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小説 『何が、彼女を殺したか』 (17)

note公式テーマ「#家族の物語」応募作品。ある一人の少女が殺された後、残された遺族たちの再生の物語です。全21回にわたり、お届けします。

▶︎目次

再び、断絶の章(前編)


 休日の今日、うさぎの公園は普段よりもたくさんの親子連れで賑わっていた。暑いとはいっても夏休みが終わり、秋に入ったという安心感からだろうか。池沿いの散策路を歩く人も多い。

「おれ、最初は滑り台!」
「じゃ、早く行ったほうの勝ちね! よーい、どん!」
「あ、ずるすんなって!」
「ずるしてないでーす!」

 そのとき、きゃあきゃあと騒がしい声を立て、子供たちが目の前を駆けていった。小学生くらいの男の子と、女の子。きっと兄妹なのだろう、少し離れた後方からベビーカーを押す母親が「転ばないでよ」と声をかける。けれど、そんな注意は耳に入らないのか、兄妹は我先にと転がるようにして坂を下っていく。

 その小道の脇に建つ、小さな東屋(あずまや)に身を隠すように座った私は、その無邪気な姿から目を逸らし、俯いた。すると、まだ膨らみも定かではない下腹部が自然と目に入った。

 いまはまだ親指の先ほどだという、小さな小さな命が息づく場所。いつかはあの子たちのように公園を駆け回り、もっと先の未来には、それを見守る親になるはずの小さな命。そうして命は巡り、人は大きな幸せを築き上げていく──込み上げてくるものを必死に飲み込みながら、私は思った。子供を産み、育てるということはきっと、その大きな幸せの一部になるということなのだろう。そう、きっと普通の人々にとっては。異分子である、私以外のみんなにとっては。

 みんなにとって当たり前のことを、私が信じることができないのは──それはやはり真紀のせいだった。大人になることもできず、子供のまま殺された真紀のせいだった。いや、そればかりではない。それは真紀が殺されたせいで家族がばらばらになったせいでもあったし、またそのせいで私が普通から弾き出されたせいでもあった。

 足元のコンクリートの染みに視線を落とし、私はさらに考える。それはあれから25年も経ったというのに、私の父が復讐を忘れず、自ら殺人犯になろうとしているせいだった。母がそれを止めないせいだった。それだけでも十分なのに、最後のとどめを刺すように起こった事件のせいだった。あの日、私が両親の話を盗み聞きしてしまった直後、ラパンで起こった事件の──。

 私の視界はみるみる滲み、コンクリートには丸い染みが一つ増えた。この小さな東屋は、かつて伊藤が私を慰めてくれた場所だった。過去に足を取られ、何もかもうまく行かないと泣く私にココアを差し出し、そのすべてを聞いてくれた場所だった。『でも、死んだのは妹で、君じゃないじゃん』と、あのとき伊藤はそう言ってくれたのだった。『俺なんかあれだよ、高校のとき、交通事故で腕がポッキリいったんだから。しかも利き手』と自慢げに。

 そうして伊藤は、私が二度と戻れないと思っていた日和見菌たちの世界へ、簡単に招き入れてくれたのだった。だから私は彼といることができたのだった。自分こそ特別だと信じて疑わない彼の隣にいれば、私は普通でいられたから。実際、彼は特別で、私は普通だった。けれど、結局はその彼の特別さが今回の事件を引き起こしてしまったに違いない。

 あの日、ラパンの休憩室で、両親の会話を盗み聞きしてしまった私は泣いていた。25年経ったいまも、家族はばらばらのままだということを目の当たりにして、悲しむことしかできなかったのだ。手嶋が──あのお節介なアニメオタクが現れたのはそのときだった。泣いている私を見るなり、彼はいつものあのお節介癖で、『どうしたの、店長と何かあった?』と尋ねてきた。

 『来ないで、放っておいて』。私はそう言って拒否したが、彼は立ち去るどころか、真面目な顔をして私の向かいに座った。そして、『シャルルの呪文の意味って知ってる?』と、突然、何の関係もないことを話し出した。『有名かもしれないけど、あれって英語なんだよ。オル・フォル・ギュネス(all for goodness)、すべては善いことのためになされるべきだっていう意味なんだって』と。

 『あっちへ行ってって言ってるでしょ』、あのとき私はそう叫ぶべきだった。彼のためにも、そうするべきだった。けれどそうしなかったのは、そのときの私はあまりに悲しく、そうする気力もなかったからだ。聞いているふりさえしない私に、手嶋が話し続けたからだ。けれど、その一番の理由は、迷惑なはずのその話を聞いているうちに、なぜか不思議な気分に陥ったからだった。ずっとずっと遠い昔、聞きそびれた懐かしい物語の続きを、いまになって聞いているかのような──。

 伊藤がドアを開けたのはそのときだった。私と向かい合わせに座った手嶋との距離は、決して近くはなかった。けれど、彼はそこに自分の入ることのできない親密な空気を感じ取ったのだろう。そして、怒りに我を忘れた。

『てめえ、俺の女に何しやがる!』

 伊藤はそんなようなことを言って殴りかかった。口喧嘩さえしたこともなさそうな手嶋は、驚くほど簡単に床に倒れ──頭から血を流して動かなくなった。

『きゅ、救急車を呼ばないと』

 ようやく私が呟いたのと、ことの重大さに気づいた伊藤が休憩室から飛び出していったのは、ほぼ同時だった。『殺してしまったと思って逃げた』と、アパートに戻ったところを逮捕された伊藤は、警察の取り調べにそう供述したらしい。よほど打ち所が悪かったのだろう、手嶋は意識不明の状態だった。その夕方、伊藤の名前は過失傷害の容疑者としてニュースに流れた。その肩書きが「元・会社員」となっていたのは、事件を知ったラパン本部が、すぐさま彼の首を切ったからだろう。私は警察で彼を待ったが、彼は身元引き受け人に母親を指名した。帰ったほうがいいと警官に勧められ、私は二人のアパートへ戻った。しばらくぼんやりしたあと、彼の身の周りのものをバッグに詰めようと思い立ったが、母親と実家に帰るのならそれも必要ないだろうと、再びぼんやりと座り込んだ。

 時計の針は真夜中過ぎを指していた。私は明日のために少しでも眠って、手嶋の見舞いに行かなくてはならない。すでに新しい店長がいるラパンに出勤して事情を説明しなければならない。そうしながら何とかして伊藤と連絡を取り、これから私たちはどうなるのか、尋ねなければならない。そして、その返答次第では、この一人には広すぎるアパートは引っ越さなくてはならないし、新しい仕事を見つけなくてはならないし、何よりもこのお腹に宿った命をどうするのか、決めなくてはならない。産んで一人で育てるのか、それとも──。

 そこまで考えて、私は八つ当たりをするように握りこぶしを床に叩きつけた。この命をどうするか決めなくてはならない? 嘘だ。そんなことは初めから決まっている。いや、決められてしまっている。妹が殺され、家族が離散し、私の父が人殺しを企てているその上で、伊藤もまた人殺しになろうとしている。そんな状況で産むなどという選択肢を選べるはずがない──。

 事件の翌日、私は結局、手嶋の見舞いに行かなかった。ラパンにも出勤しなかった。そうして何もかも放棄して、この東屋で座っていた。考えても仕方のないことばかりを、ぐるぐると考え続けていた。あれから一週間、それが私のしているすべてだった。日に日にお腹の中で大きくなる命の存在に怯えながら。

 また一つ、新しい染みがコンクリートに吸い込まれていき、私は鼻を啜りあげた。子供の声が賑やかに響き渡る公園で、過去から現在に戻った私は下腹をなぞり、今度は未来の想像をした。堕胎のために産婦人科へ行く自分を。バイトで貯めた全財産を財布に詰め込み、待合室の隅で順番を待つ自分を。

 夫婦なのだろうか、嬉しそうにささやきを交す男女をぼんやりと見ていると、梶田さん、せかせかした看護婦が私を呼び、汚いクリーム色のカーテンを開ける。そこには男の医者がいる。どうされました、気の無いふうに尋ねる。堕ろしたいんです、私は言う。けれど、その声はあまりに小さいため、医者の耳には届かない。赤ちゃんを堕ろしたいんです、聞き返された私は勇気を振り絞って、もう一度言う。育てられる自信がないので、と今度は言い訳を付け加えることも忘れずに。

 すると、私は白いベッドに寝かされていて、その私を手術着を着た医者が覗き込んでいる。手術は無事終わりましたよ、医者が言う。このまましばらく安静にしていてくださいね、と言って去っていく。白い部屋に、私は一人取り残される。赤ちゃんはいなくなってしまった、私は考える。私の赤ちゃんは死んでしまったのだ、と。

 いつもならば、想像はここで終わりだった。そして、私の思考は再び最初に戻る。公園の子供たちを眺め、どうして私の赤ちゃんにはあんな未来がないのだろうと考え、過去の記憶を辿りだす──。

 しかし、何日も同じ場所に座り、同じ想像をし続けたせいだろうか。そのときふと、私の思考は道を逸れた。不快な痛みを感じたように、私は小さく顔をしかめた。赤ちゃんは死んでしまった? いや、それは違うだろう。赤ちゃんは殺された、それが正しい言い方だ。

 ──けれど、それはによって?

 すると、胸に新しく、ささやかな疑問が生まれた。それは母親の私? それとも父親である伊藤だろうか? いや、それが誰が殺したかという問いならば、医者や手伝いの看護師だと答えるのが正確かもしれない。けれど、彼らを人殺しと呼ぶのは、あまりにも乱暴だろう。

 私はしばらく思考を巡らせた末、もしこれがお父さんだったら、と思った。もし、ここに父がいたら。真紀のために村野正臣を殺すと言い切った父がいたなら、あの人は殺された赤ちゃんのため、誰に復讐してやると言うだろうか。誰の心臓にナイフを突き立てることを選ぶのだろうか。

 ぼんやりと考えているうちに、あの無機質な法廷の風景が私の目の前に広がった。25年前、何度も通った裁判所。あのときの光景のままに、検察官と弁護人が左右に分かれ、傍聴席は大勢の傍聴人で埋まっている。その後ろには、騒ぎがあったときのための廷吏が2名、休めの姿勢で立っている。25年前と何か違いがあるとすれば、それは裁判長席と被告人席で、裁判長席に座った父は木槌の代わりにギラギラ光る包丁を手にしていて、被告人席のあるべき場所にはその包丁を突き刺すときに暴れないようにか、拘束具のついた木台が据えられている。そして、その木台の前には4人の人間が横一列に並んでいた。4人とはもちろん、私と伊藤、それから顔も知らない医者と看護師だ。どうやらこの中から罪を負うべき1人を選び出そうということらしい。

『静粛に』

 そのとき裁判長席の父が、木槌代わりの包丁を振りかざし、口を開いた。

『さて、ここに集った全員が知っての通り、この度、一つの小さな命が奪われた。梶田由紀のお腹に宿っていた赤ん坊だ。赤ん坊と言えど、命は命。その命は、奪った者の命によって償われなければならない。そこで、本法廷は彼を──いや、まだ彼か彼女かさえ分からなかったその赤ん坊を殺したのはなのか、ひいては誰が死罪に値するのか、議論を行いたいと思う。ぜひとも忌憚なき意見をお願いしたい』

 すると早速、厳しい顔をした検察官が立ち上がり、口を開いた。

『赤ん坊殺しの犯人は、その母親であると言っていいでしょう。ついては、死罪に値するのは梶田由紀に違いありません』

 私を指差し、断言する。

『なぜなら、母親である彼女の同意なしに堕胎は行われない。赤ん坊を殺す決断をしたのは、彼女です。その決断が赤ん坊を殺したのですから』

 そうだそうだ──傍聴席から声が上がった。その大勢でありながら足並みの揃った声に思わず振り返り、よく見ると、そこに詰めかけていたのは個を持った人間ではなく、大勢がくっついて一つの塊になったような日和見菌たちだった。彼らは当事者と部外者を隔てる安全な仕切りの向こう側から、私たち4人の中から一体誰が選ばれるのか、心から楽しそうに見守っているのであった。

『いえ、死罪がふさわしいのは梶田由紀ではなく、父親の伊藤雅人でしょう』

 傍聴席に気を取られていると、そのとき別の検察官が立ち上がった。

『梶田由紀は、何も1人で赤ん坊を作ったわけではない。そこには父親──伊藤雅人の存在があるわけです。けれど、彼は暴力事件を起こした。手嶋という男を殴って、過失傷害で逮捕されたのです。それだけではない、 梶田由紀は彼に何度も殴られています。そんな人間が父親として相応しいか? 答えは否です。もし、無事に生まれたとしても、その暴力は結局赤ん坊を殺すかもしれない。梶田由紀は、伊藤雅人のせいで、泣く泣く赤ん坊を諦めざるを得なかったのです』

 力強い説明に、傍聴席から、なるほどという声が漏れる。

『異議あり!』

 しかし、そのざわめきを断ち切るかのように、また別の検察官が大声を上げた。彼はこれまでの発言がまったく理解できないとでもいうように、肩をすくめて法廷を見回した。一つ咳払いをしてから、口を開く。

『みなさん、これが赤ん坊殺しの裁判だということを忘れてはいませんか? ならば、殺したのは誰か。そう考えれば、罪を負うべき人物は明白です』

 彼は医者を指差した。

『そう、他でもない彼の手こそが、幼い命を摘んだのです。つまり、彼こそが死罪にふさわしいのではないでしょうか』

 裁判長席の父が、鋭い眼光で医者を見る。その視線に満足したように、検察官は付け足した。

『また、ここに私は看護師の罪も追求しましょう。なにせ、彼女は医者が赤ん坊を殺す手伝いをしたのですからね』

『そんな馬鹿な話はない!』

 すると、たまりかねたように弁護人が声を上げた。

『堕胎は法律で認められていて、医者や看護師はその法律で守られている! 頼まれて堕胎する医者を人殺し呼ばわりするなんて、そんなことがあってたまるか!』

『それに付け加えるなら、そもそも生まれていない赤ん坊は法律上、人間とはみなされません。人権も何もない。だから中絶が可能なのです』

 隣の弁護人が冷静に頷く。しかし、裁判長席の父は納得するどころか、カッと眼を見開き、その弁護人を憎悪の目つきで睨みつけた。

『ということは、その法律に赤ん坊を殺しの罪があるということか』

 父が舐めるようにそこにいる全員を見回す。その低い声は、地響きのように法廷を揺るがした。

『いいか、もう一度周知しておく。本法廷は赤ん坊殺しを裁く場である。もし、その法律がなければ、赤ん坊は殺されなかったというのならば、罪はその法律が償うべきだ。本法廷の権限をもって法律に死を与え、二度とそんな悪法が世に蔓延(はびこ)ることのないようにしなければならない』

『いや、しかし──』

 弁護人たちは何か言いかけたが、父の手に光る包丁を見て、それを諦めたようだった。被告席を争う4人の列に「法律」が加わり、私たちは5人になった。それを見て、ふと別の検察官が口を開いた。

『しかし法律にも罪を認めるということになると、社会制度にも罪を認めざるを得ないのではないでしょうか? 例えば、福祉のことですが……』

 検察官は考え込むように続けた。

『例えば、梶田由紀が暴力的な夫に頼らず、シングルマザーとして赤ん坊を出産したとして、それでも生活が十分に保障されるような制度があったなら、赤ん坊は殺されずに済んだかもしれません。そう考えると、私たちは現在の福祉制度に死を与え、より手厚い福祉を生み出すべきでは──』

『それにつきまして、傍聴席のみなさんの意見を代弁しますと』

 検察官の話を遮って、また別の検察官が大きな声を出した。ちら、と傍聴席の日和見菌たちを見やる。つられてそちらに目をやると、いままで身を乗り出して目を輝かせていた彼らは、気まずそうにあらぬほうを向いていた。

 検察官は歯切れ悪く続けた。

『えー、社会福祉というものは、本当に最後の最後の手段であって、自己解決できる可能性のある人間が、簡単に利用するというのは甘えでしかないでしょう。ここにいるみなさんもそれぞれの事情を抱えていらっしゃいますが、努力していまの生活を築き上げ、血税を払う側へ回っているわけです。ですから、梶田由紀に関しましても、まずは福祉を頼らず、自分で努力してみることが大切であって……もしそれでも立ち行かないというのならば、次善の策として身近な人が支えるべきじゃないでしょうかというのが、私もでありますが、みなさんの意見であると思いますが──この場合、それは母親の梶田美希子です』

 検察官が誰かを紹介するように右手を差し出す。すると、その隣にはいつのまにか年老いた母の姿があった。彼に促され、母も死罪候補の列に加わる。その姿を目で追いながら、検察官は続けた。

『もし、彼女が娘を突き放さず、その出産や育児を手助けできる関係であったなら、梶田由紀は赤ん坊を産むことができたでしょう。ということは、そういう環境をつくらなかった母親にも、赤ん坊殺しの責任があるに違いありません』

『梶田美希子に責任があるというのなら──』

 すると、思わずといったように検察官の1人が立ち上がった。小さく息を吸い、覚悟を決めるようにして、一段高い場所にいる裁判長を──父を見上げる。

『彼女よりも大きな罪を持つ人間を、私はここに糾弾しましょう。それは、あなたです──雨ヶ谷洋介裁判長』

 突然の糾弾に、父はぴくりと眉を上げた。無言のまま、先を促す。検察官は続けた。

『ここにおります裁判長──いえ、梶田由紀の実父・雨ヶ谷洋介は、25年前、由紀の妹であるもう一人の娘、真紀を殺害された恨みを晴らすため、なんと仮釈放された加害者を殺害する計画を企てています。いいですか、この男は人殺しを──殺人を企てているのです。先ほど、伊藤雅人の過失傷害の話が出ましたが、どちらの罪が重いのかは明白でしょう。伊藤が暴行犯なら、雨ヶ谷洋介は完全なる殺人犯です。赤ん坊はその孫となるのです。生まれてくる子供に「殺人犯の孫」という足枷をつけたくない、そんな梶田由紀の思いは理解できます』

『しかし、伊藤雅人はすでに罪を犯しましたが、雨ヶ谷洋介の犯行はまだ行われていません。そう考えると──』

 弁護人の指摘に、検察官は首を振る。

『いいえ、彼は必ずやり遂げます。ですから、これは既成事実と同等であると言っていいかと』

『検察官の意見を認める。雨ヶ谷洋介は直ちに被告の列に加わるように』

 厳かな声に裁判長席を見上げると、そこにはいつのまにか別の裁判長が現れていて、居場所を失った父はその命令通り、しかし不服そうに段を降り、私たちのほうへと歩いてきた。

『……しかし、そうすると、また新たな被告が増えるということにはなりませんかね』

 その歩みを待つ間、考え込むように検察官が呟いた。

『村野正臣ですよ。そもそも彼が雨ヶ谷真紀を殺さなければ、雨ヶ谷洋介も殺人を考えることはなかったはずです。また、それだけじゃない。彼は妻の梶田美希子とも離婚せず、そうなると梶田由紀は至極普通の家庭で育ったことが想像されます。そうすると、ですよ? 彼女は就職した会社できちんと働くことができ、そうなれば伊藤雅人のような暴力男と付き合うこともなく──』

『いや、それは単に男の趣味が悪いだけでしょ』

 弁護人の皮肉に、どっと傍聴席が湧いた。一度は法廷から目を逸らした日和見菌たちが体を揺すり、笑っている。殺人事件に同情した次の瞬間には、パンダの赤ちゃんが可愛いと歓声を上げ、芸能人の結婚に一喜一憂する彼らにとっては、この法廷すら他人事であり、対岸の火事なのだ。その楽しげな様子に、違う──私は無性に苛立ちを覚えて叫んだ。

『違う! 私たちは悪くない!』

『被告人は静粛に』

 裁判長が木槌を鳴らした。騒ぐと罪が増えますよ、弁護人が目顔で合図してくる。けれど、私は止まらなかった。25年分の怒りが体中を駆け巡り、その怒りは日和見菌たちに向けた奔流(ほんりゅう)となって、私の口から飛び出した。

『赤ちゃんが殺されたのは私たちのせい? 違う、私の赤ちゃんが殺されたのは、あなたたちのせいだ。あなたたちが私を異物扱いして、仲間外れにしたせいだ。あの子が妹を殺された子だと、可哀想な子だと、こそこそ噂したからだ。そしてこれからも同じことを──いいえ、もっとひどいことを生まれてくる赤ちゃんにもするだろうと、簡単に想像がつくからだ。殺人犯の孫、暴行犯の子と囁(ささや)かれながらの人生がどんなに辛いか、あなたたちに分かるか。あなたたちがこの子を受け入れてくれないから、この子は死ななくちゃならないんだ!』

 声が割れるほど滅茶苦茶に叫ぶと、法廷はしんと静まり返った。私の思いは彼らに届いたのだろうか、そう思ってしてしまうほどに。けれど、やはりそれは錯覚であったらしい。

『おや。ということは、またまた被告人が増えたということですかねえ。とはいえ、不特定多数の人たちに罪を──ましてや死罪を突きつけることなど、まったくもって不可能なことですが』

 馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに、肩をすくめて裁判長は笑った。すると、その仕草にほっとした日和見菌たちも同じように声を立てて笑った。明るく楽しげな雰囲気が法廷に満ち、私の怒りは急速にしぼんだ。

 裁判長の指摘は現実的だった。もし、私の糾弾が正しく、彼らに罪があったのだとしても、彼の言う通り、その罪は不特定多数の人々によってほとんど透明なまでに薄まり、それを全員に償わせることなど不可能だった。

 そう考えて、私はふと息を止めた。赤ん坊殺しの罪。その命を命で償うために集められた、私たち被告人の列。この列に並んだ誰かの罪が死罪に相当するのだと、法廷は言う。

 けれど──私は考えを巡らせた。彼らは私たちの罪状を読み上げた。しかし、そのどれもが決め手に欠けるものだった。だからこそ、被告人の列は次第に長くなり、しまいには不特定多数の人間まで巻き込んだのだ。

 つまり、私たち一人一人が抱える罪は、どれ一つとして完全ではなかった。それは例えるなら、被告人全員がそれぞれ同じパズルのピースを持っているようなもので、けれど、赤ん坊殺しの絵を完成させるためには、その全てのピースを──私や伊藤、医者、看護師、父に母、村野正臣、さらに言うならば法律に社会福祉制度、誰であるかさえ分からない日和見菌たち、そしてもしかしたら25年前に殺されてしまった真紀さえ持っているかもしれないピースを一つ残らずかき集める必要があった。そうしなければ、パズルは──赤ん坊殺しの罪は完成しないのだ。命を命で償うというほどの完全な罪は、誰か一人の罪では成立しないのだ。

 しかし、だというのに、その罪は誰かによって償われなければならないと法廷は言う。この赤ん坊殺しという大罪は、誰か一人の命によって償われなければならない。それが死罪というものだから。

『さて、そろそろ結論を出さなければ』

 再び静まった法廷を、裁判長が感情のない目でぐるりと見渡した。被告人たちの長い列を端から端までゆっくりと眺める。そして、おもむろに問うた。

『さあ、この中で一体、が死罪にふさわしいだろうか?』

 いつのまにか、彼は父の持っていたはずの包丁を手にしていた。私たちの中の誰かに、ぎらぎらと光るその刃は振り上げられる。振り下ろされる。誰かの心臓に突き刺さり、彼に裁きの死を与える。

「いやあああああ!」


▶︎次話 再び、断絶の章(後編)


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