芸人になった理由を探して人生を振り返る。
「なんで芸人になったの?」と聞かれることがある。
大抵の場合、ヘラヘラしながら「小学生の頃からの夢で〜」と答える。
嘘ではないが、理由になってるか?とも思う。
理由なんてつけようと思えばいくらでもつけられるが、本当はなんで芸人になったのか、しっかり考えたい。
俺が最初に芸人になりたいと思ったのは小学生の頃。
当時の大好きな番組『黄金伝説』。
その中でも『よゐこの無人島0円生活』が好きで、獲ったどー!する濱口さんを観て、俺も芸人になりたい!と思った気がする。
でも当時のそれは、テレビで野球を見てプロ野球選手になりたい!と小学生誰もが言うそれと同じような、ぼんやりした夢だったと思う。
小学生4年生の頃、めちゃくちゃ面白い友達、ゆうごとコンビを組んだ。
コンビ名は『シュークリーム』。
俺からお笑いやろ!コンビ組もう!と誘ったと思うけど、ネタは全部ゆうごが書いてくれた。
めちゃくちゃ面白かった。
帰りのホームルームとかでよく漫才をして、爆笑を取った。
その経験は自分の中でめちゃくちゃ大きかったのかもしれない。
ゆうごに
「俺ら大人になったら絶対M-1優勝しよな!!」
と熱く語りかけた。
ゆうごは
「いや俺、床屋さんになるから。芸人なんかやらんで?」
と冷たく俺をあしらったのだった。
それが初めての失恋である。
ゆうごにフラれた悲しみを背負いつつも、小学校の卒業文集には
「お笑い芸人とプロ野球選手になる!」
と書いた。
いや2つは無理やろ!と思ったが、ティモンディ高岸さんが成し遂げていた。すごい。
やればできる。
中学生になり思春期に入った俺は、拗らせていた。
小学生の頃の明るい俺は姿を潜め、急に陰キャ化した俺は人前で漫才をやることはなかった。
でもお笑いの熱が冷めたわけではなく、ネタ番組やYouTubeに上がっているネタを見漁っていた。
中3になり、卒業後の進路を考えると、その先の人生のことも自然と考えるようになった。
将来何になりたいか、どんな仕事をしたいか、と考えるとお笑い芸人以外の選択肢が浮上してくることはなかった。
ただ、理由がわからない。
当時よく言っていたのは「普通に働くとか無理やねん」という「俺社会不適合者やから芸人しかできへんねん」的なイキリ理由。イキ理由。
いや、芸人も売れるまで普通にバイトとか、ちゃんとせな生きられへんから。
めっちゃ働いてるで。お前。
そう考えると俺は社会不適合者ではないので、芸人以外もできるし、これは理由にはならない。
ただのイキリ。
とりあえず勉強は得意だったので、頭良い学校に行って、大学行ってから芸人になりなと周りの大人からは勧められた。
そして親や塾の先生に勧められ、俺が入ったのが鈴鹿高専というところだった。
(偏差値66!すごい!)
しかし入ってしばらくして、ミスったと思った。
高専というのは5年制の学校で、卒業後半分くらいが国立大学の3年制に編入、もう半分が大手企業に就職、みたいな感じのところである。
大学に行って卒業してからの芸人ルートなら普通の高校と変わりないけど、3年で卒業してそのまま芸人というルートは潰されたのである。
おそらく親の策略。
塾の先生と手を組んだのだ。
塾の先生には
「高専って特殊な環境やからおもろいやついっぱいおるし相方も見つかるんちゃう?」
と言われ、俺はまんまと高専に入れられたのだ。
アホすぎる。
しかし、相方は見つかった。
高専で初めてコンビを組んだのは俺と同じ“いっせい”の名を持つ、吉田一晴。(俺は東壱晟)
俺は当時、同級生からブライアントと呼ばれていたので、俺よりも“いっせい”と呼ばれていた。
一晴のことはずっと、ゆうご以来のおもろい奴として勝手に注目していた。
3年の夏、お前芸人なりたいんやろ?ハイスクール漫才一緒にでよや。と言われ、ハイスクール漫才ってなに?と思いつつも一緒に出ることになった。
ネタは一晴が書いてくれた。
結果は準決勝で敗退したが、イオンモールで大勢の知らない人が見てる前で漫才をしたこと、MCのウーマンラッシュアワーさんにサンダルで漫才をやるなと怒られたことは、良い経験になった。
それ以降は芸人になりたい気持ちがより強くなり、高専卒業後すぐに養成所に入ろうと思った。
一晴に
「俺らやったら絶対売れるて!芸人なろや!」
と熱く語りかけた。
一晴は
「いや、そんなギャンブルみたいなことはせえへん。ちゃんとええ大学行って、しっかりしたとこで働く。」
と真面目な理由で断った。
それが2回目の失恋。
卒業するまでに相方見つけたいなあ。
片っ端から資料請求した養成所の案内を眺めながらそう思った。
案外、養成所で組むコンビって多いんやけど当時は1人で上京する勇気がなかったのかも。
資料請求をした後、ワタナベの事務所の人は頻繁に連絡をくれた。
そんな言うてくれるならワタナベを受けようと思い、一緒にオーディション受けてくれる相方を探した。
しかし、高専という環境は特殊で、まさにエリート育成学校。
芸人になりたいというような人間は普通居ない。
普通じゃない人を探すしかない、と思い声をかけたのが野球部の1年先輩のたけとしさん。
後のお銀黒川である。
この人は野球部の後輩たちを引き連れ、淫夢同好会とかいうのを結成していた。
最近はあまりみないが、淫夢語録の全盛期の時代だった。
こんな変人を誘って大丈夫か、とも思ったが、なにか妙なカリスマ性は感じた。
実はワタナベのオーディション受けるんですけど、と誘ってみると「全然ええで〜」と軽くOKしてくれた。
こうして、伝説のお笑いコンビ『おちん銀ず』が結成されたのであった。
(おちん東とお銀黒川でおちん銀ず。)
その後はオーディションを受けたり、M-1に出たり、"鈴鹿高専で俺が一番おもしろいグランプリ"に出たりし、校内では少し有名になったので、LINEスタンプも発売した。
1年先輩のお銀黒川には大学に行ってもらい、俺が卒業したタイミングで養成所に入るか〜となんとなく思っていた
しかし4年生の秋頃、家庭内トラブルにより俺は病んでしまう。
基本的にはポジティブ人間の俺が、人生で唯一病んだ。
全部が嫌になり、学校も休んでいた。
なにも気力が湧かなかった。
とにかくしんどかった。
そんな中で、お笑い芸人になるという夢が、初めて逃げ道になった。
将来普通に働くつもりの人間なら、その状態から立ち直るのはなかなか大変だったと思う。
でも俺は、お笑い芸人なるんやからもう学校辞めてええか、と決心することができた。
小学生の頃からのぼんやりした夢は、そのネガティブな逃げ道という理由で初めてくっきりした夢になった。
お笑い芸人以外の道を断つことができた。
俺は4年で学校を辞め、お銀黒川が卒業したタイミングで養成所に入ることにした。
そしてお銀黒川とは養成所で解散するのですが、それはまた別のお話。
芸人になってからは色々とあったが、辞めるという選択肢が浮かんでくることは基本的に無い。
この世界は辞める人が多い。
めちゃくちゃおもしろかった同期や先輩もどんどん辞めて行く。
辞める理由には歳の節目や、結婚が多い。
はじめから何歳までに売れなければ辞める。と決めている人も多いからだ。
結婚に関しては大抵の場合、彼女から結婚するか、芸人辞めるかの2択を迫られる。
俺も今年の3月、4年付き合った彼女にその選択を迫られた。
それが3回目の失恋。
女性の場合、いつまでも待っていられないのは当たり前のことである。
売れていなくても結婚している芸人も稀にいるが、それをOKしてくれる女性はかなり少数派だと思う。
俺がその2択を迫られたとき、芸人を辞めるという選択肢は取れない。
俺の中で芸人という夢が唯一の逃げ道だからだ。
ポジティブな理由とネガティブな理由が同居している状態。
辞めたくないし、辞めれない。
売れたいけれど、何歳までという焦りはない。
今の相方のことはめちゃくちゃおもしろい奴だと思っているので、こいつに任せておけばいつか売れるやろ、と思っている節はある。
もちろんテレビに出られても実力がないと売れ続けることはできないので、自分個人の技量は色々と磨いていかなあかんけど。
振り返ると、俺が芸人になったのは
「小学生の頃からの夢で〜」
で、あまり間違っていなかった。
だが俺は誰もが夢を持つ必要は無いと思う。
人に夢を持て!と力説する芸能人とか社長とかたまにいるけど、なんか夢持ってるほうが偉いみたいな感じがキショくて無理。
普通に働いている人のことを心から尊敬する。
それができない人間もいっぱいおるんやから。
でも俺は夢に救われた人間なので多分ずっと夢を持ち続けるのだろう。
がんばって売れよう。
おしまい。
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