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短編小説 『りんごの殺意』

 思えば、物心ついた時から私はりんごが怖かった。自分でもなぜだか分からない。けれどスーパーの棚で、家の台所で、暗がりに置かれた平たい箱の中、そのありふれた果物を見るにつけ、私は得体の知れない恐怖を感じた。まるでそこに死神を見つけたような、不吉な死の予感に似たものを。

 それは物語のせいかもしれないと、結論づけたこともある。それは例えば、白雪姫だ。差し出された毒りんごをかじり、死んでしまうお姫様。あの絵本の挿絵にあった毒々しいりんごの色が、幼かった私の脳裏に焼き付き、その後もりんごにまとわりついて離れないのかもしれない、と。

 また、それはりんごという果物の食べ方であったかもしれないと、そんな風に思ったこともある。母はりんごを包丁で剥いた。そのよく研がれた包丁、刃物のイメージがりんごを恐ろしげに見せたのではないだろうか。母の手の中でくるくるとらせん状に剥かれていくりんごと、滑るように動く刃。そういえば、初めてりんごを剥いたとき、私は指を切ってしまったのだった。痛みと共に、滲んだ赤がりんごの上でじわじわと柔らかく広がった。りんごが怖いのはそのせいかもしれない。あのときの血を、私は未だに恐れているのかもしれない。

 そうはいっても、りんごが怖いということで、生活に支障が出るはずもなかった。怖いと言っても、例えば閉所恐怖症や集合体恐怖症(トライフォビア)のように身体的な拒絶反応が出るわけでもなく、触れることも食べることもできるし、ましてやりんごを目にしたくないというわけでもない。もっとも、中学の時に母が亡くなり、その後は私がりんごを剥く役目についたので、りんごに触れないなどと言ってはいられなかった。

 りんごが好きな人のために、家には個数もさることながら、さまざまな種類のりんごが常に用意されていた。赤や青やクリーム色と、色とりどりの果皮のもの、蜜の多いもの、果肉が赤いもの、小さなもの、大きなもの——私は毎日りんごを剥いた。くるくるとダンスをしながら薄絹を脱ぎ捨てていくように、りんごは私の手の中で裸になった。四つ割りになり、くの字に種を落とされた。私は母よりもりんごを剥くのが上手だった。けれど、剥いたりんごを一つも食べることはなかった。食べるのは、私の役目ではなかった。その役目を負う人は他にいた。

 その人は、よく食べ頃を見分け、次はこのりんご、その次はこれ、というように私に細かく指示をした。なるほど、その通りに剥いてみれば、りんごはいまが食べ頃というように、汁に濡れ、甘い香りが立ち上るのだった。

 しゃくしゃく、小気味よい音を立て、その人はりんごを食べた。一つ、二つ、三つ、四つ——四切れしかないはずのりんごを、しかし、ある夜、その人は五つ目に手を伸ばした。それは私が高校に進学した年だった。

 その強い手がりんごを剥くところを見たことはなかった。それを想像したところで、果実がぐしゃりと潰れる様しか思い浮かべることはできなかった。そして、その想像は現実だった。知らず、柔かった私は潰れた。皮を削がれることもなく押し潰され、汁を滴らせ、果てた。私というりんごには傷がついた。けれど、果実のように皿から消えてしまうことはなかった。

 その夜はやたらと喉の渇きを覚え、私は何度も水を欲し、台所へ立った。流し台の横には明日剥くはずのりんごがあった。黒々とした果皮の、まるで白雪姫の毒りんごのような。無意識に私は手を伸ばし、それを一口かじろうとした。すると、暗がりに果皮を裂く傷が見えた。大切にしていたのにどうしてついてしまったのだろう、三日月の形の小さな傷が。

 ぼんやりと私が見つめる中、それがどうしたのよ、とでもいうように、りんごは薄く笑っていた。私はそれを部屋に持ち帰った。日が経つにつれ、りんごは傷から腐り、どす黒い染みを残して朽ちていった。けれど、私は朽ちなかった。もしかしたら、中から腐っていたとはしても。

 りんごが放つ死の気配は、それからますます強まった。店に並ぶりんごは私を睨めつけ、手の中のりんごは甘い匂いを放ち、くるくる剥かれてはその場所から黒く朽ち果てていくようだった。その生身の妖しさに、私は心を惑わせた。いっそ皮も種も取らず、乱暴にかじってしまいたいような、あるいはハンマーで叩き割り、ぐちゃぐちゃにしてしまいたいような衝動に囚われることも少なくなかった。もちろん、衝動に身を任せることはしなかった。けれど、りんごの柔さに気持ちは騒いだ。

 そんなとき、私はそれに出会ったのだった。これは——見た瞬間、心が震えた。私の求めていたものはこれだったのかと、ひどく体が熱くなった。

 それは小さな店のショーウィンドウに飾られ、まばゆく光を反射している、透明なりんごだった。

『限定品なんですよ』
 店員はもったいぶったように赤い唇を動かした。
『綺麗ですよね、クリスタルでできてるんです』

 相応の値段がつけられたりんごを、私は無理を言って手に取った。それはずしりと重く、冷たく、無愛想といってもいいほどの存在感で私を圧倒した。りんごがまとう死の気配。けれど、このクリスタルのりんごには、その死の気配を寄せ付けないような輝きがあった。欲しい、私は熱望した。どうしてもこのりんごが欲しい。

 取っておいてください、迷惑顔の店員に頼み込み、私は家へ走った。お金の当てなんてあるはずもなかった。いままでのお小遣いをかき集めたって、あのりんごは買える値段ではない。ならば、手段は一つだけだった——私は思い詰めた。りんご代だ。いまこそ、あの人にりんご代を請求するのだ。その果肉を貪った代償を、あの傷一つなく輝くりんごを手に入れるために。

 息せき切って玄関に飛び込むと、私は台所のりんごを取った。それを剥く包丁も取った。そして、その人の部屋を開けた。夕食にはまだ早いだろう、驚いたように、ひげをまとった口が動いた。それから、私の顔と、私の手の包丁とりんごを交互に見た。

 お金をください、私は言った。りんごを買うお金をください、お金が、お金が足りないんです。

 りんごならまだたくさんあるだろう、その人は奇妙に笑った。それにりんごは私が買うからいいよ、次はXXXXから取り寄せようと思ってるんだ。珍しい、桃色のりんごをね。

 赤黒い舌が唇を舐めた。歪んだ笑みが右頬に浮かんだ。

 桃色と言っても、皮じゃないよ。中が綺麗な桃色なんだ。そうだね、まるで——。

 荒い息が私に迫った。濡れた感触が耳を舐めた。

 さあ、危ないから離しなさい。柔い果肉を潰す手が、包丁に触れた。お金をください、頑なに私はそう繰り返した。どこでそんな知恵を付けてきたんだ、声が嘲った。そして、鋭さを帯びた。お前はまさか、自分が売れるとでも思っているのか? まったく、あのやかましい母親と同じだな。金の要求だけ一人前にしやがって——。

 言葉も終わらぬうちに、束ねた髪が抜け落ちるほどに掴まれた。激しく前後に揺さぶられる。果肉が潰れる、汁がこぼれる。とっさに私は強い体を押し返した。包丁を握る手で、その切っ先をその人に向けて。

 ぱつん、切っ先は皮を貫き、そこから先はずぶずぶと柔らかく奥へ潜った。ぬるぬると赤いものが柄を伝い、その人は聞いたことのない悲鳴を上げた。抱えていたりんごが床に落ち、ごんと鈍い音を立てた。いままで見た、どんなりんごよりも赤い血が足の甲に滴った。

 とんでもないことをしてしまった。私はただただ驚いて、何とか刃を抜こうと必死でもがいた。けれど、何に引っかかってしまったのか、包丁はその人の中に止まり続けた。角度を変え、抜き方を試し続けるたびに、その人の口からは奇妙な嗚咽がだだ漏れた。

 ごめんなさい、お金が欲しいんです、お金が欲しかっただけなんです。私は何度も弁解した。こんなことするつもりはなくて、ただりんごを買うお金が欲しくて。

 私は懸命に包丁を動かした。やめてくれ、やめてくれとその人は叫んだ。それから、とうとう、いくら必要なんだ、と悲鳴の中でそう言った。

 20万円欲しいんです、思い切って私は言った。20万円、それでりんごを買いたいんです。

 その人の口がぱくぱくと動いた。聞き取れず、耳を近付けると、何言ってんだこのガキ——そんなようなことを呟いていた。やはり大それた金額なんだ、私は唇を噛んだ。でも、どうしてもあれを手に入れたい、その思いは変わらなかった。ごめんなさい、ごめんなさい、私は小さく繰り返した。そうしながら、ようやく包丁を抜いた。途端に、傷からどっと赤が吹き出し、私も思わず悲鳴を上げた。

 そこに財布があるから、座り込み、青白い顔をしたその人が言った。息が荒く、聞き取りにくい。恐る恐る側に行くと、その人は黒い革カバンを指さした。あそこにカードが入ってる。20万でも30万でも、好きに使え。ただし、先に救急車を呼ぶんだ。そうしたら暗証番号を教えてやる。

 ああ——目の前に光が満ちたような気がして、私は思わず声を漏らした。言われたとおりに財布からカードを抜き取ると、机の上に携帯電話を見つけ、緊急SOSをタップしようとした。

 どうした、早くしろ、死んじまうだろ。指を止めた私を、腹の傷を押さえたその人が罵った。それから打って変わって精一杯の猫なで声を出した。何だか知らないが、りんごが欲しいんだろ、暗証番号は救急車の後だぞ、分かるだろ?

 りんご。そう、私の頭にあるのはそれだけだった。私はこれから救急車を呼ぶ。そして、あの美しいりんごを手に入れる。そこまで考えて、思考が止まった。りんごを手に入れた、その後はどうなるんだろう。

 突然、大きな不安が私を襲った。私と、私のものになったりんご。でも、もし、この人があの美しいりんごに傷を付けたら。例えば、こんなものに大金を使いやがって——と投げつけたら。ハンマーでかち割ろうとしたら。そうして、りんごが砕け散ってしまったら。

 それは私の死に違いないと、私は激しい予感に囚われた。私はりんごだ。傷つけられた、柔いりんごだ。どろどろに腐り、朽ちていく運命の。けれど、私の魂はあの輝くりんごだった。誰にも傷つけることのできない、何よりも輝くりんご。

 だめ、先に暗証番号を教えてください。うわごとのように私は言った。教えてくれないと、殺します。お願いします。

 私の様子が恐ろしかったのか、その人は暗証番号を口にした。ありがとう、肩の力が抜けた私はその人を殺した。早くも血の乾き始めた包丁で、その人の体を滅多刺しにした。それでもなかなか死なないので、最後には思いついて首を切った。びゅっと、これまで以上の血が噴き出し、ようやく荒い息は止んだ。

 よかった、私は安堵して、その場にずるりと座り込んだ。右手の包丁をようやく放し、床のりんごを拾い上げた。それから、カードと一緒に胸に抱いた。

 ああ、これであのりんごが買える。疲れで、私はまどろんだ。頭の中にはあのりんごが輝き続け、胸に抱いた生身のりんごは鼻に甘く香り続けた。血の臭いはしなかった。頬に飛んだ血しぶきが乾き、ぱらぱらと床に落ちていった。

 シャワーを浴びよう。夢うつつに、私は思った。シャワーを浴びて、汚れを落とそう。そうして新しい服に着替えて、あの店にりんごを買いに行こう。あの美しい、輝くりんごを。決して傷つかない、私の希望を。

    

 昔々、物心もつかない頃から、私はりんごが怖かった。りんごがまとう、死の気配に怯えていた。それがなぜなのかは分からなかった。けれど、時が経ったいま、私にもその理由がようやく理解できた。

 私は小さなりんごだった。そして、そのりんごを守るため、私はいつか人を殺すだろう——そんな未来を、私はきっと生まれたときから知っていたのだ。

読んでいただき、ありがとうございました🙏
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