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美緒


「おめでとうございます。ちょうど5か月に入ったところですね。お大事になさってください。」

「……あ、ありがとうございます。」

「なにかお困りごとはありませんか?」

「…… いえ、特には」

「そう?はじめて、ですね。まだ実感がないですよね。それでは、何もなければ、1か月後、来月の第3水曜日に予約しておきますね。」

「あ、はい。お願いします。」

 美緒は、胸の高鳴りが聞こえるかもしれない恐れを悟られぬよう、汗ばんだ手のひらや、少し震える指がCTでその形をくっきりと映し出した胎児の画像の紙片を落とさぬよう、ゆっくりと立ち上がり、落ち着けと自分に言い聞かせながら、バッグをつかみ、幸福な妊婦に喜んで手を差し伸べる少しぽっちゃりした中年女性である産婦人科医の方を向いて、やっとの思いで笑顔を作り、お礼を言って診察室を出た。

 妊娠は、いいことなのだ。でも、それは妊娠がその親になるはずの二人にとって、待ち望んでいた場合に限る。
 相手は誰だか決まっている。しかし、どうして出来てしまったのだろう。細心の注意を払っていたはずなのに、迂闊だった。

 美緒は社会人一年生の時、まだ学生だった一つ年上の功貴と4年ほど前に付き合いはじめた。それから2年どたったある日、終電を忘れるほど話し込んだ二人はその日から、そのまま美緒の部屋で同棲を始めた。

 二人とも、結婚の話はしたことがなかったが、一緒に出掛けた公園や、ショッピングモールで家族連れの赤ちゃんを見て優しそうに笑ったりするのをみると、この人と結婚すると、幸せかも。と思ったりもした。

 帰るところは同じ部屋、一緒に起きて寝て食べて遊んで、先のことは考えもしないで毎日がデートみたいで楽しかったけれど、出かけた先で「奥さん」と呼ばれると少しうれしいわたしと、そのことに関心を全く示さない彼の気持ちを測りかねてもいた。

「あー、疲れた。ったく、クソ部長が!」

「おかえり。」

「聞いてくれよ、美緒。今日めちゃめちゃ忙しくてさ。でもさ、俺的にはちゃんと計画立てて、午前中は○○社に売り込みに行って、その足で隣駅の○○社に納品に行って、午後は○○まで行ってってやる気満々だったのに、
朝一番に、部長が○○社まで行って、新しい案件の打ち合わせをしてきてくれ、俺は緊急の会議があるから、って。しかたがないから、○○社まで1時間半かけて行ったら、相手は留守でさ。用は足りないし、自分のお客さんにはやっとアポ取り付けて会ってもらうことになったのに、また振り出しだよ。ちくしょー」

帰るなり、いっきにまくしたてる功貴の話をぼんやり聞きながら、頭がぼうっとしてきて、思わずその場でしゃがみ込んでしまった。

「あの部長の部下でいる限りは、きっとずっとこんな感じで続くんだろうな。もう、無理だよ。俺、もう辞めよっかな、会社。…美緒、聞いてる?」

「…」

「美緒?どうしたの?」

「あ、ごめん。ちょっと頭痛くて。…先に寝てもいい?」

「そうなんだ……。そうだな、寝たほうがいい。」

 功貴の愚痴を聞いてやる余裕もなく、ほっとしてベッドに入ったが、どう切り出したらよいものかと考えをめぐらせていると、頭が冴えて、なかなか寝付けなかった。


「河合さん、どうした?」

「え?どうかしました?」

「いや、なんか元気ないっていうか、動作にキレがないっていうの?顔色もよくないし。」

課長に指摘されて、知らず知らず動作が鈍くなっていることに気付いた。

「いえ、ご心配ありがとうございます。この前ジョギングで調子に乗って走りすぎたかな。筋肉痛なんですよ。無理したつもりないけど、風邪気味みたいだし。」

「そうか、それならいいけど。いくら若くても無理は禁物だよ。」

「ありがとうございます。」

自分の席に戻ると、同じ課の山本さんと目が合った。

「風邪気味?今日は帰ったら?」

「でも…。」

「本当に風邪気味ならいいけど、大丈夫?」

「どういう意味ですか?」

「いや、なんか私の妹と似てるもんだから。」

「妹さん?似てますか?」

「うーん、顔形じゃなくて、その…」
「私の妹ね、まだ結婚してなかったとき、妊娠しちゃって。わたし、実家住まいなんだけど、妹もそうだったから、一緒に生活していたわけ。いまだ独身の私は妊娠の経験もないけど、妹のその時の様子が河合さんと似てるのよ。妹は妊娠が分かって、すぐに入籍して、今その辺のアパートで新婚生活始めたの。」「あ、ごめんね。一人でペラペラ余計な事しゃべって。具合悪いのに。」

「あ、いえ、平気ですよ。ただ風邪気味なだけですから。」

「それならいいんだけど。ホントごめん。とにかく気を付けてね。」

誰にも相談できないこのことを、会社の、しかも同じ課の山本さんには知られてはいけない。

結婚が現実のことでない限り、おめでたいはずの妊娠は、美緒にとって不安であり、負担であった。


「今日、飲みにいくから、夕ご飯いらないわ」

「OK」

功貴からのラインに、誰と?とか何時に帰る?とか余計な質問はしない。
結婚をしていない以上、私たちは自由な関係だったし、暗黙の了解だった。

でも……、と美緒は思う。。。
結婚したら、誰と?って聞いていいよね?と。
今夜だって、飲みに行くのは合コンかもしれないし、そうじゃなくても女の子が混じっているかもしれないのだ。もちろん自分も会社の飲み会や、友達との付き合いで合コンにも行ったことはある。

一緒に住んでいる、それだけで、私たちはお互いが特別な存在と思っていた。たとえそれが結婚に向かってつづく道の途中でなかったとしても。

その晩、功貴は帰ってこなかった。


美緒が誰にも妊娠を告げられないまま、1か月が過ぎた。

「順調ですよ。体重の管理もちゃんとできてるし、優秀なお母さんですね。」

「……ありがとうございます。」

そうか。お母さんなんだ、わたしは。
唐突に、お母さんと呼ばれた美緒は、不思議な気持ちに包まれて、おなかの中の小さないのちが急に愛おしく思われた。その瞬間に美緒は作り笑顔ではなく、こころから微笑んで一礼し、診察室を出た。

「今日、ごはん食べにいこう」
「いいよ。どこで?」
「カナリア軒はどう?」
「へー、それはまた豪勢な」
「じゃ、7時に待ってるから」
「オッケー」

カナリア軒?急にどうしたんだろう。
若い二人には、めったに行けない老舗の高級洋食店の趣があり、上品な初老の婦人が店主のその店にはもうずいぶん行っていない。たしか、功貴の先輩が誘ってくれて、三人で食事をしたのだった。

「美緒が想像したとおり、実は話があるんだ。」

「やっぱり?実はわたしのほうにもちょっとしたサプライズがあるの」

「え?なになに?」

「いいから、そっちから言って。」

その時、ボーイさんが前菜を運んできて静かに二人の前に皿を置き、一礼してからテーブルを離れた。

「実は前からあの会社辞めたいって、言ってたろ?俺」

「え?そうなの?」

「そうなのって、俺、よく愚痴ってたろ?部長のことで。」

「ああ、そうね。」

「で、俺、今日辞めてきたんだ。」

「は?マジで辞めたの?次、どうするの?え?うそでしょ?」

ボーイさんにまで聞こえるような大きな声を出してしまった。

「声が大きいよ」

「ごめん」

「これからのことは、先輩が相談に乗ってくれて、まだ本決まりじゃないんだけど、転職するんだ。」

「そうなの?いつから?」
「まだ、本決まりじゃないんだってば。でね?ここからが本題」

「ここから?いったい何よ。」

「実はその転職先、島にあるんだ。」

「島?島って佐渡ヶ島とか淡路島とか?」

「そうその島。けど、そこまで大きくない。」

「どこ?」

「石垣島」

「え?沖縄じゃん」

「そう。遠いでしょ? 美緒、行けないよね?」

「急に言われてもねえ」

「いいんだ。俺一人でいく」

おいしいはずの前菜の味が全然しなかった。

水を一口飲んで、一息入れた。

「なんの仕事?」

「塩」

「塩?」。

「そう、先輩の会社の取引先なんだって。石垣島は塩が有名で人気があるんだけど、人材不足で、後継者がいない。だから、おじいさんになった経営者が商売をやめてしまう。」

「それで後継者?」

「そう。なんかね。都会がいやになったってか。」

「いやになるほど、都会にいないよね?」

「学生のときから含めると7年かな?」

「仕事をして三年でしょ?それは都会がいやになったんじゃなくて、仕事がいやになったんでしょ?」

「そうかもしれないな。そういや、美緒の話って?」

「うーん、なんか話づらいな。」

「なんだよ。人にさんざん話させておいて」

「それはあんたが話したかっただけでしょ?」

「いいから、話」

「あ、えっとね。」
「……できたの。」

「え?」

「だから、出来たの、赤ちゃん」

「誰が?」

「誰がって、わたしに決まってるでしょ?」

「へ?ってことは俺?」

「そうね」

「えー?えー?えー?」

「そんなにびっくりする?」

「だって」

「そうね。ちゃんと、出来ないようにしてたよね。でも、出来ちゃったの。」

「………。俺、無理だよ。」

「知ってる」

 それからのディナーは何を食べたのかも覚えていない。
せっかく高いお金を払うのだから、残しちゃいけない。
せっかく作ってくれたのだから、ちゃんと食べなきゃいけない。
そんなことばかり考えて、涙をぬぐいもせずにただただ食べた。
めったに食べられない、贅沢な最後の晩餐を味わう精神状態ではなく、最悪の結末。カナリア軒で食べようと言ったのは、彼。払うのはいつも通りわたし、であれば良かった。むしろ、いつも通りに払いたかった。それなのに、払ったのは彼。きっと、本気なんだ。

 私たちは自由だった。精神も行動も、法律にも縛られない、どこにでもいる同棲中のカップルなのだ。結婚を約束したわけではなかったけど、ぼんやりと先にそういうゴールがあるはずだと私は思っていた。だからこそ、まるで、主婦のように家事全般はわたしの担当になっていたし、家賃は折半だったけど外食するとなぜか家計を預かる主婦みたいに支払いは私がしていた。

 彼から結婚の話を切り出されたことはなかった。でも私は彼に肩を抱いて欲しかった。産まれてくる私たちの赤ちゃんのために、少しの我慢で会社を続けられるのなら、そうして欲しかった。子供が出来たなら、結婚しようと言ってくれると、普通に期待していた。それなのに、沖縄の塩?

何を言っているの?自分だけ自由のまま?私はどうなるの?

私は同棲の末に、こどもが出来ても望まれず、捨てられるの?

 とりとめのない考えが頭をぐるぐると巡るだけで、少しも眠くない。目を閉じると悲観的なことだけが思い浮かんでは消える。私はこの子を望まれない子供になんかしたくない。
 泣いてる意識はなかったのに、体が泣いている。涙って、こんなに出てくるんだっていうほど泣いた。泣くのをやめようとは思わなかったしやめたくなかった。泣きすぎて、しゃっくりが出た。嗚咽が漏れてもかまわない。

 子供が出来て、どうしてこんなに悲しまなければならないのだろう?   いやだ、絶対に産むことを諦めたくない。一人でだって育てられる。
この子を殺すことなんて、出来るわけがない。泣いて、泣いて、泣いて、涙がなくなってしまうかもしれないと思う頃、窓の外がほの白くなってきた。夜通し泣き続けたわたしは、あることを決意した。
これは、きっと不幸な結末なんかじゃない。

つまり、彼がその人じゃなかった、っていうだけの話だ。
この子は、愛の中で授かって、わたしが望んで育てるのだ。

それでいい。それが、いい。


 昨夜のカナリア軒は、彼にとって私と別れるために選んだ場所だった。
お店を出て、胃の中も、彼の言葉も未消化なまま、私はめまいがしそうで立ちすくんでいた。


 先にお店を出て私を待っていた彼は、自分の夢に向かう高揚感を隠しきれない、興奮気味の表情を水銀灯に照らされて、何か言った。

「あのさ、美緒、俺、きっとその子の親にはなれない。」
「だから、その…。産まないでほしい。つまり……。」

「堕ろしてくれないか。」

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