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短編小説 『まあるいボクの四角いおうち』

生まれてから一度も家の外に出たことのない、猫の「スイカ」。飼い主は優しいし、ご飯はお腹いっぱい食べられるし、何一つ不満のない日々を送っていた。

ある日、スイカは、窓の外に1匹の野良猫を目にする。彼女──その野良猫はメス猫だった──は、ネズミを狩り、食べていた。その美しい姿に、スイカはどうしようもなく惹かれていく。野良猫との出会いを描いた猫小説。

まあるいボクの四角いおうち


『スイカはまあるいのねぇ、可愛いのねぇ』

 のんびりとした声で、オカアサンがボクの目を見ながらつぶやく。

 しかも、そう言いながらボクの喉をくすぐるので、ボクはごろごろという音を立てずにはいられない。

『スイカ──そうねえ、早出しのすいかがそろそろ出るころかしら? スイカが生まれたのは九月? だったら、すいか、見たことないわよねえ。買ってきたら少し食べてみる? お前みたいに、しましまの、まあるい果物なのよ』

「うん! オカアサン」

 オカアサンの言うことはよくわからない。けれど、ボクは元気よくオカアサンに返事をする。

 なぜかって、こんなふうに応えると、オカアサンはとってもボクに優しくしてくれるからだ。

『うんうん、スイカはお返事のできるいい子ね』

 ほら、ね? ボクは得意になってしっぽを尖らせた。

 オカアサンはそんなボクににこにこと笑いながら、オサカナの形のゴハンを一つ、手にとってくれた。

 オサカナっていうのが何なのか、ボクは知らない。けど、これはオカアサンがくれる、ボクのゴハンだ。ボクはゴハンを自慢の牙で噛み砕こうとした。

 カフッ。けれど、ゴハンは口の中であっちこっちに動いてしまって、ボクの牙にうまく当たらない。

 でもボクはこういうときどうしたらいいか、ちゃんと知ってる。それ、もう一度、牙の上にゴハンを乗せて──カシュッ。ボクは首をかしげるようにして、ゴハンを噛み砕くことに成功した。

 まったく、どうしてなんだろう、このゴハンは何だかうまく食べられないんだよなあ。ぺろりと舌で口の周りを舐めまわしてから、ボクはいつもとおんなじことを思った。

 と、同時にそれもおかしな話だ、とも思う。

 だって、ボクは生まれてから記憶がある限り、オカアサンのくれるこのオサカナのゴハンしか食べたことがない。

 ほかに比べるものがないっていうのに、それなのに「このゴハン」が食べにくいと思うなんて、そんなことおかしいと思うでしょ? うん、ボクはそう思ってるんだ。

 でも、まあそんなことはきっとどうでもいいことなんだ。だって、オカアサンのくれるゴハンで、ボクのお腹はいっぱいになるし、それってとっても重要なことに違いないから。

「ボウズ、メシ、もらったのか?」

 ボクが汚れたおヒゲをお掃除していると、後ろからキナコサンがぬっと現れた。キナコサンは、キナコサンってオカアサンに呼ばれてる、ボクの先輩だ。

 ボクがうん、とうなづくと、キナコサンはたっぷりとしたお肉で、ボクの脇をすり抜けると甘えた声でオカアサンにゴハンを催促した。

「オカアサン、オレにもゴハンくれよお」

『あら、キナコさん。スイカだけにあげたの、バレちゃった? もう、仕方ないわねえ』

 オカアサンはそう言って、キナコサンの口にもゴハンを一つ、入れてやる。

「ボクも! もう1個ちょうだい!」

 ボクはすかさず、にゃあとオカアサンの手にすり寄って、もう一つゴハンをもらうことに成功した。

 カシュッ、カシュッ、キナコサンもボクとおんなじように、尖った牙で、食べにくそうにゴハンを食べる。

 大人になったら、上手に食べられるってわけでもないんだな、とボクは思いながら、カシュッ、カシュッ、と口の中のゴハンをかみ砕く。

『二人とも、ご機嫌のいいうちに爪でも切っちゃおうかしら』

 オカアサンがぶつぶつと独り言を言って、よいしょと座布団から立ち上がる。ん? 何か嫌な言葉が聞こえた気がする! ボクは不穏な気配を察するや否や、まあるい身体で転がるように逃げ出した。

『あっ、スイカ! 逃げるな!』

『わあ、どうしたの?』

 ぼすん! と、ボクの小さな体はなにかにぶつかって跳ね返り、ボールみたいにぽんぽん、と床に弾む。

 ボクはあまりの衝撃に何が起きたか分からずに、目を白黒させる。すると誰かがボクの首根っこを掴み、ひょいと空中へ持ち上げた。

『スイカ、ごめん、大丈夫?』

『ああ、春ちゃん、ちょうどよかった』

 オカアサンがハサミを持って、持ち上げられたボクに近づいてくる。どうやらボクがぶつかったのは、ハルチャンの足だったらしい。ハルチャンはとっても泣き虫な、ボクと仲良しの小さなオンナノコだ。

『爪切るって言ったら、スイカが逃げたの。悪いけど、そのまんま持っててくれる?』

「ハルチャン、昨日も泣いてるのをボクが慰めてあげたでしょ、だから今度はハルチャンが、オカアサンに爪切るのやめてって、そう言ってよ!」

 ボクは、ハルチャンに懸命に頼んだ。しかし、ハルチャンは

『うん、いいよ』

 と、あっさりそう言って、ボクの体をオカアサンのほうにくるんと反転させた。

「ハルチャン、ボク、嫌なんだってば……」

 ボクが訴えると、オカアサンがくすくすと笑って言った。

『そんな顔しないの。痛くないから大丈夫だよ』

「そうじゃなくて、オカアサン!」

 ボクの声は、二人には伝わんないみたいだ。ボクは一層声を上げて鳴いた。けれど、ハルチャンはむしろ楽しそうな声でオカアサンと話している。

『ええ? そんなに嫌そうな顔してるの?』

『うんすごい顔してる……ほらほら、爪を出してね……』

 指先がぐにっと押され、ボクの意志とは関係なく、とんがった爪が現れる。オカアサンはそろそろと爪にハサミを近づけた。

「やめて!」

 ボクは悲鳴を上げ、無茶苦茶に体をひねってハルチャンの手から逃れようとした。

『痛っ!』

「あっ」

 ボクとオカアサンは同時に声を上げた。オカアサンの手の、ボクの爪がえぐった部分が真っ白な線を描いて、そしてその一瞬後に真っ赤に染まる。そして、その赤い水滴はぽたっと、ボクのしっぽに撥ねて落ちた。

『大丈夫? お母さん?』

 ハルチャンが、慌てた声を上げる。

「あ、あの、ボク、こんな……」

『大丈夫大丈夫。……ほうら、スイカ、こういうことになるでしょ。だから爪は切っておかなくちゃいけないのよ』

 しょげるボクを励ますように、オカアサンは明るい声で言う。そして、ボクの前足を掴み、銀色のハサミを当てた。

「ごめんなさい、オカアサンを引っ掻くなんてしませんから、どうか爪を切るのはやめて……」

 ぷちん。

 けれど、ボクの抵抗もむなしく、ボクのとんがった爪はハサミで折れたみたいに平らになった。そして、それを見てボクはとっても情けない気分になった。

『はい、はい、はいっと。次は後ろ足ね……』

「オカアサン……ハルチャン……」

 ぷちん、ぷちん、と一本ずつ、ボクの爪が切られていく。とんがった爪のかけらが宙を飛んでいくそのたびに、ボクは悲しくなって声を上げた。

 ボクにだってわかるんだ。ボクのとんがった爪は、オカアサンやハルチャンを傷つけてしまうこと。

 優しいオカアサンは笑って許してくれるけど、ボクはそんなオカアサンを傷つけてしまって、とってもごめんなさいって気持ちがする。そして、そのあとオカアサンの肉を削り取った、ボクのとんがった爪がうらめしくなる。

 それなのに、ボクはどうしても爪を切られたくないんだ。爪を切られると、とっても情けない気分になって、とっても悲しくなってしまう。

 そうして爪を切られるたびに落ち込むボクに、だって爪はとんがってなくちゃいけないって、いつも決まってボクの中の誰かがボクに囁く。

 だからボクは毎回その声に、どうして? って聞き返す。ボクの爪は何の役にも立っていないよ、役に立つどころか、ボクの大事なオカアサンを傷つけてしまう。それなのにどうしてそんなことをボクに囁くの?

 けれど、ボクの問いにその声は応えたことはない。だから、ボクはよくわからないまま、情けないって気持ちだけを抱えて、しょぼくれるしかないんだ。

『さ、これで終わりよ。よく頑張ったわね』

 オカアサンがボクに頬ずりをして、ゴハンを一つ、ボクの口の中に押し込む。ボクは首をかしげるようにして、カシュッカシュッと、そのゴハンを噛み砕く。

 ボクはその日、一日ブルーだった。

 夜になってオカアサンが眠ったころ、やはり爪を平らに切られたキナコサンが、

「何だボウズ、またしょげてるのか」

 と呆れた顔をして言ってボクの隣に座った。

「爪切られたって、なんてこたぁねえじゃねえか」

「うん……」

「何が嫌だ? オカアサンに抱っこされることか? それとも、あのぴかぴか光るハサミがおっかないとか?」

「ううん、抱っこだって大好きだし、ハサミなんか怖いもんか」

 キナコサンの言葉に憤慨して、ボクはおひげをピンと立てて言った。

「んじゃ何が嫌だ? 爪切られるたんび、しょげていられちゃあ、湿っぽくってかなわねえよ」

「ごめんなさい……」

「いや、謝るこたぁねえけどな」

 キナコサンは口の中でぶつぶつそう言うと、太った体を無理やりにソファの上に押し上げて丸まった。どうやら、今夜はそこで眠るつもりらしい。ボクはその大きな背中に、伸びあがって声をかけた。

「あのね、キナコサン。爪を切られるとね、ボク、どうしてかわからないけど、うんと情けない気分になるんだ。とっても悲しくなるんだ……キナコサンはそんなこと、ない?」

 ボクの問いに、キナコサンは大あくびをした。

「情けない気分、ねえ。はてさて……」

「うん。爪を切られるの、嫌じゃない?」

「別に、痛いわけじゃねえし、どうってこたぁねえわなあ」

「それなら、声は? キナコサンの中で、声が聞こえたことはない? ボクは、ボクじゃない誰かが言うのが聞こえるんだ。爪は、とんがってなくっちゃいけないんだって」

「ほう、ボクの中の誰か、ねえ」

 キナコサンはやっとうっすら目を開けると、ボクの目をじっと見た。

「それならオレも心当たりあるなあ」

「ほんと?」

「ああ」

 せっかく細く開いた目を閉じて、キナコサンが今にも眠ってしまいそうになるので、ボクは必死で質問を続けた。

「キナコサンにも聞こえるの? それって、ボクのと同じ声かな?」

「ううん、どうだったか……しかし、オレがその声を聞いたのは、もうずうっと昔のことだからなあ」

「声は何て言ってた? 爪はとんがってなきゃいけないって、そう言ってた?」

「いや……ううん……何て言ってたかなあ……」

「キナコサン、起きてよ」

 キナコサンの途切れ途切れの言葉の間に、ぐう、と寝息が入る。ボクはキナコサンの肉のついたお腹をぐにぐにと揉むように押した。

「むふふ、くすぐったいよ、ボウズ……」

「そうじゃなくって、ねえ、声はなんて言ってたの?」

「そうだなあ……。ああ、そういえば、外へ出ろ、そう言ってたような気がするなあ……」

「外へ?」

「ううん……外へ出て、本当の自由を……」

 ぐがっという音を立てて、キナコサンは完全に眠ってしまう。

「キナコサンってば……」

 ボクはキナコサンのお腹を押すのをやめて、ぺたっと床に足を下ろした。

 でも、キナコサンも声が聞こえたんだ、ボクは不思議な興奮で胸がどきどきした。

 キナコサンの中の声が、今は聞こえないっていう理由は分からない。だけど、ボクの中の声は、きっととっても大事なことを教えてくれてるに違いないと、ボクは妙な確信を持った。

 それにしても、キナコサンの声の言った、「外」ってどうやったら出られるんだろう? ボクは、はてなと首をかしげた。

 ボクは「外」へ出してもらったことはない。でも、たしかにハルチャンは毎朝おうちから出てどこかへ行くし、オカアサンだって、ボクたちにお留守番頼むわね、と言ってどこかへ行くことがある。

 オカアサンたちも、おうちの外へ出て自由になってるのかな? ボクもどこからか、外に出られるのかな? ボクは考えながら、おうちの中を隅から隅まで歩いてみた。

 階段を上り、オカアサンたちが眠っている二階の部屋をくるっと回って、それから一階に下りた。そして台所を眺めて、そうだと思い立って、いつもはあんまり入ることのない、畳の部屋にも入ってみた。そして、そこで立ち止まった。

 おうちの部屋はこれで全部だ。たしかに、ボクはおうちの外には出られないみたい。

 でも、ボクが自由であることには変わりないんじゃないかな。ボクはかしげた首をさらにひねって目の前の大きな窓を見た。外って、この窓の向こうだろ? でも外に出なくたって、ボクは何一つ不自由してないのに……。

「あ……」

 そのとき、暗い窓の向こうに誰かがいるのに気付いて、ボクは声を上げた。しましまの毛皮に、長いしっぽ。ボクたちの仲間だ。

 彼女は──ボクはその子が女の子だって、すぐにわかった──姿勢を低くして何かを狙っているようだった。そして、彼女はギラリと目を光らせると、一瞬後、目にも止まらない素早さで何かに飛びかかった。

 そのしなやかな一瞬の動作で、彼女の爪は確実に何かを捉えていて、その何かはピイピイという、悲しそうな悲鳴を上げる。

 何だ? ボクは彼女の真似をして、飛びかかるみたいに、一足飛びで窓へ飛んだ。

 けど太ったボクの体は、どたどたどたっと大袈裟な音を立てて、結局ボクはいつものように畳の上を転がるみたいに走っただけだった。でもまあ、とにかくボクは窓に鼻をくっつけると、彼女の捉えたものに目を凝らした。

 それは、ハルチャンがボクと遊んでくれるときに使うボールみたいなものだった。

 でも、それはボールと違ってピイピイ鳴いていて、ボクが固唾をのんで見守る中、彼女はそれを爪に突き刺したまんま、鋭い牙でがぶりと噛みついた。すると、それはピイと声を上げたっきり、動かなくなった。

「……すごい」

 何が何だか分からないままに、ボクは思わずため息を漏らした。ボクは興奮してどきどきしていた。ハルチャンとボールでボールで遊ぶときに似ていて、けどもっとすごい興奮だった。

 ボクが彼女を見つめていることに気付いたのか、彼女は警戒したような目をギラリとこちらに向けた。

「あ、あの……ボク、えっと……キミって、すごいね」

 ボクがしどろもどろに言うと、彼女は怖い顔をして、しましまの毛皮を逆立てた。

「一部始終を見てたってわけ? まさかアタシの獲物を横取りする気?」

 月の光を鋭くしたような、そんな声がボクに向かって放たれた。

 その声に思わずボクは首をすくめたけど、だけどギラギラ光る彼女の目には、そんな音色がとっても似合ってる、とボクは思った。

「あ、ううん。ボクはそっち──そう、外に行ったことはないんだ。だからその、キミ……キミの獲物にどうこうするつもりは……っていうか、獲物って何のこと? キミ、何をしてたの?」

「獲物って何、ですって?」

 しましまの彼女は、鋭い牙がのぞく口をあんぐり開け、訝しげにボクを見つめた。

「アナタ、狩りをしたことがないの?」

「ええと、狩り……?」

 ボクは耳を寝かせて彼女のほうを見た。しかし、彼女は窓の内側にいるボクを見つめた後、信じられないというようにふいとよそを向いた。

「本当に、そんなネコがいるのね」

「え、そんなネコって?」

 彼女はボクを上から下から覗き込むようにして、眺めた。

「アナタがニンゲンの四角い家に閉じ込められたネコってことよ。閉じ込められる代わりに、こうやって泥だらけになって狩りをしなくっても毎日のエサにありつけるってわけ」

「エサ……ゴハンのこと?」

 ボクはよくわからない単語がちりばめられた彼女の話についていけずに、馬鹿みたいに聞き返した。

「ゴハン、キャットフード、カリカリ、呼び名は何だっていいわ。アナタは生まれた時からニンゲンのペットとして生きている、腑抜けだってことよ」

「ボクは腑抜けなんかじゃないよ」

 ボクは虚勢を張った。でも実は、その子の言うことはボクにはよくわからなくって、ボクには、ボクより物を知っているその子の言い分のほうが正しく思えた。

「あらあら、それはどうかしらね」

 その子は何を思ったか、「獲物」を咥えて、トン、と軽い音をさせて縁側に飛び乗り、窓ガラス越しにボクの目を見つめた。

 これが「獲物」か。ボクはぶるぶるっと身体を震わせた。

 それはボクがオカアサンにもらう、オサカナのゴハンとは違っていた。何だか生々しくて、不気味で、怖かった。

「これは、ネズミよ」

 窓ガラス一枚隔てて見た、その子の顔は真っ赤に濡れていた。血だ、ボクはすぐにそう思った。

 それほどその赤と、ボクがオカアサンの腕を引っ掻いたときにこぼれ落ちた、赤い滴の色はそっくりだった。ぽたん、と地面に横たわる、そのネズミというゴハンがぴくりと動く。

「これ、生きて……」

「当たり前じゃない」

 その子はボクを笑うように言った。

「知らないの? ニンゲンがアナタたちに与えるエサは、アタシたちが本来食べるべきものじゃないのよ」

「でも……ゴハンはおいしいし、お腹もいっぱいになるよ」

 ボクは言い訳するみたいにぼそぼそとつぶやいた。

 ボクたちが本来食べるべきゴハン。彼女のその言葉は、ボクが毎日不思議に思ってたことをずばりと言い当てた気がしたからだ。でも、ボクは何だか馬鹿にされた気がして、何にも気付いてないふりをして言い返した。

「じゃあ、それならボクたちが本来食べるべきものは何なのさ」

 うふふ、彼女は含み笑いをした。それからボクに、わからないの? という表情をして、足元のネズミをころんと転がした。

「肉よ。アタシたちは、肉を食べる生き物なのよ」

「肉を……?」

「ほら、見てて」

 彼女はかっと口を開けると、がぶりとネズミに噛みついた。彼女の鋭い牙が、ネズミの毛皮に刺さり、そして肉を引き裂き、彼女はその肉をうまそうに飲み込む。

 そして、彼女はまたがぶり、と新鮮な肉に噛みつき、肉を引き裂き、そして飲み込む。

 その動作を繰り返すうちに、また新しい血が彼女の口の周りを汚し、露わになったネズミの白い骨が、赤い肉の中で眩しく光る。その光景にボクはごくり、と唾を飲んだ。

「ね?」

 ボクの物欲しそうな様子に気付いているのかいないのか、彼女はにっこりボクに笑うと、前足で上手にネズミの頭を掴み、カリカリと音を立てて噛み砕いた。

 そうして彼女はあっという間にすべてを平らげると、口の周りをぺろりと舐めた。

「そ、それって……おいしい?」

 ボクの声は震えていた。ボクもあれが食べたい。口の中にじゅるじゅるとよだれが出て、ボクは何度も喉を鳴らした。

「ええ、とってもおいしいわ」

 彼女は目を細めて、こちらを透かすように眺める。

「これが、アタシたちの食べるべきものよ。アナタにも、わかったでしょう?」

「う、うん……でも……」

「でも?」

「おうちの中で、ネズミなんて見たことない……」

「そりゃそうでしょうね」

 あはは、と彼女は声を上げて笑った。

「部屋の中にネズミでも出ようもんなら、ニンゲンはそこらじゅうにネズミ捕りを仕掛けて、食べもしないネズミを殺しちゃうもの」

「ネズミ捕り?」

「知らない? ああ、このおうちは結構新しいものね。ネズミ捕りって、おいしそうなエサでネズミを引きつけて捕まえるのよ。銀色のカゴにエサが吊るしてあったら要注意ね。アタシの兄弟はネズミの代わりにそれにつかまって、どっか連れてかれちゃったわ」

「どっかって?」

「さあ」

 彼女は少しだけ目を伏せて、首を振った。

「きっと殺されたと思うわ。ニンゲンは手に負えないものはすぐに殺すもの」

「そんな、うちのオカアサンはそんなことしないよ」

「ええ、そうでしょうね。アナタに毎日エサをくれる、優しいニンゲンですもんね」

「そんな言い方しないでよ。ボクは……」

「じゃあ、その優しいオカアサンに頼んでみたら? ボク、ネズミを捕まえて食べたいんだけどって」

 その言葉にボクがむっとして、オカアサンを馬鹿にするなって抗議する前に、彼女はボクを舐めまわすように眺めて、また声を立てて笑った。

「でもまあ、その太っちょの体に、平らな爪じゃあ、ネズミを捕まえるのなんて無理かもしれないけど」

 彼女の視線がボクの足元を走り、ボクははっと下を向いた。興奮のあまり、ボクの爪はぎゅっと畳を掴んでいて、けれどその爪の先は情けなくも平らに切りそろえられていた。

 それに、座っているボクのお腹は、お月さまのようにまあるくぼってりとしていて、窓の向こうの彼女のすらりとした姿勢とは程遠かった。

 自分の体をまじまじと見つめるボクを見て、くす、と彼女は笑うと、音もさせずに庭へ飛び降り、月の影に消えた。

「あ、待ってよ……」

 ボクが慌ててそう言ったころにはもう彼女の気配はなく、庭はしんと静かで、ボクはいつまでも彼女が去った方向を眺めていた。

 その次の日のボクは、本当に彼女の言った通りの腑抜けになってしまっていた。

 どうしてかって、だってボクの爪は昨日と同じ、平らなままだったし、それにボクの目の前には、今朝もやっぱりオカアサンが用意してくれた、たっぷりのゴハンの乗った皿が置いてあったからだ。

「……ねえ、キナコサン、ネズミを捕まえたことってある?」

 隣でカシュ、カシュ、と音をさせるキナコサンに、ボクは半ば独り言のように言った。

「あ、ネズミだあ?」

 キナコサンは、うまく噛み砕けないゴハンを何とか牙に当てようと、左右に傾きながらボクをちらりと見た。

 ニンゲンのエサは本来ボクたちが食べるべきじゃないから、あんなふうに食べにくそうに食べるしかないんだ、ボクは彼女の言葉を思い出す。

「うん、ネズミ。キナコサン、昔は自分の中で、外へ出て自由になれ、って声が聞こえたって言ってたでしょ? それって、外でネズミを取ることなんじゃないかって、ボク思ったんだけど……」

「ああ? ううん、そんなこと言ったかな……」

「言ったよ、忘れちゃったの?」

「んん……わかんねえなあ……」

「もう、思い出してよ。外のネズミをさ……」

「ううん……そんなことなんかより、よぉ」

 キナコサンは自分の皿をきれいに舐めると、まだ手つかずのボクの皿を物欲しげに見つめた。

「ボウズ、喰わないのかい? だったら、そのう……」

「……うん、いいよ」

 ボクはキナコサンにネズミのことを聞くのをあきらめると、キナコサンに場所を譲った。

「そうか。こいつぁありがてえ」

 キナコサンはボクの皿のゴハンを、カシュカシュと猛烈な勢いで平らげていく。それを見て、ボクはふう、とため息をついた。

 ため息に応えるように、ボクのお腹がぐうっと鳴る。ボクのお腹はぺこぺこだ。本当なら、キナコサンみたいにゴハンをお腹いっぱいになるまで詰め込みたかった。

 けれど、ボクは昨日から何度目かの生唾を飲み込んだ。ボクは昨日見た光景が忘れられなかった。

 あの、肉を引き裂く、彼女の牙。その肉に食い込んだ、彼女のとんがった爪。ごくり、と動く喉。目を閉じると、あのネズミの血の匂いさえ、ボクの鼻に立ち上ってくるようだった。

 食べたい、あの肉が食べたい、ボクは強く思った。ボクの中の声も、あの肉が食べたいって言ってるみたいだった。

 それなのに、ボクの前には肉はない。あの光景を見て、その味を想像してしまった後で見る、オカアサンのゴハンはちっともおいしそうじゃなかった。

 もちろん、おいしそうに見えなくたって、このゴハンを食べればボクのお腹は満たされるだろう。それは分かっている。

 でも、きっとボクはお腹をいっぱいにしながらも、同時にどこかでとっても飢えているに違いない。ボクにはそんな確信があった。

『あらあら、キナコさん、スイカのゴハン、食べちゃダメじゃない』

 いつのまにかやってきたオカアサンが、ボクのお皿の前からキナコサンをしっしと追い払う。にゃーお、とキナコサンが抗議の声を上げる。けれど、オカアサンはそれを無視して、ボクの体を無理やりお皿に近づけた。

『スイカ、早く食べちゃいなさい。取られちゃうわよ』

「いいよ、それはキナコサンにあげたんだ」

 ボクはオカアサンの目を見て言う。しかし、オカアサンは、

『なあに? ああ、そうね。キナコさんが食べちゃった分を足してほしいのね? スイカは頭がいいわねえ』

 そんなことを言って、上の戸棚の中から、オサカナのゴハンを取り出した。

「オカアサン、ボク、そのゴハンは食べたくない気分なんだ。だから放っておいてよ」

『わかってますよ。急かさないでちょうだい』

「あのね、ボクが食べたいのはね……」

『さ、キナコさんが来ないうちに食べちゃって』

「あの、オカアサン、ボク、ネズミが……」

 ボクの訴えを聞くことなく、ぱたぱた、と足音を立ててオカアサンは忙しそうにどこかへ行ってしまった。

 残されたボクは、仕方なくお皿のゴハンをしばらく見つめてから、カシュ、と一口食べてみた。

「…………」

 いつものゴハン。いつもと何にも変わらない、ボクのゴハン。オカアサンがくれる、ボクのゴハン。

 昨日までボクはこれでお腹いっぱいで満足だったのに、それなのに…。そう思うと、ボクはなんだか悲しくなって、ふいとお皿の前から離れた。

「おい、ボウズ。喰わねえのか?」

 キナコサンがボクの背中に声をかける。ボクはキナコサンに振り向きもせずに、力なくうなづいた。そのうなづきを見て、キナコサンは大急ぎでボクのゴハンを食べ始める。

 カシュッカシュッ、カシュッカシュッ。ボクはその音から逃げるように、台所から走って出た。

「あははは、それでアンタ、腹ペコってわけ?」

 ボクのぺったりへこんだお腹を見て、窓一枚隔てた外の彼女は声を上げて笑い転げた。

「笑いごとじゃないよ、もう。だって、ボク、キミの──」

「キミだなんてよしてよ。名前を言ってなかったっけ? アタシは二番目」

「二番目? 変な名前」

 ボクが顔をしかめて見せると、

「スイカのほうがよっぽど変だよ」

 と、二番目はしっぽをゆらっと振って返した。

「アタシは母さんの二番目の子だから、二番目って呼ばれるのは当然でしょ?」

「そういうものなの?」

「ええ、そういうものよ」

 二番目は耳をピクピク動かした。ボクと話している間中、彼女は耳をあらゆる方向に動かして、何かの音を聞いている。

 ボクも真似をして、耳をいろんな方向に向けてみた。けれど、遠くでキナコサンのいびきが聞こえるほかは、何の音も聞こえない。

「ねえ、二番目、何か聞こえるの?」

「ん? 何かって、何? 周りは音だらけじゃない」

「音だらけ?」

 ボクは一生懸命耳を澄ませた。けれど、やっぱりボクには音だらけというほどの音は聞こえない。

「耳だけじゃだめよ。ひげや、体の毛や、音は全身で感じるものだから。でも……」

 二番目はボクを憐れむような目で見て、痩せた体をすくめた。

「四角い家の中じゃ、外の音は何にも聞こえないのかもしれないわね」

「あ、あの、二番目」

 彼女が、質問ばっかりのボクに嫌気がささないか気にして、ボクはおそるおそる訊ねた。

「前も言ってたけどさ、ボクのおうちって四角いの?」

「ええ、四角いわよ」

 二番目はボクの気遣いを気にせずに、あっさりと言った。

「そうか、中にいたらわかんないかもね。うん、ニンゲンが住む家はたいていどれも四角いの。それに、ニンゲンはたくさんいる。だから四角い家がいっぱい並んでる。……スイカも、外に出られたら、いろんなことが分かるのにな」

 最後の言葉は独り言みたいに小さかったけど、ボクの心がちくっと痛むには十分な言葉だった。

「うん……だけど、ボクは外に出られないよ」

「少しの隙間もないの? 開いてる窓とか、それか人が出入りする隙をつくとか」

「ううん、出来る気がしない」

 ボクはしょげて下を向いた。

「それでもどっかに隙間があるはずだけどなあ」

「どうしてそんなこと、わかるんだ?」

「だって、どっかからスイカの匂いがするもの」

「ほんと?」

「ほんとだよ」

 二番目はなぜかボクから顔を逸らして言った。照れているのだ、その瞬間ボクはどうしてかそう感じた。そして、ボクも二番目の匂いが嗅ぎたい、と強く思った。ボクは勢い込んでい聞いた。

「二番目、ボクの匂いって、どこから一番匂うと思う?」

「ここらへんからかな……」

 二番目が指したのは、壁と窓の間だった。ボクは必死になってそこに鼻を押し付けて匂いを探った。

「あ……」

 その匂いはすぐにわかった。壁の向こうの風が、ボクの鼻に二番目の匂いを届けてくれる。甘い、くすぐったい、とってもそそられる匂い。

 その匂いを嗅ぐと、ボクのお腹が熱くなって、ボクの中は二番目のピンク色のお尻に顔をくっつけたい衝動でいっぱいになった。

「わかった?」

 二番目がくるりと回る。そうすると、もっとたくさんの匂いが、ボクの鼻に飛びこんできた。

「うん、わかるよ。すごくいい匂い……」

「そう?」

「うん……」

 ボクは目を閉じて、思い切り二番目の匂いを吸いこんだ。いつのまにかボクのしっぽはぴんと立っていて、熱くなったお腹は今度はむずむずかゆいような気持ちになった。

 二番目もおんなじ気持ちかな? ボクは匂いに集中したまんま、聞いた。

「二番目、二番目、ボク、今とっても……」

 しかし、そこまで言ったとき、二番目がはっと顔を上げ、耳をピンと立てて身構える気配がした。

「どうしたの?」

「しっ……獲物が来たみたい」

 ボクは目を開けて、二番目のマネをして耳をピンと立てた。けれど、本当に窓ガラスのせいなのか、ボクの耳には外の音なんてこれっぽっちも聞こえなかった。

「絶対に捕まえてやる……」

 金色の目を爛々と輝かせ、二番目は格好よく背を低くする。ボクはまだ熱いお腹を気にして、部屋の中でとんとんと足踏みをした。

「あの、二番目……」

「なに? 静かにしてちょうだい。獲物が逃げる」

 二番目の真剣な目に、ボクは口早に言った。

「また、またここで会えるかな?」

 ボクの言葉に、二番目は少し振り向き、それからにっと笑った。

「何だかアタシ、スイカのことが気に入ったからね。うん、また来るよ」

「気に入ったって、ボクの、どこが?」

「さあ」

 二番目はピンク色のお尻を思わせぶりにボクに向けた。

「アタシとおんなじ、しましまのとこかな」

 二番目はそう言うと、振り返りもせずに外の茂みの中へ飛び込んだ。

「また、本当に来てよね!」

 ボクは誰もいなくなった窓の外にそう呼びかけた。外の微かな彼女の匂いは、たちまち風にさらわれ、消えた。

 二番目はその言葉通り、毎晩ボクのところへ訪ねてくれるようになって、ボクはそれがとっても楽しみになった。ボクはオカアサンのくれるゴハンを、ほんの少しだけ食べた。

 ボクがいくらネズミが食べたくたって、いないものは食べられないし、かと言ってまるきり何にも食べなかったら元気が出ないし、これは仕方のないことだ。

 ボクの届かない窓の外で、二番目は毎晩おいしそうに獲物を齧った。その姿を見て、ボクの中で、ボクも獲物を食べるんだ、という気持ちが大きくなっていた。

 ゴハンを食べなくなってから、最初はとってもお腹が減った。けれど、今じゃお腹が減った状態にも慣れたし、そのうちにボクはすごいことに気がついた。

 ゴハンを少しだけにすると、ボクのまあるい身体は、二番目みたいに痩せていった。

 そうすると、ボクはとっても身軽になって、オカアサンやハルチャンに捕まらなくなった。だから、ボクの爪は切られなくなって、とんがったままになった。

 それと同時に、ボクの感覚はとっても鋭くなった。

 今まで、ボクの耳は全く役に立ってなかったんじゃないかってくらい、ボクの耳はよく聞こえて、感覚は研ぎ澄まされた。

 だから、離れた部屋にいたって、オカアサンやハルチャンが何をしているのか、ボクには手に取るようにわかった。それに、以前は聞こえなかった窓の外の音も、本当にうっすらとだけど、聞こえるようになってきた。

 ボクはとっても自信がついた。ボクはピンとしっぽを立てて、堂々と歩くようになった。

 ボクは二番目みたいに身のこなし軽く、ぴかぴかの爪を立ててネズミをとる練習をした。きっと、今のボクにならネズミも簡単に取れるって、二番目は太鼓判を押してくれた。だから、ボクはとっても誇らしかった。

「ねえ、キナコサン、ボク最近すごく調子がいいんだ!」

 ボクは、ボクの代わりにまるまると太ったキナコサンの背中に、ごろごろと頭をすりつけながら言った。

「ボクの中の声も、これが正しいんだって、そう言ってるような気がする」

「正しいって、何が正しいんだ?」

 キナコサンは、太った分だけ憂鬱さが増したようだった。

「何でえ、ボウズ、がりがりになっちまったじゃねえか」

「見た目のことじゃないよ」

 ボクは胸を張って答えた。

「ボク、今なら分かるんだ、ボクのこと。ボクが何をしなくちゃいけないのか、何のために生きてるのか」

 きらきらと目を輝かせるボクを、キナコサンはうっとおしそうに見上げた。

「あの毎晩来てる彼女のことかい? オンナといちゃついて、何が楽しいんだか……」

「え、キナコサン、知ってたの?」

「ああ知ってるともさ。オレばっかりじゃねえぞ、オカアサンたちだって知ってるだろうよ。なんせ、夜な夜なにゃあにゃあうるせえからなあ」

「ごめんね」

 ボクは首をすくめて舌を出した。

「でも彼女、とっても素敵なんだ。とってもいい匂いがして、ああ、ボク彼女に会いたくってしょうがないよ」

「いつも会ってんだろうが」

「違うよ、窓ガラス越しじゃなくって、本当にさ」

「ふん」

 キナコサンはのそのそと丸まりながら、鼻を鳴らした。

「若けえってことだな。オレだって若けえ頃は、そんなようなことを考えてたような……」

「キナコサンも?」

 ボクは驚いて訊き返した。

「キナコサンはその子に会えたの? 外へ出て、彼女と自由に会った?」

「いんや」

 キナコサンは首を振った。

「どうしてか、急に興味がなくなってなあ……」

「興味がなくなる? どうして?」

「どうしてだっけなあ……」

 ボクの問いに、キナコサンは遠い目で宙を見つめた。その目はとっても悲しそうだったけど、すぐに元のぼんやりとした目に戻ってボクを見た。

「ボウズはまだ、その、自分の中の声ってやつが聞こえるのかい? 聞こえるのなら、そいつの言う通りにするのもいいんじゃねえかなって、オレは思うけどなあ」

 オレの歩かなかった道だあ、とキナコサンはぼんやりしたまま言う。ボクは、うん、と力強くうなづいた。

 と、そのとき、ボクはふと向こうの部屋の隅に置かれた、生々しく赤いかけらに目を奪われた。

「あれはなあに? キナコサン」

「ん? ああ、何だろうな……」

 ボクはくんくんと鼻を動かした。いつのまに現れたんだろう? さっきまではなかったはずなのに……。ボクの鼻に、二番目が食べるネズミの血のような、生の匂いがぷんと香る。

 あれは獲物だ。ボクの奥底の声が囁いた。

 ボクははっとして、反射的に姿勢を低くした。赤いかけらは少し揺れている。生きてるんだろうか。ボクはじりじりと獲物に近づく。

 うん、あいつはボクにまだ気が付いていない。ボクはそのままじりじりと近づくと、二番目が獲物に飛びかかるように、ボクが何度も練習したように、ぱっと赤いかけらに飛びかかった。

 ボクの痩せた体はしなやかに、素早く宙を飛び、ボクのとんがった爪は獲物にぐいっと突き刺さる。その瞬間──。

 ガシャン!

 ボクが獲物をとらえた瞬間、周りの空気が飛び跳ねるような動きで震え、ボクはそのまま後ろを振り返った。


「あれ……」

 ボクは驚いて獲物を放り出し、身体をぐるりと一回転させた。ボクの目には、等間隔で並んだ銀色の線が映る。

「これって……」

 ボクはやっと事態を理解した。ボクは銀色のカゴの中に閉じ込められていた。

 ボクは獲物だけに集中していて、それがボクをカゴの中に閉じ込める罠だって気がつかなかったんだ。ネズミ捕り──そうだ、二番目が言ってたのはこれのことだ。

「どうしてネズミ捕りがおうちにあるの?」

 ボクは獲物をそっちのけで、ぐるぐるとカゴの中を回った。けれど、壁はおろか、上も下も、どこも銀色の線で囲まれていて、出られそうなところなんて全然なかった。

「こら、ボクを出せよ!」

 ボクは自慢のとんがった爪をシャッシャッと振り回す。しかし、カゴは壊れずに、ただボクの爪をじいんと痺れただけだった。

「キナコサン、キナコサン」

 ボクは必死になって、重たそうに寝転がっているキナコサンを呼んだ。

「ねえ、出られないよ、閉じ込められちゃったみたいだ、ねえ、キナコサン、どうにかしてよ」

 ボクの声があんまりうるさかったのか、キナコサンはようやくのっそりと起き上がると、ボクを囲む銀色の線の周りをぐるぐると回った。

「こりゃボウズ、こっから出るのは無理だなあ」

「嘘だ、何とかしてよ」

「何とかって言われてもなあ」

『ねえお母さん! スイカ、捕まってるよ!』

『あら、ほんと? よかった、ネズミ捕りってこんな使い方もできるのねえ』

『ね、ネズミ捕りに猫が引っかかるなんて、何か変なの』

 オカアサンとハルチャンの声が聞こえ、ボクはその大きな影を見上げて鳴いた。

「オカアサン! どうしてこんなとこにボクを閉じ込めるの!」

『ええ、ええ、わかってるわよ。でも、ほら、スイカったら最近おかしいでしょ? そんなに痩せちゃって、攻撃的になって』

『抱っこもできないから、こうするしかなかったの。ゴメンね』

 オカアサンとハルチャンが、カゴの中のボクを交互に覗き込むように言う。何を言ってるか分からないけど心配してるんだ、とボクは思った。

「ううん、違うんだよ、ボク今とっても調子がいいんだ。だから……」

『春ちゃん、お母さんは先に車用意してるから、スイカ連れて来てくれる?』

『うん、わかった。……さ、スイカはお医者さんに行って、手術しようね。大丈夫だよ、痛くないから』

「シュジュツ?」

 ボクがそう問い返した時、急にキナコサンが細い目を見開いて、ボクに叫んだ。

「そうだ、思い出したぞ」

 いつもぼんやりしているキナコサンは、シュジュツという単語で、どうしてかはっきりしたようだった。

「ボウズ、シュジュツはダメだ! オレのような腑抜けになりたくなかったら、シュジュツから逃げるんだ!」

『なあに? キナコさんも一緒に行きたいの? だめだめ、キナコさんはお留守番だよ』

 優しく言うハルチャンを遮るように、キナコサンが激しく鳴く。

「え? 逃げる? でもどうやって?」

「ハルチャンは、きっとお前をそのカゴから出すだろう。そのときがチャンスだ。そのときに、何としてでも逃げろ……お前の、可愛い彼女に手伝ってもらってでもな」

 彼女? ボクがはっと耳を立てると、おうちの中の気配を察したのか、二番目がボクに呼びかける声が聞こえた。

「二番目!」

「スイカ! どうしたの!」

「わからない。オカアサンはボクをどこかに連れてくみたいなんだ。シュジュツだって……」

「シュジュツ?」

「そうなんだ。でも、ボクはおうちの外で隙をついて逃げ出す。そうしたら、一緒に来てくれる?」

「スイカ……」

 彼女の声は一瞬潤んで、それから彼女は力強くうなづいたようだった。

「わかったわ。アタシ、スイカと一緒に行く」

「ありがとう、二番目」

 ボクは二番目の返事に心を奮い立たせた。おうちの中から逃げるんだ。

 ボクの深いところの声も、ボクの決心の後押しをする。ボクは覚悟を決めてそのときを待った。

『あ、あの猫ね? 夜中にスイカとお話してるの。ごめんね、スイカは今から「おねえ」になるんだよ』

 ハルチャンは何がおかしいのか自分の言ったことに、くすくすと笑うと、ボクの入ったカゴを持ち上げた。

「わあ!」

 ぐらん、と急に地面が揺れながら遠ざかる。ボクは必死で体勢を保った。ハルチャンはぱたぱたと歩いて、玄関で靴を履いた。

 いつも、ハルチャンやオカアサンが出ていく扉。あの扉の先は、外だ。

 ボクはどきどきしながら扉を見つめた。ボクは外に出て、自由になるんだ。

 ハルチャンはそんなボクの思いも知らずに、カゴを持ち上げると、扉を開け、外に出た。一瞬白い光がボクを包み込んで、ボクはぎゅっと目を閉じる。それから、ボクはおそるおそる目を開いた。すると、ボクの目に、今まで見たことのないものが飛びこんできた。

「あれが、ボクのおうち……」

 ボクは転ばないように前足を突っ張りながら、ボクの出てきたおうちを見た。

 二番目が言った通り、外から見たボクのおうちは四角かった。見回すと、周りにもおんなじような四角いおうちが並んでいて、きっとこの中にもボクとおんなじ、外からおうちを見たことのないネコが、おうちの数だけ住んでいるんだとボクは思った。ボクは叫んだ。

「ハルチャン、ボクを下ろして! ボクはお外に出たいんだ! ボクは自由になりたいんだ!」

『狭くて嫌? 可哀想だけど……』

 ハルチャンがボクを見つめる。ボクはここぞとばかりに鳴きまくった。

『車の中なら、カゴから出して春ちゃんが抱っこしててもいいよ』

 ブルブルとうるさく音を立てる、小さなおうちに入ったオカアサンが、窓から顔を出して言う。

『うん、それじゃ抱っこしてる』

 ハルチャンはそう言うと、小さいおうちに入りこみ、ボクをカゴから出すと膝の上に乗せた。

『ほら、抱っこしてあげるから大人しくしててね……』

 しかし、その言葉が終わらないうちに、ボクはハルチャンの膝を蹴り、逃げながら出口を探した。

『あっ、スイカ!』

 ハルチャンが叫ぶ。ボクは何とかこの小さなおうちから出ようと駆けまわった。

「スイカ! そこにいるの?」

 二番目の声が聞こえる! 窓の外から……そう思って、ボクは違うと思いなおした。窓に阻まれない、新鮮な声が聞こえる。

 ボクは後ろの窓を見上げた。そこは、ほんの少しの隙間が開いていた。ボクはためらわずにその隙間めがけて走りだした。

 前の太っちょのボクだったら、その隙間を通ることなんて不可能だっただろう。けれど、ボクは変わった。ボクは自由になることができる。だから、ボクは、ボクの深いところの声の言う通り、外の世界へ飛び出すのだ!

『スイカ、危ないから出ちゃダメ!』

 オカアサンが何か叫ぶ声が聞こえたけど、ボクは思い切りその窓の隙間へと体をよじらせ、高く、空中へ躍り出た。

『スイカ!』

「スイカ!」

 オカアサンの声と、二番目の声が完璧に重なってボクの耳に聞こえる。そのときボクは、放物線を描いて宙を飛んでいた。ボクを閉じ込めていた四角いおうちを逃げ出し、外の世界へと。

 ボクの鼻は嗅いだ事のない匂いを感じた。ボクの毛並みを外の風がすうっと撫でた。ボクの四肢は十分に伸びて、ボクはまるで飛んでるみたいな気持ちがした。

 向こうの庭で、二番目が、驚きながらも笑っているような目でボクを見ている。ボクはそのまま生け垣を飛び越えて、二番目の隣へ着地して──。

 そして、今、ボクの前足が、地面に触れる──。

 トン、と思いのほか軽い音を立てて、ボクは土の上に降り立った。

 これが、ボクの望んだ外の世界。二番目が暮らす、四角いおうちの外──その瞬間、地面からボクの足へと、ビリビリ! と、ものすごい衝撃が走り、その衝撃は一瞬でボクの全身を引き裂くように駆け抜けた。今までに味わったことのない、土の地面の感覚が、ボクの足にじんじんと伝わった。

「やったわ、スイカ! アナタは自由になったのよ!」

 二番目が嬉しそうな声を上げ、ボクに向かって軽々と駆けて来るのが見える。でも、ボクはそんな二番目のことに気が向かないくらい、土の感触に痺れていた。

 土の地面の少し、湿ったような、芯のある冷たさが、ボクの肉球から全身へと伝っている。ボクは顔を上げずに、じっと地面を、そこに立つボクの前足を見つめていた。ボクの全身の毛は驚いたまま逆立って、ボクの心臓はどくんどくん、とうるさいくらいに脈打った。

「スイカ、何してるの? 早く行きましょ! あのニンゲンが追いかけて来ないうちに! ……ねえ、スイカ、ねえ?」

 二番目が動かないボクを覗き込んで、不安そうに言う。

「スイカ? どうしたの? 早く逃げないと……」

「う、うん……」

 ボクはそれでも顔を上げずに、地面に四つの足を置いたまま、そこに立ち尽くしていた。

「スイカってば……」

 二番目の、甘い匂いがボクの鼻をくすぐる。ボクとおんなじしましまの毛皮が、ボクの身体を撫でるようになぞる。

 二番目と一緒に行くって決めたんだ。だから、行かなくちゃ。ボクは追い詰められたようにそう思う。けれど、ボクの足はそこから一歩も動くことができない。

 自由だ、これがボクの求めた自由じゃないか、何を待ってる、早く行け! ボクは、自分を説得するみたいに頭の中で繰り返した。そうだ、これが自由だ。ボクの言葉に、ボクの深いところから響く声がそう応える。

 その声は深い響きで、ボクの心に告げる。ボクたちは、この土の地面の上で生きてきたんだと。

 それは想像がつかないくらいずっと長い間のことで、ボクの親の、そのまた親の、親の、親の、親の、親の、はるか遠いボクの先祖が生まれた時から、この土の上でボクたちは生きてきたんだと、土を離れたことはなかったのだと、そう声は告げる。

 うん、わかるよ、ボクは泣き出しそうな声で応える。だってボクじゃない、ボクの足はこの感触を知っているもの。この冷たくそっけない土の上を、柔らかでくすぐるような短い草の上を、ボクは駆け抜け、とんがった爪で獲物を取り、鋭い牙でその肉を裂き、そうして生きて来たんだって、ボクじゃない、ボクの体は知っているもの。そう、ボクじゃない、ボクの中の誰かは。

 ボクの中の声は言う。そう、だから、そのためにこのしなやかな体はあるのだ。だから、そのためにこのとんがった爪はあるのだ。だから、そのためにこの鋭い牙は、この目は、この耳は、しっぽは、そのために、ボクがこの土の上で生きるためにあるのだ。

 うん、わかるよ、そうなんだって、ボクの中の声は間違ってないって、ボクの体は全身でそう感じている。ボクのすべてが土の上で生きていきたいって願ってる。けれど、ボクは、ボクは……。

 ボクはがたがたと震えながら、声を上げた。最初は細く、そしてだんだん大きな声で、ボクは声を上げ続けた。

 すぐ隣にいる二番目へではなく、ボクを探しているだろうオカアサンへでもなく、けれどまるで誰かを呼ぶように、ボクは鳴いた。にゃあ、にゃあ、にゃあ、にゃあ、にゃあ────

『スイカ? お母さん、こっちで声がした! こっちこっち!』

『ほんと? おーい、スイカ!』

 オカアサンとハルチャンの声がする。二人が、ボクを呼ぶ声がする。ボクはやっと鳴くのをやめて、のろのろと顔を上げて、二番目を見た。

 二番目はボクの周りをくるくる回っている。けれど、ボクはもう、新しい地面に一歩足を踏み出すことを、諦めていた。

「ほら、ニンゲンが来る前に逃げなきゃ! ねえ、スイカ!」

 二番目は必死になってボクの身体を押そうとする。ボクは二番目に、小さい声でにゃあ、と鳴いた。

「何言ってんのよ、スイカ! ねえ、スイカ!」

『お庭? お庭にいるの、スイカ?』

「スイカってば! アタシと行くって、そう約束したでしょ!」

「二番目……」

 ボクがやっとのことでそうつぶやいたとき、後ろでがさがさと大きな音がして、オカアサンの巨大な影がボクと二番目をすっぽりと包みこむ。そして、その影はボクを見つけてぴたりと止まった。

『あ、スイカ、見いつけた』

「スイカ! 捕まるよ!」

 そのオカアサンの声に、二番目はぱっと風のように逃げた。颯爽と土の地面を蹴って、しなやかな身体を思い切り空中に伸ばして、ボクが失くしてしまった野生の力で。

 きれいだ。ボクはその後ろ姿をしっかりと目に焼き付けた。土の上で生きている彼女の姿はとっても正しくて、そしてとってもきれいだった。

 それはきっと、ボクの手には届かない、ボクが知らず知らずのうちに捨ててしまった、本当の、ボクたちのあるべき姿だった。

『なあに、スイカ。あの女の子に振られたの? あんたに会いに来てたのに、女心は分からないわねえ』

 オカアサンはそう言いながら、ボクの痩せた体をひょいと持ち上げた。そして、もう一度、ボクを小さなおうちにいるハルチャンの膝へ置く。その間、ボクは目を伏せたまま、何にも抵抗をしなかった。

『ほら、今度はちゃんと持っててよ』

『よかった、スイカ、逃げちゃったかと思った……』

 泣き顔をしたハルチャンが、ボクの体をしっかりと抱く。

『じゃ、出発するよ。予約の時間、遅れちゃう』

 オカアサンが慌てたようにボクを振り返ってから、ブルンブルンとおうちを動かし始めた。ボクはハルチャンの胸で、流れていく窓の外の景色をぼんやりと見つめた。

 四角いおうち、四角いおうち、たくさんの四角いおうちがボクの目の前を過ぎていく。

『スイカったら、逃げたはいいけど、知らないところでびっくりして動けなくなってたわ』

『そっか、スイカ、おうちの中しか知らないもんね。怖いよね、ごめんねスイカ……』

 ぽたり、と水滴がボクの毛皮に落ちて、ボクはハルチャンを見上げる。泣き虫なハルチャンは涙をこぼして泣いていた。ボクは申し訳程度に、ハルチャンの頬の涙を舐め取った。

『ごめんね、スイカ、ごめん……』

 ぽろぽろと涙をこぼしながら、ハルチャンはボクに話しかけた。けれど、ボクは身体中の力を失ったように、ぐったりとしてボクのことばっかり考えていた。

 ボクはおうちの外には行けなかった。ボクたちはずっと土の上で生きてきたはずなのに、土の上の獲物を狩って生きてきたはずなのに。ボクの親の、親の、親の、ずーっと想像がつかないほどの昔から、そうやって生きてきたはずなのに。それなのに……。ボクはぎゅっと目を閉じた。

 それはきっと、ボクがオカアサンにゴハンをもらううちに、失ってしまったんだろう。それはきっと、ボクが四角いおうちで暮らすうちに、失ってしまったんだろう。それはきっと、ボクが座布団の上で暖かく眠るうちに、ハルチャンにボールで遊んでもらううちに、お風呂で身体を綺麗にしてもらううちに、ボクはボクの力を、土の上で生きる力を失ってしまったんだろう。

 ボクは全身の力を泣き続けるハルチャンに預けた。ボクの体は、ハルチャンの胸の中でとっても心地よくって、そのことがボクをもっと悲しくさせた。きっとこの心地よさは、ボクがあの土の地面の上では絶対に感じることができなくなってしまった、安心の温もりだった。

 ──にゃあ。

 そのとき、窓の外で微かな声が聞こえ、ボクは反射的にに伏せていた顔をぱっと上げる。すると、窓の外で塀の上に座った、ボクとおんなじしましまの毛皮をした、二番目と目が合った。

 ──にゃあ。

 その瞬間、ボクも窓越しに小さく鳴き返した。二番目、ボクと一緒に行ってくれるといった、二番目。ボクにいろんなことを教えてくれた二番目。

 ボクの声は届いただろうか、しかしそれは、ほんの一瞬のことで、ボクの目に二番目の表情ははっきりとわからないまま、景色はみるみるうちにゆき過ぎて、二番目の姿はあっという間に見えなくなってしまった。そして、窓の外にはまた二番目のいない景色が流れていく。

 さよなら、二番目。ボクは心の中でそう告げて、今度こそしっかりと目を閉じた。

 ボクはハルチャンが泣いているように、ボクの目からも涙がボロボロと流れればいいのに、と思った。そうすればきっと、ボクの心の中のこの悲しさも、悔しさも、苦しさも、少しは外へ流れていってくれるんだろうに。

 けれど、ボクの目から少しも涙はこぼれず、ボクの心は全部の感情を湛えたまんま、小さなおうちに揺られ続けた。時折、小さなおうちが止まるたびに、オカアサンがボクを振り返る気配がし、ハルチャンがボクの骨の出た背中を撫でる、温かい手を感じた。


 カシュッカシュッ、と音を立てて、ボクは今日もオカアサンのくれた、オサカナのゴハンを食べる。このゴハンは少し食べにくい、とボクは思う。けれど、そんなことはたいした問題じゃあない。

 ボクの隣では、キナコサンがおんなじようにカシュッカシュッと音を立てて、ゴハンを食べる。ボクの分のゴハンを食べなくなって、キナコサンは少し痩せた。

『はい、ごちそうさま、ね』

 いつのまにかボクたちの後ろにやってきたオカアサンが、優しい声をかけてくれる。

『よかったわ、スイカ、やっぱり手術してから食欲が戻ったみたいじゃない』

『うん、元通り、まんまるのすいかみたいになったね』

『ほんとね。あ、そういえば冷蔵庫にすいかがあるのよ、春ちゃん、食べる?』

『うん、食べる!』

 ハルチャンが嬉しそうにぱたぱたと駆けていく。ボクはお皿を舐めきると、のそのそ歩いてハルチャンの隣の座布団の上に身体を丸める。おうちの中はとっても暖かくって居心地がよくって、ボクはすぐに眠たくなってしまう。

『ほら、スイカ』

 ふと、ボクを呼ぶ声に顔を上げてみると、ハルチャンが手に赤いかけらを乗せて、ボクの鼻先に差し出していた。

 その色に、ボクは前に食べたいと思った赤い色を少しだけ思い出す。でも、きっとあれはこんな甘い匂いはしなかったな。ボクはそんなことをぼんやりと思いながら、何にも疑うことなく口を開けて、そのかけらをカシュッカシュッと砕いて飲み込んだ。

『お母さん、スイカがすいか食べたよ! 共食いだね!』

 泣き虫のハルチャンが、声を立てて笑う。

『本当? 猫ってすいかなんか食べるのね』

 オカアサンがにこにこしながら、ボクを見る。にゃあ、ボクは一声鳴いて丸まると、うとうとと居眠りを始めた。元通り、まあるくなったボクの背中を、ハルチャンがゆっくりしたリズムで撫でてくれる。

『スイカ、幸せそうだよね。学校も行かなくていいし、食べて寝てればいいなんて』

『猫の特権ね』

『いいなあ、あたし、生まれ変わったら絶対に猫になる』

『何言ってるの、この子は……』

 オカアサンとハルチャンの会話が、だんだんと意識から遠ざかっていく。幸せ、そうボクは幸せだ。夢うつつでボクは思う。ボクは、ボクが幸せだってことを否定する気なんて全然ない。だってボクは本当にそう思うから。本当に、本当に……。

 ボクは、夢の中でも平らに切られた爪を、見ないふりをしてふわふわと飛ぶ。

 ボクはとても気持ちがいい。今はまだ完全には忘れられていないけれど、けれどきっとこの四角いおうちの中で、まあるくなっているうちに、とんがってた爪のことも、窓の外にいたあの子のことも、深いところからボクに呼びかける声のことも、きっと何もかもを忘れてしまうだろう。

 だって、ボクは幸せだから。幸せすぎてもったいないくらい、本当に幸せだから。

 眠りについたボクのまあるいお腹の中で、ハルチャンのくれた赤く、甘いかけらがゆっくりと溶けていく。それはたしかに、オカアサンとハルチャンがくれる、ボクの幸福の味だった。


【まあるいボクの四角いおうち──完】

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