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少年と少年  第1話

1945年、夏の事です。
8月6日、僕は朝、6時に家を出た。
僕の家は日本国、広島県佐伯郡大野。
僕の名前は川口ゴロー。
年は13才。
大野は広島市の西、約25キロのところにあるのどかな所だ。
目の前に美しい瀬戸内海が広がり、対岸にはあの日本三景のひとつ安芸の宮島を望むことができる。気候も温暖な上、瀬戸内海の恩恵を受け、農業、漁業に適し、人々はゆったりと暮らしていた。国鉄山陽線が海岸の側を走り、広島に出るのも便利だ。
 
僕は広島市内にある松本工業中学の1年。僕の家族は 祖母、父、母、兄弟は3つ年上の兄から始まり、8歳と6歳の妹、そして1歳の弟、僕も含めて全部で8人。そして僕の家には、神戸から疎開してきた従姉妹たちが同居していたので、まるで学校の寮のような大世帯。みんなで目の前の海で泳いだり、魚を取ったり、それを食卓で分け合って食べ、家の中は笑い声が絶えず、時にはケンカもし、なんともにぎやかだった。
僕は、オチャラけるのが好きだった。妹たちが歌って踊っていると一緒に踊ってやった。一番得意だったのは「雪やこんこん」の踊り。ほとんど雪が降らない広島なのになんで「雪やこんこん」か?って。だから面白いんだ。雪をあまり見たことがない妹たちに想像させるんだ。まあ妹たちは雪を見たことがないから適当にやっても分からない、と言うことだ。
妹たちが踊っていると
「だめだめ!雪を受けられるように手のひらを上に向けて」
とダメ出しまでしてやった。僕は動物好きでウサギの飼育に夢中になっていた。僕の好物はおはぎ。特にバアちゃんが作ってくれるおはぎはうまかった。得意科目は数学。計算が好きでいつもソロバンをいじっていた。
 
 僕が通っていた松本工業中学は、実は、1年前までは「松本商業中学」だったのだが、「戦争には商業より工業が大事」という国の政策で、いきなり「松本工業中学」になった。僕は得意のソロバンをやりたかったから残念に思ったが、お国のためには仕方がなかった。松本工業中学は広島駅の北側、繁華街とは反対側にあった。 
朝6時に家を出た僕は、いつものように、国鉄大野浦駅で同じ学校で同学年の佐藤や山本と合流し、汽車に乗った。
朝早いので汽車はすいていて、向かい合わせの席が空いていたのでそこに3人で座った。席に座ると野球部に入っている佐藤が言い始めた。
「いつになったら、甲子園がはじまるんじゃろうか?夏はやっぱり甲子園じゃ」
戦争がなければ全国中学校野球大会(戦後の高校野球)を甲子園でやっている時期だった。
「そうじゃのぉ、もう3年もやっとらんな。戦争が終わったら始まるさ」
山本が励ます。佐藤は
「戦争はいつ終わるんじゃ?わしらが中学生の間に終わるんじゃろうか?わしも甲子園行きたいなあ」
と、真剣に言う。それに対し、山本はケラケラ笑いながら
「そりゃ無理無理、戦争が終わってもそりゃ無理。広商(広島商業)に勝てるわけないじゃろう」
とあざ笑った。しょんぼりする佐藤に僕は言った。
「確かに広商は強い。でも4年前の大会で広商に5対8まで迫ったじゃないか?」
山本は追い打ちを掛ける。
「はは、でもたった2回戦で敗退。広島に広商がおる限り甲子園はあきらめな。無理無理」
僕はそこまで言わなくてもいいだろう、と
「勝負は分からん。まぐれと言うこともある」
と佐藤の肩を叩いた。佐藤は
「まぐれかよ?」
と、よけいにしょんぼりしてしまった。僕は
「まあともかく、日本は必ず戦争に勝つ。戦争に勝つたらバンバン野球ができるでぇ。そしたら甲子園も復活じゃ」
と叫んだ。近くの大人が咳払いをした。そして
「野球よりも戦地におる兵隊さんの事を考えろ!」
と声が飛んできた。みんな首をすくめて黙った。
 その夏の日は、海は穏やかで、さわやかな海風が汽車の窓から入って来る。日本がアメリカと戦争を始めて3年半、東京や大阪はひどい空襲で焼け野原になっていたけれど、この瀬戸内の町や村は、戦争中とは思えないほどのどかな風が流れていた。広島の町もなぜか他の都市のような空襲を受けることはなかった。
でもやはり日本中が戦争だった。
僕たちは、その頃の日本の少年、少女達のほとんどがそうだったように、鬼畜米英、つまりアメリカやイギリスを鬼であるかのように思い、全滅させる事を望んでいた。そして、日本が戦争に勝利し、アジア人全員に日本語を話させ、アジア全部が日本になり、ヨーロッパやアメリカなどの大国から守らなければならない、そしたら平和な世界を作ることができる、と固く信じていた。
 しばらく黙った後、山本がひそひそ話を始めた。
「ところで今日の弁当はなんじゃ?」
僕と佐藤は
「弁当?」
と声を合わせて聞いた。
「そうじゃ、弁当」
山本が嬉しそうに言う。僕は
「いつもの玄米飯にたくあんと梅干し」
と答える。佐藤は
「玄米飯に芋」
と答える。山本は
「ちいと見しちゃろうか?」
と弁当の蓋を開けた。僕と佐藤は
「おーっ」
と声をあげた。山本は
「シーっ」
唇に人差し指を縦にあてた。
山本の弁当箱にはうまそうな穴子がずらりと並んでいた。
「『「上野屋のあなごめし弁当』よりはちいと落ちるけどな」
山本が言う。
「どうしたんじゃ?これ」
佐藤がつばを飲み込みながら聞く。
「婆さんがな。知り合いの漁師から手に入れて、作ってくれんさった」
穴子弁当は宮島の名物だった。宮島周辺の海から採れる穴子は身も厚くうまいと評判で戦争が始まる前は、各地からおおぜいの人が穴子を食べに来た。特に宮島口の駅前にある「上野屋のあなごめし弁当は」は絶品だった。でも戦争が始まると、穴子漁師たちが次々に戦争に行ってしまい、あなごめし弁当は途絶えてしまった。一般の家庭でも穴子はめったに食べられるものではなくなった。
「今日は暑いけぇ、腐るといけんけぇ、3人で分けて作業の休憩時間に『早弁』しような」山本は言う。
「ええのかよ。わしらももろうてしもうて」
佐藤ははまたゴクンとつばを飲み込んだ。
「もちろんじゃ。わしらは『松本工業汽車通の友』だ」
と山本は胸を張る。僕は
「じゃあ今日も張り切って『仕事』しよう」
言った。その時だ。汽車がガタンと音をたてて止まった。
「おい大丈夫かよ。今日遅れたら憲兵さんに又怒られるでぇ。休憩時間も働かされて穴子弁当どころじゃのうなるでぇ」
と佐藤が心配そうに言う。僕たちがその日向かっていたのは学校ではなかった。
建物疎開のため、家の取り壊し作業の現場に向かっていた。建物疎開とは空襲があった時に火が燃え移り、町が焼き尽くされないよう、家を壊し空き地を作る事だ。その日の建物疎開は県庁近くの水主(かこ)町と指示が出されていた。
 このまま汽車が動かなかったらどうしよう、と心配したが、しばらくしたら動き出した。
僕らはホッと胸をなで下ろした。もし遅れたら、「汽車が遅れました」ではすまない。「なぜもっと早く家を出ない?」と憲兵さんのビンタが飛んでくる。
 ホッとして外を見ると、瀬戸内海の美しい島々が海に浮かんでいた。大きな江田島、呉の方向に似島、そして可愛らしい弁天島。おとぎの国のようなのんびりした島々が夏の光を受け、キラキラと輝く海の上に浮かんでいた。
雲ひとつ無い快晴。素晴らしい夏の日だった。
                  ∞
8月6日、オイラは、朝と言うよりまだ真夜中、午前1時45分に出発した。
オイラはアメリカ国ニューメキシコ州ロスアラモスというところで生まれた。ニューメキシコ州はその名前の通り、メキシコと国境を接した砂漠地帯。よく西部劇に出てくる巨大なサボテンが砂漠の中に人の群れのように立っている。その砂漠の中に「ロスアラモス研究所」という施設がある。オイラはそこで生まれた。オイラは「リトルボーイ」と名前が付けられた。そう
「小さな少年」。
オイラは真っ暗な中、テニアン島を出発した。
テニアン島は日本から、ほぼまっすぐ南に約2、700キロ行ったところにある島。近くには有名なサイパン島がある。
 オイラは大きな飛行機に乗って出発した。オイラの乗った飛行機の名前は「エノラ・ゲイ」。これは機長のティベッツ大佐のママの名前だ。オイラと一緒に乗っているのはティベッツ機長の他に副操縦士のルイス、爆撃手のフィヤビー、レーダー技師のビーザーなど十一名。
 オイラの行く先は、日本の広島、もしかしたら小倉か長崎。まだ決まっていなかった。
オイラはティペッツ大佐のママのお腹の中に、大切に抱かれていた。
飛行機に乗る前、ティベッツ大佐が、オイラの頭をなでて言った。
「少年、頑張れよ。お前がこの戦争を終わらせるんだ。お前はこんなに小さいけれど普通の爆弾の何万倍もの力を持っている。お前一人で日本の軍隊を全滅させることができるのだ。日本の軍隊は600万人ものユダヤ人をガス室に送り、子どもも女性も容赦なく虐殺したあの悪魔ヒットラーの仲間だ」
オイラは戦争を終わらせることができると思うと嬉しかった。軍都広島にいる日本の軍隊をたった一人で攻撃するのだという。
20世紀最高の頭脳を持つと言われるアインシュタイン博士が、オイラを作るための公式を生み出し、そこに科学者、技術者、政治家、大統領が関わり、そして、何よりも多くの人々の「戦争を終わらせたい」との思いが後押しをしてオイラは誕生した。
でも、オイラがどんなものか、オイラが爆発したらどんなことになるか、誰も、まったく分かっていなかったようだ。
オイラを運ぶ十一人の男達も、オイラのことはほとんど知らなかった。機長が説明したのは、「非常に強力で戦争を終結させる力を持っている爆弾」ということだけだった。
でも、出発前、従軍牧師のダウニーが、今回のために特別に作った祈りの言葉を唱えた。
「全能の神よ。彼らをお守りくださるように祈ります。そしてあなたのお力に助けられて、彼らが戦争を早く終わらせることができますように」と。
普段の攻撃ではそんな事はしない。男達は何か特別な、もしかしたら恐ろしいことが起きる、と予感した。
 
テニアンから日本まで6時間ちょっとの飛行時間だ。
午前5時、日の出とともに硫黄島が見えてきた。真っ青な海の中に茶色の硫黄島が浮かんでいる。ティベッツ機長は硫黄島に向け敬礼した。2月から3月に行われた硫黄島の戦いではアメリカ兵6000人が犠牲になっていた。
機長は
「必ずカタキを取ってやるからな」
とつぶやいた。占領した硫黄島の基地にはエノラ・ゲイに何かあったときのためにアメリカ軍の飛行機が待機していた。
 硫黄島を過ぎたところで、後からテニアン島を出た2機の観測機が合流、Ⅴ字編隊で日本に機首を向けた。
海は青く輝いている。
素晴らしい夏の日だ。
しばらくすると、先に広島上空に向かっていた気象偵察機「ストレート・フラッシュ」号から暗号通信が入った。
「広島の天気は快晴」
それを無線通信士のネルソンが受取り、機長に報告した。
ティベッツ機長は気合いを入れた声で機内に告げた。
「広島に決定だ!」
             ∞
ふたたび動き出してくれた僕達の乗った汽車は広島の町に近づいて行く。町に近づくと次第に乗客が増えてきた。
僕は
「おおぜい乗ってきたけぇ立とうか?」
と佐藤と山本に声を掛けた。山本が
「そうしよう。じゃあデッキに行こうぜ」
と席を立った。
デッキに行くと、開けっぱなしになっている乗降口から、潮風がいっぱい吹き込んでくる。
「おー気持ちええ。やっぱり夏はデッキがええ」
と佐藤が言った時、
「おはよう、ゴロー君」
と声がした。ビックリして反対の昇降口を見ると一人の少女が笑っている。家が近くで尋常小学校2年まで同じクラスだった畑山恵子さんだった。恵子さんとは、小さい頃よく一緒に遊んだ。高学年になってクラスも別れたので、あまり会うことがなかった。恵子さんの市女(広島市立第一高等女学校)の制服がまぶしかった。襟の所に小さな花の刺繍のアップリケがついていた。恵子さんは僕に向かい大人びた声で
「元気?」
と言った。僕は
「うん」
と答えた。
佐藤と山本が興味津々に僕と恵子さんを交互に見つめる。僕は恵子さんに
「同じ松本工業の山本と佐藤」
と紹介した。そして
「こっちは畑山恵子さん。家近所で尋常小学校の同級生」
と紹介した。恵子さんは
「学校はどう?楽しい?」
と聞いてくる。
「うん楽しいよ。そっちは?」
と聞くと、
「楽しいけれど、毎日毎日こう取り壊し作業ばっかりじゃね。もう疲れちゃった」
「女学校もやっとるんじゃ?」
と僕は聞く。
「やっとるなんてもんじゃないよ。今日もホントは朝7時集合よ。私は汽車通で家も遠いのでちょっと遅くしてもろうたの。昨日は水主(かこ)町、今日は木挽町(こびきちょう)だって」
すると佐藤が
「わしら今日、水主(かこ)町」
と口をはさむ。
「あっそう、あそこは大変よ。歴史ある大きな家が沢山あるから」
と言う。そして恵子さんは外の景色を眺めながら
「早く学校で勉強したいね。せっかく女学校に入ったのに4月から授業らしい授業しとらんもんね。早く戦争終わらんかな。もう勝っても負けてもどっちでもいいよ」
と言う。僕はビックリして
「ダメだよ、そんなこと言うちゃ。誰かに聞かれたら大変じゃ」
と言った。恵子さんは
「大丈夫、ここはデッキだから。あんた達さえ喋らんかったら。このあいだ、うちのお父さん警察に連れて行かれたって知っとるじゃろう?」
と厳しい目つきで僕に迫る。一ヶ月ほど前、恵子さんの父さんが「戦争に反対した」と言うことで警察に連れて行かれ、一週間ほど拘留されて帰ってきたという話は町中の噂になっていた。恵子さんは語気を強くし、
「あれは家で子ども達に向かって『この戦争は勝てんかもしれん』と言うただけなんじゃ。それを、横丁の婦人会のおばさんが盗み聞きして告げ口したんじゃ。お父さんは戦争に行ってケガして帰ってきてお国のために頑張ってきたのに、ひどすぎると思わん?」
今にもかみつきそうに食ってかかった。僕は何も言えなかった。佐藤も、山本も黙って、恵子さんの言葉とその言葉に対する僕の反応を楽しむかのように交互に見ていた。恵子さんはまくし立てた後、ちょっと落ち着き、
「それにしても今日も暑うなりそうだね」
と言い、汽車がちょうど広島駅に着いたので、
「じゃあね。頑張ってね、愛国少年達」
と言ってさっさと飛び降りて行ってしまった。僕は、同じ年とは思えない幼なじみの恵子さんの大人びたものの言い方に圧倒されていた。佐藤と山本は、恵子さんのさっそうと歩いて行く姿を「ポカン」と口を開けて見ていた。 
           ∞
硫黄島を過ぎるとそこから先、島らしい島はない。今度見えてくるのは日本本土だ。
エノラ・ゲイの振動が、緊張の震えに感じる。
ティベッツ機長が言う。
「まもなく日本の四国に入る。ここには監視所や高射砲基地が沢山置かれているのでとても危険だ。4日前も東京を攻撃していたB-29が日本軍の高射砲にやられた。日本の高射砲は高度6000メートルまでしか届かないと言われているが、最近、1万8000メートルまで撃てるモノができたという情報もある。また、日本の高射砲は何十機もの編隊には撃つが、単機は偵察機だと思って撃ってこない、とも言われている。でも充分に注意しろ。もし撃墜されて捕虜になったら、ピストルで自分の頭を撃て、日本の軍隊の拷問はナチスなんてモノじゃない。残酷極まりない。そんな拷問にあいたくなかったら自分で命を絶つことだ。それに、この『小さな少年』のことは絶対に日本軍に知られてはいけない」
機長の言葉に、みんなようやく、今回の任務の重大さを感じ取っていた。
 エノラ・ゲイと偵察機2機は高度8000メートルで静かに広島に向かっていた。眼下には日本の美しい緑の山々が広がっていた。その時、コックピットの右側に座っていた副操縦士のルイスが突然言った。
「富士山だ」
右はるか向こうに、富士山が朝日をいっぱいに受けて、裾野を広げ、美しくそびえていた。
ティベッツ機長もみんなが小さな窓から富士山を見た。
「美しい」
ティベッツ機長が言った。
オイラはこんな美しい国がヒットラーのような悪魔と仲間の国とはとても思えなかった。
みんなが富士山に見とれている中で、レーダー士のビーザーだけは、気が気でなかった。
「完全に追跡されている」
ビーザーはつぶやいた。さっきから、日本軍のレーダーがずっとエノラ・ゲイを追いかけているのだ。それも、一カ所からだけでない、何カ所もからレーダー照射されている。ピーザーはティベッツ機長に知らせるべきか、迷った。でも、これから大勝負にでるときにみんなを不安がらせてはいけない、と黙っておくことにした。エノラ・ゲイはいつ高射砲を浴びてもおかしくなかった。
 
恵子さんに圧倒され、のぼせてしまった3人は、ボーッとしながら駅を出て、学校の方角とは反対の出口からでている路面電車の宇品線に乗った。木挽町(こびきちょう)と水主(かこ)町は同じ路線なのでまた、恵子さんに会えるかと思ったが、僕達が乗った路面電車の中に恵子さんの姿はなかった。ひとつ前の電車で行ったのだろうか、それとも歩いて行ったのだろうか?木挽町まで歩いたら30分はかかる。
「チンチン」
と音を鳴らし路面電車が走り出した。
路面電車の車掌は、僕らと同じくらいの女学生だった。女学生は広島電鉄家政女学校の生徒たちだという。その女学校は大人の男たちが戦争に行き、運転士、車掌が足りなくなったので女性の乗務員を養成しようとして作られた学校だった。「勉強をしながら給料がもらえる」ということで、貧しさなどで普通の女学校へ行けなかった少女たちが学んでいた。
彼女たちは、キップ代やお釣りを入れたポーチを腰に付けて
「乗車券をお持ちでない方はお買い求め願います」と、呼び掛けていた。僕らも10銭を出して切符を買った。すると女学生車掌が僕達の胸に付けていた名札を見るなり、いきなり
「松本工業?」
と聞いてきた。
「はい」
と僕が言うと
「ウチのお兄ちゃんも行っとるよ」
と言う。3人は
「ヘー」
声を合わせて言った。すると彼女が
「野球部の川島って知っとる?」
と切符にパンチを入れながら言う。佐藤が即座に反応した。
「川島先輩の妹さんか?わしも野球部」
と言う。
「あっそう。兄にお金がかかるけぇ、うちゃ寮に入って、勉強しながらお給料もらえる家   
政女学校。ええわね、男は。でもお国のためじゃけぇの。頑張ってね。今日は建物疎開?」
「そう、水主(かこ)町」
佐藤君が嬉しそうに言う。
「兄も行くんじゃろうか?」
「お兄さんは3年何組じゃったっけ?」
佐藤が聞く。
「B組言いよったけど」
「じゃあ、たぶん一緒じゃ。一年生だけでは頼りないけぇ、3年生からB組だけが、建物疎開をして、A,C組は工場でエンジンを作る言いよった」
佐藤の声は益々元気になってくる。
「ふーんそうなんじゃ。早う野球ができるといいね」
と言う川島先輩の妹さんのひまわりのような笑顔に佐藤は顔を真っ赤にしながら
「はい」
と答えた。川島先輩の妹さんは切符を渡すと
「次は稲荷町、稲荷町、お忘れ物ないようお降りください」
と透き通る声で言いながら、前の方に行ってしまった。
路面電車宇品線は紙屋町の交差点を左折して、海の方に向かう。左折するときに向こうに盛り上がった相生橋が見える。相生橋は橋の中央から橋桁を中州の中島に伸ばしT字型になった不思議な橋だ。日本中探してもこんな橋はほとんど無いらしい。
川島先輩の妹さんは降りるとき僕達3人に手を振り、ニコッと笑ってくれた。
今日は、なんだか、女子と話ができるいい日だ。3人ともそう思った。
僕達は路面電車を降り、元安川にかかる明治橋を渡り水主町に向かった。元安川は
朝日に水面をキラキラ輝かせ海に向かっていた。
「なんて美しい川だ」
そう思った。
             ∞
静かだった。テニアン島から6時間あまり続いているエノラ・ゲイのエンジン音だけが同じリズムで鳴っているだけだった。
何の反撃もない。エノラ・ゲイに限らずB-29爆撃機は爆弾搭載量を増やすため、後部以外の機関銃を撤去して丸腰だった。だから、もし日本の高射砲の砲弾が8000メートルまで届くように進化していたとしたら、ひとたまりも無い。
四国上空に入ったティベッツ機長は不安で仕方が無かったが、今のところ、何事もなく四国上空を通過できている。日本の防空能力もたいしたものでない、と思った。それと、何度も偵察機を飛ばし、「単機では爆撃はしない」と思わせ続けたのが功を奏したのかもしれない。日本人はきめ細やかところもあるが、時々楽観的で「神風が吹いてなんとかなる」と思うような大ざっぱなところがあると、聞いたが本当にそうかもしれない、とつぶやいた。四国を過ぎると沢山の島が浮かぶ瀬戸内海が見えてきた。
ここも美しい。時間は午前8時ちょうど。そろそろだ。
 
 

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