【短編】他人のそら似
(2,747文字)
「ねぇ、あの萌葱色のスカートの人、誰かに似てない?」
土曜日の午後、妻に付き合って隣町まで買い物に行く途中の電車の中。妻が肘で私の脇をつつきながら、耳元で囁く。春先の日差しが背中に心地よく、私は雑誌の字面を追いながらも欠伸をかみ殺すのに忙しかった。
ん?
私はおもむろに顔を上げる。向かいの席に座った同年代と思しき婦人のことらしい。
「顔は浮かんでいるんだけど、名前が思い出せないのよね」
――また始まった。
「年だな、お前も」
「失礼ね。ちょっとど忘れしただけよ。確か何かのドラマに出ていた人だと思うんだけど」
――やれやれ。
私は再び雑誌に目を落とす。
妻は顔を伏せがちにして軽く腕を組む。彼女の考える時の癖だ。ちらっちらっと相手に視線を送っているのが、気配で分かる。
「失礼になるから、あんまりジロジロ見るなよ」
私は一言釘を刺す。
この後の妻の行動は、大方察しが付く。
まず、妻は買い物の途中、――あるいは帰りの電車の中か、はたまた寝る間際かも知れないが――「思い出したっ!」と声を上げ、突然立ち止まる。私が振り向くと、
「ほら、さっきの人。あの人に似てたのよ」
と妻はある女優の名前を挙げる。
私は、その頃にはその女性の顔なんか疾うに忘れているし、そもそもその女優を知らないこともあるから、「そうだな」と曖昧に相槌を打つ。すると妻は、
「ねっ、そうでしょ。やっぱり似てたわよね」
と一人で悦に入る。
付き合いきれん。
私はそんな妻を置き去りにして歩き出す。
「あなたはそうやって馬鹿にするけど、これって惚け防止にもなるのよ。何とかって高名な脳科学者の先生が仰るには、思い出せなくてもいいらしいの。思い出そうと努力するだけでも、脳の活性化には効果があるそうよ。あなたもやった方がいいんじゃない」
小走りして追いついた妻は、私に一説打つことも忘れない。何とかとしか名前を思い出せない先生のご高説に、どれだけ信頼性を寄せられるのか甚だ疑問だ。
「だけど、やっぱり思い出せた方がすっきりするわね」
その日は、朝一番の会議に出席するため、いつもより三十分ほど早い電車に乗った。ほとんど立っている人はいない。高々三十分早いだけなのに、混み具合がこれほど違うとは知らなかった。
私は空いていた席に腰掛け、おもむろにカバンから会議資料を取り出した。一通りざっと目を通して内容を確認した後、私は資料をカバンに収め、所在なく中吊り広告を眺めていた。
次の駅で乗り込んできた女性が、私の視線上に立つ。無意識に彼女の顔に焦点が合うのは男の性。年の頃は二十後半から三十前半。目元が涼しげだった。
――あれっ、誰かに似ている。誰だっけ。
ふとそう思った。伏せ目がちで腕を組む。誰だったかな。目を上げて再び顔を見た。彼女が髪を掻き上げる。その仕草で一人の女優の顔がふわりと脳裏に浮かんだ。
――名前は確か……。
その時女性が私の方を向いた。
彼女の視線が私に絡む。私は直ぐに目を逸らしたが、何だか後ろめたい気になった。
――俺は何をやってるんだろう。
私は一瞬我に返った。その途端、掴みかけた名前を落としてしまった。
――しまったぁ。
こうなると喉に刺さった小骨が取れるまで気持ち悪いのと同じで、思い出せるまで何とももどかしい。
あのテレビ番組に出ていたとか、誰々と付き合っていたとか、結婚したとか、そんな周辺情報を手がかりに、懸命に思い出そうと苦悶していると、再び記憶の底からポッと名前が浮かび上がってきた。
今度はすかさず捕まえることができた。嬉しくなった。達成感さえ湧いてきた。今私の脳内には、ご褒美にとばかり、何とかという脳内麻薬が大量に分泌されていることだろう。
道理でいくら注意しても、妻が止められないわけだ。
ネクタイを解きながら、そのことを妻に話すと、
「良いことだわ。凄い進歩よ。ホントあなたは、好きなことには執着するのに、人間には全く関心がないのよね」
と言う。自覚している積もりだが、面と向かって言われると腹が立つ。
「そんなこと、ないさ」
「じゃあ、ご近所の名前、知ってる?」
私は、すらすらと向こう三軒と両隣の名前を挙げる。
「あら、すごい。じゃあ、お向かいの山田さんのお子さんは何年生?」
これまでは序の口だったと言わんばかりに、妻はさらなる難問を繰り出す。二人いることは知っているが、それ以上は分からない。私が渋々白旗を揚げると、
「偶然だけど、二人とも、うちの子ども達と同級生なの。早苗ちゃんがカズと、貴志君とトモがね。貴志君とは、同じクラスなのよ」
「そうか。早苗ちゃんに貴志君か」
鸚鵡返しに呟きながら、二人の顔を思い浮かべる。名前と顔が結び付くと、急にその人に興味が湧いてくるから不思議なものだ。親しみすら覚える。
人の心理は実に面白いものだ。
ある日の出張帰りの湘南新宿ラインの電車内。池袋駅、四番線ホーム。
特急列車の待ち合わせで四分程停車すると、車内アナウンスが流れる。私はドアに寄り掛かって、ぼんやりと向かいのホームに目をやる。電車が止まって、大勢の乗客を吐き出す。乗客の群は、階段に向かって流れていく。
と、その風景に下手から一人の女性が登場してきた。目で追う。二十代後半と思しき女性は、上背があり肉置きがよく、スカートから伸びた足が躍動感に溢れている。横顔を誰かに似ていると思った。
仕事で疲れた脳細胞をフル稼働させて記憶を手繰るが、なかなか答えを引き出せない。
そうするうちに、三番線に電車が滑り込んできた。乗り込んだ女性は、四番ホーム側ドアの窓付近に立つ。女性の顔を正面からはっきりと見ることができた。彼女は伏せ目がちで軽く腕を組んでいた。
あっ。
思わず声を上げてしまって、思わず回りに目をやる。誰も私など気にも留めていない。
――あの人だ。出会った頃にあの人にそっくりだ。
顔はもとより全体の印象まで、出会った頃の妻によく似ている。
――そうか……。
今では、育児に追われて、すっかり細くなってしまったが、昔は丁度あんな感じだった。懐かしさと共に当時の感情までもよみがえ甦ってきた。
――結婚記念日には少し早いが……。
腕時計に目をやる。未だ駅前の花屋は開いている時間だ。
電車が動き出した。私は、電車の揺れに体を任せた。
向かいのホームに停まっている電車に思いを残したまま……。
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