見出し画像

【ショート・ショート】電話

「もう着いたかしら」
 陽子は、空を見上げながら、呟く。

 まだ心に大きな穴があいたままだが、陽子は幾分心の落ち着きを取り戻してきた。
「骨は海に流してくれ」
 そう言われても、いつ流していいのか分からない。何の根拠もないまま、四十九日目のその日、夫の骨を海にいた。

 夫の田舎は九州の海辺に面した小さな町である。何度か一緒に行ったことがある。夫は、ここ数年ですっかり様変わりしてしまったとなげいていたが、陽子には、自然に包まれて、近くには温泉もある、落ち着いた静かな町という印象がある。
 上の子が中学生になった頃、夫は私に言ったものだ。
「子供たちが独立したら、退職して田舎に帰り、喫茶店でもやってのんびり暮らそうと思うんだ。俺が偏屈で無口なマスター、おまえがおしゃべりで陽気なママ。それでどうだ」
 そのための準備も少しづつ始めていた。夫は調理師の免許も取った。資金もだいぶ貯まった。休日には街に二人で出かけ、これと思う店に入っては、そこのインテリアや雰囲気を観察し、夢をふくらませていった。
 食器棚には、二人で少しづつ買い求めたコーヒーカップが所狭しと並んでいる。

 その全てが、夫の病死とともについえた。

 縁側に置いたテーブルで、お気に入りのカップでコーヒーを楽しむ。夫がいつも座っていたロッキングチェアにもたれながら。もっとも、夫が入れてくれたコーヒーは、もう少し苦めで、もっとこくと香りがあった。同じ豆のはずなのにこうも風味が違う。
 ――あのコーヒーの入れ方を習っておくんだったわ。
 陽子は、両手でカップの熱と香りを味わいながら、そう振り返る。

 夢は叶わなかったけど、夫と歩いた人生は幸せだったと思う。

 電話のベルが鳴っていた。縁側に居たから、しばらくの間、それとは分からなかった。急いで受話器を取り上げる。
「ああ、俺だ。今着いた」
 何度となく聞いてきた声だ。心配性の私をあんさせるために、夫はいつも出張や一人旅の時は、出先から電話を寄越したものだった。
「早かったわね。そちらはどう」
「うん、いい天気だ。そっちも変わりないか」
「ええ。いつもと同じ」
「そうか。じゃあな」
「また明日ね」
 たったそれだけの電話で安心する。

 いつの間にか居眠りをしていたらしい。夢を見ていたようだ。

 私も骨は海に流してもらおうかしら。さっき見た夢の中の、夫がいる田舎の町で、私ものんびり暮らしてみたいわ。
 
 すっかり冷めたコーヒーをすすりながら、陽子はそう思った。

よろしければサポートお願いします。また読んで頂けるよう、引き続き頑張ります。