子供達へのお土産を忘れていない。
「お茶でも入れる?」
「後でいいよ。先にやってしまうから」
 そう言いながら、宝物が入った紙袋を大事そうに小脇に抱え、部屋に引き込む。

 ガタゴトやることしきり。あの人の何とも言えない、嬉しそうな顔が目に浮かぶようだ。
 二階の部屋が静まった頃を見計らって、私が声を掛けようと部屋の前に立ったのと、あの人が上着に腕を通しながらドアを開けるのがほとんど同時だった。
「あっ、出掛けるの? お茶が入ったけど」
「ああ、N店まで。じゃあ戻ってきてから貰うよ」
 と近くの電気店の名を言った。N店までは、往復でも車で二十分もあれば余裕。
「ちょっと出かけてくるよ」

 日常の中の落とし穴。
 あの日、あの人はN店への途中、急に道路に飛び出してきた子供を避けようとして、右にハンドルを切った。普段は交通量が少ない道なのだが、運が悪かった。偶々そこへ来た大型トラックと正面衝突して、帰らぬ人となった。
 子供に怪我がなかったのが、せめてもの救いだった。

 通夜の晩、その子は両親に連れられて焼香に来てくれた。ごめんなさい。涙ながらにその子は謝った。責めるな。あの人の遺影が笑っている。私はまともに子供の顔を見られなかったが、何とか取り乱さずにすんだ。

 四十九日が済んだ。

 あの人の部屋は出ていったときのままだ。
 この部屋で、あの人は少しずつ部品を買ってきては、狭い部屋でパソコンを組み立てていた。
 白いパソコンケースに手を延ばす。「こらっ、勝手に触るな」と怒られそうな気がする。昨日のことのように思えるが、もううっすらとほこりが積もっている。
 ここにも主の帰りを待ち続けているものがいる。

「ねえ。これ、僕がもらってもいいでしょう」
 何時入って来たのか、息子が私の側に立っていた。
「そうね。埃に埋もれるより、その方がお父さんも喜ぶでしょう。でも、使えるの?」
「任せてよ」
「ゲームばかりじゃ、だめよ」
 パソコンは新しい主を得た。

「余り根を詰めると体に毒よ」
 息子の部屋をのぞくと、キーボードを叩いては首をかしげている。
「何のプログラムか分からないアイコンがあるんだよ。しかもパスワードが掛かっているんだ。母さん、分かる?」
「父さんの名前と誕生日は?」
 息子が即座に打ち込む。
「いや。ダメだ」
「じゃあ、私のは?」
「あっ、開いた」

 突然、パソコンの画面が暗くなり、ファンファーレと共に花火が打ち上がった。
 私は、びっくりして飛び上がりそうになった。
 画面が変わる。
 テーブルの上にケーキが載って、ロウソクの炎が揺れている。
「さあ、吹き消して」
 私は言われるままに、息を吹く。時間差でロウソクの火が消えて、
「陽子、誕生日おめでとう」
 スピーカから流れるのは確かに、あの人の声だった。視界が滲んきた。
 その時、事故の日が私の誕生日の二日前だったことを思い出した。
 ありがとう……。こんなもの、用意してくれていたんだ。
 私は思わず走り寄りディスプレーを抱きしめた。




「あっ……」




 ボンと音がしてパソコンの電源が落ちた。
 私はその時カップに入ったジュースを倒したらしく、それがもとで回路がショートして、どこかの部品が破損したようだ。再度スイッチを入れようとしても、うんともすんとも言わなくなった。
「壊れちゃったじゃないか」
 責める息子に、私は目元を拭きながら、
「あなたが、こんな所にジュースなんか置いておくからよ」
 と笑う。

「あーあ、僕のパソコンが……」
「向こうは暇だから送ってくれって、お父さんが言ってるのよ」
「そんなぁ……」
「あなたには、新しいの、買ってあげるわよ」

 パソコンは元の主のもとに帰ったようだ。

 あなた、せいぜい楽しんでね。

 私は、パソコンの汚れをきれいに拭き取りながらつぶやく。


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来戸 廉
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