【短編小説】 半身
リクへと、思い切りナイフを振り下ろすと、ぎゃっと恐ろしい声がして、どくどくと赤い血が流れ出て、彼はぴくりとも動かなくなった。
よかった、マナはほっとして、その場へばたんと倒れ込む。頭がぼうっとして、目が霞む。そのまま眠るように目を閉じながら、これできっと良かったんだと、安堵の中でそう思う。血溜まりが、マナを包み込むように広がっていく。
この罪は、彼女が犯し、償う、初めての罪。そして、恐らくは最後の罪。生まれたときから一緒だった、リクの命は絶えてしまった。そして、それは同時にマナの命が絶えることでもあったのだ。
とはいえ、彼女がそれに気づいていたか、それは彼女自身にしか分からない。他人から見れば明らかなことも、当人には曖昧なことは多くある。その上、真実ということになれば、それは深い闇の中、客観も主観もただそれを構成するものの一部でしかなく、人の手には届かない。それぞれが理解できるもの、納得がいくというものを切り取った、欠片を大事にしているだけ、例えば、鳥という全体の、羽を手にしているだけなのだ。それが目の玉や胃の一部なら、鳥という特徴が理解できない、納得できないと、その人がそう思う故。
そこでリクとマナの話に戻れば、二人は生まれたときから一緒だった。それを言うなら、「物心ついたときから」というのが正しいのではあるまいかと、そう思う他人がいても、いや、生まれたときから一緒にいたのだ。そして、これも他人に理解はできまいが、二人には決まりごとがあった。例えて言うなら、マナが光の部分で、リクは影の部分、具体的には、マナが犯した間違いや罪はマナのものではなく、すべてリクが自分のものとして背負うという決まりである。
それがなぜなのか、不公平ではないのかと問われても、二人には分からない。なぜって、光は光、影は影、光は得で、影は損ではないかと言われても、これが生まれながらの役割だ、そう答えるほかはない。そもそも、例えではありながら、光であることの何が得だろう、影の何が損だろう、マナの罪を、リクが贖うということは、二人の間で当然だった。光と影、そういう例えで言うのなら、マナは善良で、リクは悪だったのだから。
そもそも、善良なマナは、悪いリクの存在によって、ずっと苦しめられていたのだった。悪とは、そこにいるだけで誰かを苦しめるものなのだ。だから、すべての罪はリクに属し、マナには属さないというわけで、そうして生きてきた二人の結果を、うまくやってきたと言うのなら、それはきっとそうなのだろう。しかし、マナに言わせれば、悪いリクがいるせいで、人生はちっともうまく行かないのだった。
例えば、それこそ物心がつき、ませた周囲の女の子たちが、やれピンク色が好きだ、フリフリのスカートが可愛い、誰それ君がかっこいいなどと言い出す時期に、マナはそれを口に出すこともできなかった。そんなのはおかしい、とリクがそう言うからだ。ピンク色はマナに似合わないし、スカートなんか穿いたらいけない、同級生の男子を好きになるだなんて気持ち悪い。
もちろん、これはマナにピンク色が似合うかに合わないかという話ではなく、そう言われた善良なマナが、リクの言うことをもっともだと思うところに問題はあった。構造から言えば、もし、マナがリクの言うことを聞かずにいたとしても、その罪を負うのはリクなのだから、マナは知らんぷりしてピンクのスカートを穿いていれば良いのだ。けれど、マナにはそれができなかった。善良だから、というのがその理由だろう。マナは、リクの言うことを、どうしても無視することができなかった。そして、それは他人の助言があっても同じだった。
中学に入り、マナはひどい虐めに遭った。リクとマナがいつも一緒にいるので、それが周囲の嗜虐心を煽ったのだ。一度、マナはそれで自殺を図り——無論、それはリクの大きな罪となった——それを機に精神科へかかることになった。
『それはおかしなことじゃないよ』
もっとも、その精神科の若い先生は、傷ついたマナに寄り添ってくれた。
『人と違うことは悪いことじゃない。実際、そういう人もたくさんいるんだから、君は君のしたいことをすれば良い、誰に何と言われようと、そんなのは突っぱねてしまえば良い。君が生きていくためには、そういうことも必要だよ』
先生は、同時に本やら映画やら、ドキュメンタリーなんてものも勧めてくれて、マナはそれらを懸命に見て、読んだ。もちろん、リクはそれを馬鹿にしたけれど、突っぱねてしまえばいい——先生の言葉を頼りに頑張った。
しかし、結局はそれも無駄だった。いや、無駄だと思い知らされることになった。何度も先生の元へ通ううち、先生に恋心を抱くようになったマナを、リクが酷い形で汚したのだ。純粋だったマナの心を、最も卑猥で、最低な行為によって。
リクをどうにかしてしまわないと、自分の人生は生きていけないかもしれない——マナがそう思い始めたのは、恐らくこの頃からだったのだろう。いつでも無邪気なマナの思いは、いつでもリクによって虐げられる。それどころか、年を重ねるにつれ、リクのやり方はどんどん過激になっていく。マナが直視できないくらい、剥き出しの欲望でマナを汚す。このままじゃだめだと、マナは街に出て愛を探す。離れないリクをどうにか隠し、あたかもマナ一人だけであるように装い、彼女を愛してくれる人を求める。スカートを穿き、化粧を施し、可愛らしい格好をして。
しかし、それは必然なのか、リクはそれも邪魔をした。マナの姿を嘲笑いながら、最初は大人しく隠れていても、いざマナに興味を持つ男が現れ、親密になりかけると、最低な形で姿を現し、彼女から男を遠ざけるのだ。無論、その度にリクの罪は増え、一方でマナの善良さ、純粋さは高まった。それはマナにとっては、一見、良いことであるようにも見えるだろう。しかし、清い水に魚は棲んでも、清すぎる水には何者も生きられない。マナの純粋さは、そんな危うさを孕んでいた。そして、そんな頃、マナは声をかけられたのだ。いつかの先生と似た男に——。
その男こそ、マナと、それからマナから離れないリクを受け入れた、最初で最後の人間だった。それはマナが男の部屋に、初めて訪れたときのことだ。マナの望まぬとき、やはり最低の形で姿を現したリクに、その男は驚きながらも、優しくリクに触れたのだ。
『俺、こういうの、好きかもしれない』
そうして、リクにキスをしたのだ。
そのときのマナの気持ちといったら、簡単には言い表せないものだった。マナは既に男を愛していた。男もマナを愛していた。だからこそ、マナは誘われるがままに部屋に上がり、二人はようやく抱き合ったのだ。愛し合う者同士、唇を重ねて。
そのとき、リクはいつものように現れた。マナを愛する者から遠ざけようと、邪魔してやろうと、禍々しくも恐ろしい姿で、二人の間に割って入った。そして、男はそれに気づいてしまった。終わりだ、マナは反射的にそう思った。またリクのせいで、マナの思いは台無しになるのだ。
しかし、それがどうだろう、男はリクを恐れず、それどころか触れ、あまつさえキスをし、彼を受け入れたのだ。
マナの混乱は酷いものだった。即座に男から体を離し、リクを引っ込め、子供がいやいやするように、何度も首を小さく振った。
『どうして?』
男はその反応にこそ驚いたように言う。
『俺は良いよ、もちろん、そんな風に見えなかったから、驚きはしたけど……君は君だろ? 俺は君が好きだから、それがどんな君でも、君という人間が——』
皆まで聞かず、マナは男の部屋から飛び出した。ひどい、ひどい、何がひどいのか自分でも不確かなまま、けれど何度も何度も繰り返しながら、夜の街を走り抜けた。
リクとマナを、二人一緒に受け入れてくれる、男はこれまでに会ったこともない、得難い人物であるはずだった。運命というものがあるのなら、男はマナのそれだろう。彼とならば、リクとマナは幸せに、三人で生きていくことができたかもしれない。
けれど、マナは嫌だった。なぜ、そう問われても分からない。自分ではまるで理解できない。否、理解することを拒んだまま、もしそうしなければならないのなら、死んだ方がましだと、脳裏にはそんな思いが、霧のように立ちこめていて、その先が見えない。
いままで、うまくいかないことは全部リクのせいだった。なぜなら、すべての悪いことはリクのせいで、リクが負うべき罪だという、それがリクとマナの決めごとだったから。リクは悪、マナにとっての悪であり続けなければならない。しかし、だというのに、リクが受け入れられてしまったら? それは二人の決めごとに反してしまう。
だから、息を切らせ、走るうちに、マナは男の言葉を態度を、決めごとに沿い、無意識にも整理し直す。愛する男の部屋を飛び出さねばならなかったのは、リクのせいだ。リクがまた邪魔をしたからだ。男はマナを愛していたというのに、リクのせいで駄目になった。そう、リクが男を奪ったのだ。あんなにもマナが愛していたのに、横から出てきたリクがそれをかっさらったのだ——。
男を思い浮かべると、先生の顔や、その他、リクに邪魔され、叶わなかった恋の記憶が次々と脳裏を走り、そのたびに味わった苦痛が一挙に、マナの心に押し寄せた。苦しい、辛い、嫌だ、もうこんな思いはしたくない——そして、その思いは、とうとうマナを一つの結論に導いた。やはり、リクをどうにかしなければならない。そして、そのどうにかするという曖昧な言葉は、いまのマナの激情から、容易に殺すという言葉へと入れ替わった。
マナは自分の部屋に帰ると、荒い息のまま、キッチンナイフを手に取った。震える手で、スカートを脱ぎ、ショーツを下ろし、憎いリクを睨みつける。マナの本気を感じ取ったのか、リクは隠れるように縮み、マナにぶら下がっている。そんなことをしたらどうなるか分かってるのか、と脅すこともなく、ただ生まれたときからそうだったように、悪の象徴としてそこにいる。
このリクのせいで、マナの人生は狂ってしまったのだ。望む生活を送れなかったのだ。リクを見るうちにも憎しみは膨れ上がり、ぺたんと、床に座り込んだマナは、思い切り、リクへとナイフを振り下ろした。床にナイフが突き立つほどに、この一撃で殺してやるという殺意を込めて。
その瞬間、ぎゃっと恐ろしい声を上げたのは、マナの声帯を借りた、リクであったに違いない。見事に切り落とされたリクは、萎びたソーセージのように力なく、マナの側から溢れ出る血に浸り、もう二度とあの醜悪な姿をさらすことはないだろうと思われた。何度もマナの純粋な思いを汚し、邪魔をし、果てにはマナから愛する男を奪った、悪のリク。
その最期を見届けた、マナの手からは力が抜けて、止まらない血と痛みに、彼女は床に倒れ込む。このまま自分も死んでしまうであろうことは、薄れゆく意識の中、マナも何とはなしに理解している。
なぜなら、これは彼女の最初の罪で、最後の罪。二人の決めごとを破ったマナに科せられた、死は刑の執行であるのだから。
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