見出し画像

小説 『何が、彼女を殺したか』 (3)

note公式テーマ「#家族の物語」応募作品。ある一人の少女が殺された後、残された遺族たちの再生の物語です。全21回にわたり、お届けします。

▶︎目次

復讐の章(後編)


 夜へ向かう町をぐるりとランニングして家に戻り、息も整えないまま何種類かの筋トレをすると、俺はシャワーを浴びるため、浴室へと向かった。ちらりと視線をやった洗面所の鏡を、むさくるしい六十男の顔が横切る。

 薄くなった頭髪、白髪混じりの太い眉、シワの増えた目元に、たるんだ首元。その容貌は年相応に老いてはいたが、トレーニングのおかげで首から下の肉体は以前とは比べ物にならないくらい引き締まっている。

 否、比べ物にならないどころか、まるで別人だ。25年前──いや、妻と出会う以前から、俺は「冬眠前の熊」とからかわれるほど見事な脂肪を体に蓄えていた。膝を怪我して、学生時代から励んでいた柔道を辞めたせいだ。それが料理上手な妻と結婚してからは、太り具合に拍車がかかった。幸せ太りですね──同僚たちに冷やかされたが、悪い気はしなかった。俺はあの頃、本当に幸せだったのだから。

 くまさん──新婚当時、俺をそう呼んだ妻の声がふと脳裏に蘇った。優しくて勇敢なくまさん──その呼び声は、子供が生まれると「お父さん」に代わったが、その優しい調子は変わらなかった。馬車馬のように働き、この家を買うことができたのも、その妻あってのことだった。それも、いまは元・妻だが。

 くまさん、と呼ぶには獰猛すぎる獣が映った鏡から目を逸らし、俺は浴室のドアを開けた。村野への復讐を決めてから、俺は以前の人間関係を完全に絶っていた。妻と離婚し、勤めていた会社を辞め、できるだけ人目につかず、また人間関係を持たなくてすむ職場──警備会社で夜勤を始めた。しかし、もし昔の知り合いとばったり出くわしたとしても、彼らが俺に気づくことはないだろう。俺の外見はそれほど変わった。だが、それは内面も同じだ。

 シャワーのコックを勢いよく上げると、熱い湯が肌を叩きつけた。起きてトレーニングをこなした後、シャワーを浴びて出勤する。これはあれから20年あまり続けている、俺の大事な習慣だった。

 ──村野を絶対に殺してやる。

 真紀にそう誓った俺は、まずそのために為すべきことをリストアップした。肉体改造はそのリストの一番上に書かれたものだった。

 当時大学生だった村野は俺より10以上も若かった。10歳もの肉体の差は、これから縮まるどころか、年をとる毎に顕著になる。そんな相手を殺すのに必要なのは、何よりも筋力だ。真紀の感じた痛みを村野に味わわせてやるためには、相応の力が要ると俺は考えた。同時に、戦略もまた重要だろう。

 まず、驚く暇も与えずに包丁で一突き。それから戦意を削ぐために、手や足を──すぐには死なない場所を何度も何度も繰り返し突き刺す。そうして動きを奪っておく。その後、おもむろに奴の髪を鷲掴みにする。その顔をこちらに向け、間近でその目を睨みつける。

 「俺が誰か、分かるか?」、俺はそう言って眉間に刃先を突きつけるだろう。殺してやる、という意志を剥き出しにして。その気迫に怯え、「許してください」と、そのとき村野は命乞いをするだろうか? もし、するなら聞くだけは聞かせてもらおう。何か言い訳があるなら、それも聞いてやろう。けれど、命だけは助けてくださいだなんて、そんな図々しい頼みを聞く気は毛頭ない。真紀の痛みを思い知れとばかりに、俺は再び包丁を振り上げる。たっぷりその刃先を見せつけた後、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げて、振り下ろす。それを村野が絶命するまで繰り返す。完全にその悲鳴が消え、心臓が止まり、その体がピクリとも動かなくなるまで繰り返す。その頃にはきっと、村野も真紀と同じような肉片と化しているだろう──。

 想像の村野を殺し終えると、俺は息をつき、シャワーを止めた。これも村野を殺すための準備の一つだった。イメージトレーニングと言えばいいのだろうか、こうして毎日その瞬間を想像していれば、いざというときに怖気づくことはないだろうと思ってのことだ。その甲斐あって、初めは村野の顔をうまく思い浮かべることさえできなかったが、いまではこの全身から滴り落ちる水滴が赤く生臭い返り血であるような気さえするほどに、想像に入り込めるようになっている。本番もきっとうまくいく──そんな自信が体中に満ちている。

 あとは、いつ、その日が来るかだけだ。風呂を出て、返り血──ではない、水滴をバスタオルで拭(ぬぐ)いながら俺は考えた。限界まで薄くなった脂肪の下に盛り上がった筋肉を確かめながら、ごしごしと体を拭(ふ)き上げる。

 その日、とは言うまでもなく、いまは刑務所に入っている村野を、俺がこの手にかけることのできる日──つまりは、村野が塀の中から放たれる日のことだった。

 そう、村野はいつか塀の外へと放たれる。それは最高裁判所が、第一審、二審の死刑判決を覆し、村野に無期懲役刑を言い渡したからだった。

 無期懲役。俺は以前、それは犯罪者を一生牢屋へ閉じ込めておく刑罰のことだと思っていた。しかし、その考えは大間違いだった。それはその言葉の響きとは裏腹に「仮釈放による社会復帰の可能性のある刑罰」であり、また「服役して10年経過すれば、仮釈放の可能性が検討される」刑罰なのである。

 つまり、25年服役した村野は、いつ刑務所を出てきても不思議ではない身なのだ。

 一方は殺害され、永遠に死へと束縛されるというのに、罪を犯したもう一方は自由に残りの人生を楽しむことができる。どうやら、この国の司法はそれを良しとしているらしい。娘を殺された俺たち──被害者遺族の気持ちも考えず、それどころか「これだけ刑を与えたのだから我慢しなさい」と言わんばかりの対応をするのだ。25年も服役したのだから、そろそろ許してあげなさい、と。

 25年の服役がなんだというのだ──そう考えるたび、俺ははらわたが煮えくり返るような悔しさを感じた。6歳だった真紀は、これから何十年もの時間を生きるはずだった。それをたったの25年で許す? そんなことができるだろうか?

 悔しさは憎しみを加速させ、いつしか俺はその日が来るのを渇望するようになった。この手であいつの命を奪うことのできる日が、この国の司法が下した判断に逆らい、被害者遺族の声をその歴史に刻み込む、その日がやってくる。真紀の命を奪ってなお、のうのうと生きる村野に、その罪を思い知らせる日がやってくるのだ。そうしなければ、俺たちは報われないのだ。

 思いの丈を叩きつけるように、俺は鏡の中の自分を睨(にら)み返した。その老いた容貌。決して返らない、25年という時間。その間に生まれ、育ち、凝り固まった大きな憎しみ。

 あの日、司法は村野を殺すべきだった。死刑を言い渡し、それを速やかに実行すべきだった。もし、彼らがそうしていたのなら、鏡の中の俺はいまよりずっとましな顔でこちらを見つめ返してきただろう。俺と妻も離婚などせず、由紀もこの家を離れずにいたかもしれない。

 けれど、そうはならなかった。

 一軒家に人気(ひとけ)はなく、夏の夕方も冬の朝も、いつでも同じ静寂に支配されている。床についた染みも傷もそのままで、仏壇の真紀はそれを悲しそうに見つめている。

わるもんは、いいもんがやっつけてくれるんだよ』

 それはいつかの──幸せだった頃の日曜の朝だった。子供向けのアニメを熱心に見ていた真紀は得意げにそう言ったものだった。

『だからお父さん、あたし、大人になったらいいもんになってわるもんをやっつけるんだ』

 こうやってね、リボンをつけて、じゅもんを言ってね──ダンボールを切り抜いて作った大きな変身リボンをつけ、真紀は奇妙な呪文を唱えた。真紀がうまく言えないその呪文を、由紀が正確に唱えてみせた。妻は朝食が終わったテーブルを片付けながら、ソファで新聞を読む俺と視線を交わし、くすりと笑ったものだった。そんな穏やかな時間が、かつて、この家にも流れていたのだ。けれど、夕闇の色に染まり始めたリビングには、あの頃の幸せなど、気配すら残ってはいなかった。

 つまり、この世界にいいもんはいなかったのだ──俺は真紀の跡を見下ろし、思った。何の罪もない、小さな女の子が殺されようというのに、いいもんは助けに来てはくれなかった。わるもんの村野をやっつけてはくれなかった。

 八つ当たりのように考えて、笑うように息を漏らす。いい大人が、子供騙しのアニメのごとく、誰かのピンチに駆けつける正義の味方がいるなどと信じてどうする。そんなものは誰かが作り出した架空のもので、実際に存在するわけがないのに。

 けれど──同時に、俺の頰には皮肉な笑みが浮かんだ。けれど、復讐を決意するそのときまで、俺もある意味、正義の味方を信じていたのだ。警察や検察、裁判所といった、この国の司法という正義の味方を、あのときまで俺は信じていたのだ。

 この国に正義があるのなら、幼い少女を滅多刺しにして殺した男には、この国で一番重い刑罰が──死刑が課されるべきだった。そして、これ以上に重い罪などあり得ないということを、日本中に知らしめるべきだった。それこそが正義であり、被害者遺族の──娘が殺された父親である俺の願いだったのだから。俺は村野の死刑だけを願って、傍聴席に座っていたのだから。だからこそ、第一審、二審と下された死刑に、俺は歓喜したのだから。

 ──いや、違う。死刑は俺の願いではなかった。

 そのとき、胸の奥で小さな小さな声がした。たしなめるような、柔らかな声。村野の死だけを考え続ける、いまの俺の激しさとは真逆にあるかのような、悲しそうな声。25年という長い時間に押し潰され、表へ出ることがなくなってしまった昔の俺の声だ。その声が、俺に語りかける。

 ──あのとき、俺は村野の死など望まなかった。望んだのは別のことだ。まったく別の、復讐ではないこと──。

「うるさい!」

 思わず殴りつけた壁が、右の拳の形に凹んだ。クーラーが効きすぎるほど効いた部屋で、こめかみの汗が滴った。叫びにおののいたのか、声はぴたりと沈黙した。

「俺は死刑を望んでいた。そうならなかったのは、あいつのせいだ」

 自分に確かめるように、俺は呟く。

 一審、二審で下された死刑判決は、虚しくも最高裁で覆されてしまった。それは最高裁から村野についた女弁護士のせいだった。その女弁護士が裁判の流れを変えたのだ。犯行は、村野が実母から虐待を受けたせいだとか、その虐待で死んだ村野の妹が真紀に似ていたせいだとか、そんな適当なでっち上げをした挙句、俺たちをも巻き込んだあんな会見をしたせいで。

「……俺は村野を殺す」

 渦巻く思考を断ち切るように、低い声が静寂を割った。煮えたぎる憎しみを湛えたその声は、まるで自分のものではなく、どこか地の底から響いてきたように感じられた。

「俺は絶対に村野を殺す」

 その声で記憶も感情をも無理やり押さえつける。そうして時計に目をやると、既に出勤の時間だった。手早く支度をし、外に出る。むわっと生ぬるい空気が体を包んだ。あたりから夕陽の赤さは消え失せ、青い誘蛾灯がジリジリと音を立てている。

 こうして夕方に目覚め、夜中に働き、人々が出勤する頃に家へ帰る──警備員の仕事は、復讐だけを求める俺の生活とぴったり調和していた。人との関わりも、馴れ合いもなく、ただ夜と向かい合う仕事。それに、突然訪れる暴力や、怒鳴り合いへの対応や、気の緩むことのない緊張の連続は、村野に相対したときの訓練にもなる。

 固定電話の「留守」のボタンが赤く光っているのを横目で見ながら、俺は玄関へ向かった。一人暮らしに固定電話など必要ないのだが、真紀が使っていたものはできるだけそのままにしておきたいという気持ちに負けて、ずっと置いてあるものだ。昔はいたずら電話や取材の電話もあったが、最近は滅多に鳴らず、留守電が入っていることもない。

 俺は玄関に鍵をかけると、車へ向かった。外へ一歩でも出れば、そこには村野がいるかもしれない。気を抜くことなく、車へと歩き出す。と、あることに気づき、俺はふと振り向き、動きを止めた。視線を捉えたのは、家のポストからはみ出た、白い封筒だった。請求書や明細書の類ではない、それは誰かからの手紙の入った封筒だ。

 早く仕事に行かないと遅れてしまう──どこかで自分を急き立てながら、しかし俺の手は吸い寄せられるように、その封筒を掴んだ。微かな違和感がして、ざわり、胸が騒ぐ。その正体を予感しながらも、俺は封筒の表書きを見た。

 ──「雨ヶ谷洋介さま」。

 見覚えのある筆跡が、俺の名をしたためている。金釘流の文字が笑うように俺を見上げる。その瞬間、予感は確信となった。村野だ。これは村野が刑務所の中から俺に宛てて寄越した、何十通目かの「謝罪の手紙」だ。

 一瞬、噴き上げるような怒りで目の前が赤くなり、俺は意識的に目を閉じて深呼吸をした。

 こんなものが届くようになったのは、真紀の事件が最高裁にかけられた直後──村野に例の女弁護士がつき、「衝撃的な新事実」とやらを明かした後のことだった。曰く、村野は実母に虐待されていただの、その虐待で死んだ妹がいただの、貧乏で苦労しただの──そんな生育環境が村野に犯罪を犯させたのだという、それはいままで語られなかったという意味での「新事実」であることは間違いなかったが、それのどこをどうしたら、「その妹に似ていた」という真紀を殺すことに繋がるのか、まったく意味不明な主張だった。

 しかし、その主張は世間を騒がせ、裁判の行方に人々の注目が集まった。それがその女弁護士の狙いだったのだろう。裁判官も人の子であり、世論を完全に無視することはできないということを、彼女はよく知っていたのだ。そして、あのとき俺の元へ届いた手紙もまた、一審、二審の死刑判決を覆そうと、あの女弁護士が考えた作戦の一つだったのだ。

 作戦といっても、それは単純なものだった。女弁護士は、俺たち被害者遺族宛に謝罪の手紙を送ったのだ。ここで大事なことは、それが「手紙」という物質であったということに尽きる。つまり、「手紙」は「証拠」になる。口頭での謝罪は、言った言わないの水掛け論になりうるが、「謝罪の手紙」は「村野は遺族に謝罪した」という客観的な事実として、誰もが認める証拠となるのだ。

 だから、あの女弁護士は俺たちに手紙を送りつけた。そればかりではなく、その存在をマスコミにリークした。そうすれば、マスコミは俺たちに取材をするだろう。そして、「村野から謝罪の手紙が届いたか」という問いに、俺たちは「届きました」と答えるだろう。さらには「手紙を読んで、村野さんを許す気になりました」と答えるかもしれないと、裏でそんな計算をして。

 けれど結論から言えば、この浅はかな作戦は失敗に終わった。肝心要のマスコミからの取材が、俺がその手紙を読む前に来てしまったのだ。村野正臣からの謝罪の手紙、うちにもコピーさせていただけませんか──受け取ってはいたものの、すぐに読む気にもなれず、手紙を放置していた俺は意味が分からずに聞き返した。すると、彼らは、村野から「謝罪の手紙」が俺宛に届いているはずだと言う。村野の弁護士からそう聞いたのだと。

 そこまで聞いたとき、俺はやっと事態を把握した。机の上に放置していた村野からの手紙こそが、記者のいう「謝罪の手紙」であるということを。そしてそれは、あの女弁護士が「村野は謝罪している」という偽りの事実を作り出すためだけに用意した小道具であるということを。偽りの事実も、多くの人の耳目を集めてしまえば真実の色を帯びる。だからこそ、その事実を捏造するために、あの女はマスコミを利用したのだ。「村野の死刑を覆す」という、目的達成のためだけに。

 記者からの電話を切ると、俺はすぐさまその手紙を焼き捨てた。女弁護士の行為は悲劇を経験した人間に対する、最大の侮辱だった。あの記者からの電話がなければ、手紙を開封して読んでいたかもしれないと思うと──許しはせずとも、心が少しでもぐらついたかと思うと、その思いはより強くなった。

 それからも、村野からの手紙はぽつりぽつりと届き続けた。それが服役中のいまでも届くのは、仮釈放の材料にするためなのだろう。意図の見え透いたその手紙が届くたび、俺は同じように焼き捨てた。初めは拘置所だった差出人の住所が刑務所へと変わり、そこに検閲を受けて届いたという印──桜を象(かたど)った印が押されるようになった他は、まったく変わらずに届き続けるこの白い封筒を、読むこともなく焼き捨てて──。

 瞬間、背なの毛がぞわっと逆立った。慌てて手の封筒を裏返す。すぐさま、もう一度、表に返して凝視する。封筒を見たときに感じた違和感が、確かなものとなってこみ上げる。

 ──ない。やはり、ない。

 確信した途端、胃のあたりが沸騰したように熱くなり、息が止まった。足元がぐらりと揺れ、やっとのことで吐き出した息は小刻みに震えていた。

 その白い封筒には、どこを探しても桜の押印が見当たらなかった。ということは、つまり──。

「そうか……」

 俺はふらつきながらドアにもたれ、目を閉じた。

「そういうことか……」

 ぬるい風が頬を撫でる。汗ばんだ額を無意識にこすり、俺は声を震わせた。桜の押印のない封筒。それはすなわち、村野は既に手紙の検閲を受ける立場ではないということを表している。

 無期懲役。10年で仮釈放が検討され、自由になる可能性のある刑罰の名を、俺はゆっくりと口の中で繰り返した。そして徐々にその意味を理解した。村野はもう檻の中にいない。それは10年よりは長い、25年という時間の後ではあった。けれど、それでもその時間は絶対的に不十分な長さに思えた。現に俺の憎しみはあの頃のままだ。悲しみも苦しみも、それっぽっちの時間では、何一つ癒えてなどいやしない。

「あああああああ!」

 夜空に向かって、俺は雄叫びのような声をあげた。声に驚いた隣家の窓から人の顔がのぞいたが、そこに俺を見てとると、怯えたように窓はきつく閉められた。あれ以来、怒りっぽく、近所付き合いもしなくなった俺の頭が、とうとうおかしくなったとでも思ったのだろう。閉じた窓の向こうから、こちらを伺う気配だけが漂ってくる。

 その橙色の光溢れる窓を一瞥し、俺はふらふらと車に乗り込んだ。封筒を持っていない方の手でポケットを探り、二つ折りの携帯を取り出す。10件にも満たない登録済み番号から、その一つを選び出す。

 梶田美希子。その名前を見ると、胸が締めつけられるような痛みを感じた。過去の幸せと、突然の裏切りが記憶の中で交錯し、いたたまれない気持ちに襲われる。

 離婚のやりとりで必要だったその番号を、旧姓で登録したのは俺だった。そして、二人が他人に戻った後も、消せずにいるのも俺だった。最高裁のさなか、村野正臣の肩を持った妻は、真紀を、俺を裏切った人間だった。だというのに、決してかけることのない番号をまだ登録しているのはなぜなのか。

 ──いや、彼女は裏切り者なんかじゃない。あの弁護士に騙されて、お前の側を離れただけなんだから。

 そのとき再び、過去の俺がそう言ったが、俺は無言でその痛みに耐えた。悪いのがあの弁護士だということは分かっている。優しかった妻はそこに付け込まれただけだということも。

 けれど、俺はそれ以上考えることを自分に戒(いまし)めていた。どうして妻があんなことをしたのか、俺たちを裏切るような真似をしたのか、考えないようにしてきた。なぜなら、そんなことよりも、俺には集中すべきことがあったからだ。村野への復讐だ。だから妻のことは、意識して考えないように、考えないように、どこか深い場所に埋めてしまった。それでも、そうして埋めた場所だけは、目印をつけてきちんと覚えておいた。いつか彼女を利用するときが来る──そしていま、ようやくそのときがやってきたのだ。闇の中、俺は光る画面を見つめた。

 その番号は固定電話のもので、それも最後にかけたのは離婚が成立したとき──20年ほど前だろうか。それほど古い番号だ。繋がらない可能性も大いにある。しかし、それでも俺は必ず繋がるという、確信に似た思いがあった。その思いの命ずるまま、発信ボタンを押す。

 プツプツ、何かを探るような音の後に、果たして呼び出し音が聞こえ出した。その呼び出し音がまるで過去へ遡(さかのぼ)っていくかのような錯覚に襲われながら、俺はその声が聞こえるときを、辛抱強く待ち続けた。


▶︎次話 村野正臣の手紙


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?