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ショートショート 『美しき妻』

 雨に烟《けぶ》る山は青く、行き過ぎる雲は深く白い。躑躅《つつじ》の終わった小さな庭には、空の太陽の代わりのような、紫陽花《あじさい》が眩しく咲いている。

「綺麗だね」

 私は、傍《かたわら》の彼女をそっと抱き寄せた。その物憂げな顔。柔らかな頬に口付けしたくなる衝動を堪え切れずに、唇を近づける。

「……イングリッシュ・ガーデンにしたかったのに」

 私の唇をふいと避けて、彼女は何度目かの呟きを口にする。視線は庭の一角を見つめている。いまは黒い土だけが剥き出しになり、雨に打たれているその場所は、彼女がバラやライラックやハーブの類――つまりイングリッシュ・ガーデンにするための様々を植えていた場所だった。しかし、それらは五月の暑さのせいか、はたまたこの梅雨のせいか、見事なまでに枯れ果ててしまい、跡形も無くなってしまっていた。彼女の憂鬱はそれだった。生き生きと咲く紫陽花が、その憂鬱に拍車をかけた。

「ここは日本だからね」

 抱き寄せた彼女の耳に、私は囁いた。

「イギリスの花は、イギリスじゃないと難しいのかも」
「でも……」

 不服そうに彼女が見上げる。胸まで上げていた毛布がはらりと落ち、美しい双丘が露わになる。愛しの我が妻。私は今度こそ、その柔らかな頬に口付けすると、私の双丘を彼女の背中に押しつけるようにして、後ろからきつく抱きしめ、こう言った。

「置かれた場所で咲きなさいってよく言うけど、あれは人間だからこそ言えるのかもしれないね。イングリッシュ・ガーデンが作りたいなら、二人でイギリスに引っ越そうか」
「うちの奥さんは大胆だね」

 すると、彼女は嬉しそうに笑った。

「奥さんも、満更でもなさそうじゃない」

 私も笑った。

「行ってみる? イギリス」
「うーん、まずは旅行かな」

 そう言うと、彼女はこちらを振り向き様に、私をベッドに押し倒した。重なった唇の隙間から、優しい吐息が漏れていく。紫陽花が雨に打たれている。蕾の向日葵《ひまわり》が咲くのは、これからだ。

『美しき妻 完』

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