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短編小説「うぐいすの先生」

「陽菜、そろそろ、ひいばあちゃんを呼んできてちょうだい。裏の、蔵のほうにいるはずだから」

 少し疲れたような声で、おばあちゃんが言った。陽菜のお父さんとお母さんは「業者さん」と話しこんでいて、ちょうどアイスキャンディーをなめおわった陽菜は、はあい、と元気な返事をした。

「それはこっちへ貸しなさい。棒を口の中に入れたまんま歩いて転げたら、喉に刺さって怪我しちゃうよ」

 陽菜はまた、はあい、と元気に返事をして、口の中に入れっぱなしにしていたアイスキャンディーの棒をおばあちゃんに渡す。それから、とっとこ駆けだして、ひいおばあちゃんのいる蔵へと向かった。

 母屋の裏の桶の中に、裏山から湧いた水が涼しい音を立てて溜まっている。夏の日差しがきらきら輝いて、陽菜は山のおいしい空気を胸一杯に吸い込んだ。

 陽菜が、このひいばあちゃんの住んでいる山の家へ来たのは、この夏だけでもう3回目だった。そのたびにお父さんとお母さんは、「業者さん」とお話をして、おばあちゃんは「よく来たねえ」とアイスキャンディーをくれ、それから陽菜の大好きなひいばあちゃんは、いつも優しく陽菜の手を取り、一緒に遊んでくれた。

 ひいばあちゃんはね、アメリカさんの飛行機が飛んでいた頃から生きてるんだよ。

 今年で90歳になるひいばあちゃんは、いつも陽菜にいろんな昔の出来事をお話してくれた。

 アメリカさんの飛行機がずうっとあっちの空に飛んで行ってね、翼がきらっと光ってね、そりゃあきれいでね。きれいだなあ、と思っていたら、とんでもない音がしてね。ありゃあ爆弾を落としてるんだって、お母ちゃんが……そうだね、陽菜ちゃんにしたら、ひいひいばあちゃんがね……あの紙みたいに白いお母ちゃんの顔がいまでも頭にこびりついていてね。

 ひいばあちゃんのお話はとりとめもなかった。90年という、ひいばあちゃんの地層のようにぎゅっと押し固まった時間から、ひとつひとつ違う時代の化石を掘り出していくように、陽菜にとってそのお話は珍しく、不思議なものばかりだった。

 陽菜ちゃんには想像もつかんだろうけどね、ひいばあちゃんが娘の頃、ここらへんはおっきな町だったんだよ。林業ってわかるかい? 山の木を切り出してね、家をつくる材木にするんだ。それも昔だからいまみたいに木を切る機械や丸太を運ぶトラックなんてないのさ。じゃあどうするのかって、男たちがみんなでえいしょえいしょと力仕事をするのさ。丸太に縄をくくりつけてね、えいしょ、こらしょ、とね。……ひいばあちゃんのお父ちゃんも、そうやって働いてたんだよ。兵隊にとられちまうまではね。

 陽菜が両親と住んでいる町は、ひいばあちゃんの家から車で1時間ほどの大きな町だった。町には数えきれないほどの家がたくさんあって、それから数えきれないほどのビルやマンションもたくさんあった。それから、太い道路にはたくさん車が走っていて、人だってたくさん歩いている。

 ひいばあちゃんのお山が、昔は大きな町だったなんて、本当なのかな?

 陽菜は緑色の元気な山々を見て、首をひねった。けれど、ひいばあちゃんのお話が嘘であるはずがない。この山全部が、昔は大きな町だったのだ。陽菜はここが町だった時の様子を想像しながら、湿った石の通路をすべらないようにゆっくりと歩いた。小さな陽菜の歩幅でも、裏の蔵へは五十を数えないうちに到着する。

「ひいばあちゃん、おばあちゃんたちが呼んでるよ」

 真っ暗な蔵の中に呼びかけると、陽菜の声は洞窟の中でしゃべったみたいに良く響いて聞こえた。

 空っぽだからかな、と陽菜は思った。蔵には古そうなものがたくさん入っていたけれど、「業者さん」たちはそのすべてを運び出してどこかへ持って行ってしまった。だから、ぎゅうぎゅうだったこの蔵の中は、いまは空っぽなのだ。

「ひいばあちゃん?」
「はいよ」

 陽菜がもう一度呼ぶと、蔵の中からひいばあちゃんがひょっこりと顔を出した。そして、あれもうそんな時間かい、と少しさみしそうにつぶやいた。

「ひいばあちゃん、何してたの?」

 空っぽで真っ暗な蔵から少し離れて、陽菜は尋ねた。陽菜はおばけがいそうな暗い場所があまり好きでないのだ。

「うん? まあ、いろいろと思い出していたんだよ」
「ふうん」

 ひいばあちゃんの目線は、小学生の陽菜とおんなじくらいのところにある。なぜって、ひいばあちゃんはびっくりするほど腰が曲がっているからだ。年をとったからとはいっても、あんまりひどく曲がっているものだから、陽菜が腰は大丈夫? と心配そうに聞くと、、ひいばあちゃんは大真面目にこう言った。おかげで陽菜ちゃんのお顔がよく見られて嬉しいよ、と。

「この家とも、もうお別れだからねえ」

 ひいばあちゃんは努めて元気な声を出すようにして、もう一度、蔵の中を振り返った。

「ご先祖さんのものを、全部持っていけたらよかったんだけどねえ。そういうわけにもいかないからねえ」

 ひいばあちゃんが大切にしていた蔵の中のものがどこへ運ばれていってしまったのか、陽菜にはまったく見当もつかない。けれど、ひいばあちゃんがそれらの品にもう二度と触れることができないのは確かだった。なぜなら、これから老人ホームに入るひいばあちゃんの持ち物は、ダンボール箱に5個だけと決められているからだ。

「人様のお世話になるんだから、わがままは言えないものねえ」

 これからひいばあちゃんが入る老人ホームは、陽菜たちの住んでいる大きな町の中にある。だから、陽菜はこれまでよりもたくさんひいばあちゃんに会いに行けるし、ひいばあちゃんもこの山の家で一人で暮らしているよりも何かと楽ができるはずだった。掃除や洗濯、食事のしたく、いままでひいばあちゃんが一人でしてきたことすべて、老人ホームの職員さんがやってくれるからだ。それに、万が一、ひいばあちゃんが病気やけがをしても、専門の人がいるから安心だとお母さんたちが言っているのを、陽菜はちゃんと聞いていた。

「早く、おばあちゃんが呼んでるよ」

 陽菜が急かすと、ひいばあちゃんは蔵を目に焼き付けるようにしわしわの目を瞬き、ゆっくりと母屋の方へ歩き出す。その手に何かが固く握られていることに、陽菜は目ざとく気がついた。

「あれ、ひいばあちゃん、何持ってるの?」
「……ああ、これかい?」

 それを手に握っていたことを忘れていたかのように、ひいばあちゃんは立ち止り、陽菜の目の先で握りこぶしを開いて見せた。

「なあに、これ?」

 ひいばあちゃんの手の中には、竹の筒を組み合わせたようなものが乗っていた。穴の開いた短い竹の上に、別の細い竹が小さく斜めにくっついている。その奇妙で可愛らしい細工を、陽菜はそっと手に取った。

「陽菜ちゃんは知らんかね?」

 ひいばあちゃんはいたずらっ子のようなきらりとした目をして言った。ひいばあちゃんは顔も、手も、どこもかしこもしわしわでおんぼろだけど、目だけはきらきらしていてとても素敵だと陽菜は思っていた。

「こんなの、知らないよ」

 陽菜が口を尖らせると、ひいばあちゃんは、そうかね、昔の子どもらは、こんなもんで遊んだもんだけど、とそう言い、陽菜の手の細工を取ると、斜めの細い竹に息を吹き込んだ。ヒューッと澄み切った音がした。

「笛だ!」

 軽やかな音は風に乗り、山の中へ溶け込んでいく。驚く陽菜に、ひいばあちゃんは嬉しそうに首を振った。

「でも、ただの笛じゃあないよ」

 そう言って、もう一度独特の節をつけて笛を鳴らした。

「これが何か、わかるかね?」
「わあ、すごい!」

 陽菜は興奮してその場でピョンピョンと飛び跳ねた。

「うぐいす! うぐいすの音だ!」

 ホゥ、ホケキョ。もう一度うぐいすの鳴き声をまねて、ひいばあちゃんが笛を吹く。陽菜も口笛でうぐいすの音を鳴らしたことはあったが、この笛の音は口笛なんかよりもずっときれいでうぐいすにそっくりだった。

「当たり。この笛はね、うぐいす笛っていうんだよ。ひいばあちゃんが小さい頃は、その辺の竹を切りだして作ったもんだ」

 ホウ、ホケキョ、ケキョ、ケキョ、ケキョ……。ひいばあちゃんはまるで本物のうぐいすのように、笛を自在に鳴らした。

「わたしにもやらせて!」
「いいよ、ほら」

 陽菜は意気込んで笛を吹いた。しかし、竹の中を風が通るような「スゥ」という音がするばかりで、ちっともうぐいすのようなきれいな音は出ない。

「ほら、ここをこうして…」

 ひいばあちゃんが、陽菜の手の位置と息の吹き加減を教えてくれる。すると、じきに陽菜もきれいなうぐいすの音が出せるようになった。

 ホウ、ホケキョ。

「できた!」

 陽菜のうぐいす笛の音も風に乗り、山の中へと消えていく。そのきれいな音色に陽菜は嬉しくなり、何度も何度も笛を吹いた。

「懐かしいねえ。この笛で、ひいばあちゃんもたくさんのうぐいすに鳴き方を教えてやったもんさ」
「鳴き方を教えるって、どういうこと?」
「ありゃ、陽菜ちゃんは知らんかね?」

 目をぱちぱちさせる陽菜に、ひいばあちゃんはていねいに説明した。

「うぐいすが鳴くのはね、山でお嫁さんを呼ぶためなんだよ。あのきれいな鳴き声で、お嫁さんにきてもらうんだ。けどね、中にはうまく鳴けないうぐいすがいる。うまく鳴けないのはひどいもんだよ。これがうぐいすかってくらい、ホウ、とも鳴けやしないんだ。そんなうぐいすは山から町に追い出されちまう」

 昔、ここらへんはおっきな町だったんだよ、とひいばあちゃんは何度も陽菜にしたお話をもう一度した。だから、山から追い出されたうぐいすがそのへんで悲しそうに鳴いてるわけさ。

「だからね、その鳴くのがへたっぴなうぐいすに、人間がこのうぐいす笛で鳴き方を教えてやるんだよ」

 ホウ、ホケキョ。ひいばあちゃんはうぐいす笛をきれいに鳴らした。

「この笛の音をお手本に、うぐいすは一生懸命練習して、それでうまく鳴けるようになると、ようよう山へ帰っていくんだよ」

 ひいばあちゃんはそう言って、後ろの山を見上げた。青い空にうぐいすの声は聞えなかったけれど、風に揺れた木立から鳥が何羽か飛び立って、小さな黒い点になって遠くへ舞い下りるのが見えた。

「じゃあ、ひいばあちゃんは、うぐいすの先生だったんだね」

 陽菜がそう言うと、ひいばあちゃんは楽しそうにくっくと笑った。

「先生だなんて、そんなえらいもんじゃないけどね。笛を吹くだけなんだから……」

 ひいばあちゃんはそう言って、そしてうぐいす笛を大事そうに眺める陽菜に言った。

「それは一つっきり、蔵の中に落っこちてたんだよ。そんなに小さいもんだから、業者さんも気づかなかったんだろうね。そんなに気に入ったのなら、陽菜ちゃんにあげるよ」
「いいの?」
「ああ、いいよ」

 ひいばあちゃんはにっこりとうなづいた。そして、秘密を囁くようにこっそりと言った。

「その代わり、陽菜ちゃんのおうちのそばにうぐいすが来たら、ちゃんと鳴き方を教えてやってちょうだいな」
「うん!」

 陽菜は元気よくうなづいて、それから少し考えた。

「でもその前に、わたしがちゃんと吹けるように練習しなくっちゃ。それで、きれいに吹けるようになったら、最初にひいばあちゃんに聞いてもらわなきゃ」
「あら、どうして?」

 ひいばあちゃんの問いに、陽菜は真面目な顔で言った。

「だって、わたしがうぐいすの先生になれるかどうか、本物のうぐいす先生にテストしてもらわなきゃならないもの。お手本が間違ってたら、うぐいすだって困っちゃう。だからね、聞いてくれるでしょ?」

 本物のうぐいす先生という言葉に、ひいばあちゃんは目を丸くした。それから顔をくしゃくしゃっとさせて、何度もうなづいた。

「ああ、もちろん。聞かせてちょうだいね」

 ひいばあちゃんはそう言いながら優しく陽菜に手を伸ばした。しわくちゃのごわごわした手が、震えながら陽菜の頭を撫でた。

「約束ね」

 その手を陽菜の小さな手が握り、二人は思い出したように母屋へ向かう。そのとき、聞き慣れないエンジンの音が、静かな山の家に響き渡った。

 早く早く、いまから母屋を解体してくれるって、とヘルメットをかぶったお母さんが陽菜とこちらに向かってに手招きをし、大きな声で急かす。その声に、陽菜とひいばあちゃんが母屋を見上げると、大きなショベルカーが堂々と首をもたげ、力強く屋根瓦へ爪をめり込ませる様子が、夏空を背景にくっきりと見えた。

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