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エッセイ:ぜんぶ

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愛犬の話、ニューヨークの話、ランニングの話などなど、その時々の気になったことをつらづらと書いています。
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2021年6月の記事一覧

ランナーの話:「赤兎馬」後編

自然災害という誰も責められない障害に、張り詰めた糸が切れた。リズムを狂わせられた。それでも、何とか立て直そうとした。 翌年2013年4月の還暦ボストンは、3時間2分36秒。年代別3位。 輝かしい記録である。だが、赤兎馬さんの失意が想像出来た。 「自分の中で、サブスリーを取れる練習法というかメソッドがあったんですよ。これさえこなしたらサブスリーが取れたんです。今までは。」 ”今までは”、それで出来ていたことが出来なくなった。じゃぁ、もっと、今まで以上に練習しなければ、出

ランナーの話:「赤兎馬」中編

「いや〜、私もそろそろ普通のおじさんに戻りますよ。」 2011年の東北大震災がきっかけで、前より走る様になった私が、セントラルパークへ走りに行く度、赤兎馬さんが必ず走っていて、良くチャットランをご一緒してもらった。赤兎馬さんは、まるでセントラルパークの主みたいに、いつ行っても、セントラルパークの6マイル(約10キロ)のコースをジョグしており、誰かに出会うと、方向転換をして、その人のペースに合わせ、並走してくれるのだ。その際、色々なラン談義に花が咲くのだが、その頃ぐらいから、

ランナーの話:「赤兎馬」前編

赤兎馬(せきとば)とは、三国志に出てくる、呂布や関羽の名馬である。気性荒々しく、勇猛で、且つ、脱兎の如くすばしこく、戦場での働きは凄まじい。 ニューヨークにもそんな馬がいる。ここでは、その方を赤兎馬さんと呼ばせて頂く。彼は、ニューヨーク・日本人ランニング界のレジェンドである。 赤兎馬さんは、見かけは、そんな荒々しい、オラオラ系の真逆で、サービス業をされていることもあり、非常に腰が低く、会話も機知に富み、自分より若い世代にも対してもそれは変わらず、それどころか、ランニングを

誰もわたしを傷つけられはしない。

ノートで、繋がった24歳で乳がんになったRinataさん。 ”コトバとココロ”というテーマで、がん患者やその家族の経験をインタビューし、書いています。私にもインタビュー依頼が来たので、協力しました。 「誰も傷つけたくない。」という思いから、匿名性を重視しており、私のことも〇〇さんとなっています。 昔から、私も、言葉に関して、こだわりがあるので、このRinataさんが、 こんな取り組みをしたいと思う気持ち、理解できます。 がん告知を受けた後、その時々で、多くの人の言葉に、

ランナーの話:「津軽番長」後編

津軽番長はどうやら血が多すぎるらしい。 だから、定期的に献血をしている。どうせ、献血しても、すぐに新しい血が作られ、肉体が常にフレッシュに感じられるのであろう。それにしても、奴の血液を貰った方はどうなってしまうのだろう?急に、熱血な性格になったり、酒を常に欲するようになったりしないのであろうか?少々、心配だ。 まぁ、それはさておき、これはランナーの話だ。話を戻そう。 2018年10月、満を期して、津軽番長、ウルトラトレイル100マイル、初挑戦。初100マイルに、ウェスタ

ランナーの話:「津軽番長」中編

津軽番長が自分の特性に気づいたのは、2016年6月に参戦した岩手銀河100キロレースであろう。初のウルトラ距離レースである。 それを津軽番長は、何と、10時間34分47秒という好タイムで完走した。それは、上位に食い込む素晴らしい結果だった。 マラソンまでの距離でも、目標はクリアーしてきた。だが、努力した結果以上の結果が出たっ!と実感をしたのはこのウルトラマラソンだったのではないだろうか?つまり、津軽番長の特性は、バケモノ級の体力と肉体の強度の高さ。そして、鉄の胃袋。周りが

ランナーの話:「津軽番長」前編

津軽番長は、10年前はランナーではなかった。だが、その頃から、番長であったことは変わりない。彼女は、津軽出身の大酒飲み番長。酒で負けることはねぇっ!いつでもかかって来い!と、いった具合の実に男らしい女であった。仕事も本職がホテルの夜勤担当で、その他にも何本もサイドビジネスをしていて、正直、いつ寝ているのか分からない。だが、いつ会っても、異常にテンションが高く、元気溌剌、その上、タバコも吸っているのに、お肌、ツルツル。バケモノレベルの体力の持ち主であった。 そんな津軽番長が、

ランナーの話:「コディパパ」後編

申し込みデッドラインギリギリでガンゼットマラソン出場資格を得たコディパパだが、結果は3時間42分5秒で終わった。爆弾だった膝が悲鳴を上げたのだ。 それでも、コディパパは走り続けた。毎週末、何かしらのレースに出走。その中に、その頃、少しづつブームになりつつあったウルトラトレイルレースも含まれた。何も知らないロードランナーが、無謀にも、いきなり、ベアマウンテン50マイルに挑戦、完走。その後、その勢いのまま、ワシントンDC50マイル、そして、遂には、モヒカン100マイルも完走した

ランナーの話:「コディパパ」中編

コディパパに、どんな心境の変化があったのか分からない。 だが、丁度、その頃、マラソンを始めた黒リスにとって、コディパパは、ランニングに夢中というか殺気すら感じる程の全集中で、のめり込んでいた。 会話のほとんどが走ること。会社でも、内転筋を鍛えている為、股に丸い水タンクを挟んで座って仕事しているとか、仕事の合間に、トイレの個室で何百回もヒンズースクワットをしているとか、地下鉄の長い長い階段の上り下りをしているなんて話も聞いた。足首には重りをつけて生活していた。 数年前まで

ランナーの話「コディパパ」前編

コディパパの初マラソンは、1994年のNYCマラソン。 完走タイムは、6時間18分44秒。 コディパパがニューヨークに住み始めた頃、ランニングはそれほど人気もなく、NYCマラソンも、申し込んだらほぼ出場可能だった。それもあり、当時、若かったコディパパは、面白半分に、「折角、NYに住んでるから、出てみっか。」とノリで申し込み、勿論、練習なんてすることもなく当日を迎え、ある意味、相当な伸び幅が期待できるタイムで完走した。 その頃、コディパパにとって、マラソンレースは、単なる

ランナーの話「ラブさん」後編

2012年秋、ラブさんのフェイスブックに、長女のウェディングの投稿が載った。 バージンロードを父親の代わりに長男がエスコートをしていた。最愛の人が旅立ち、4年が経っていた。私は、ラブさんの子供たちに会ったこともないのに、まるで親戚のおばちゃんみたいな気持ちになった。 ラブさんの人生に、良い事ばかりが続く事を願った。 だけど、ラブさんは故障で走れなくなってしまった。毎年欠かさず走っていたNYCマラソンも苦渋の決断でキャンセルした。 ”神は乗り越えられる苦難しか与えない。

ランナーの話「ラブさん」中編

え、何?どういう意味? 2011年の夏、ラブさんのハーフマラソン完走の英語の投稿を読み、訳が分からない気持ちになった。 ”私の記念レース、クイーンズハーフを終えました。 3年前のクイーンズハーフが私の最初のハーフマラソンです。それは、あなたが亡くなる1週間前のクイーンズハーフでもありました。 あの日、とても具合が悪くても、大きな笑顔で励ましてくれたことを、今でも忘れません。 息子のRは、今日、1時間45分で初ハーフマラソンを完走しました。 あなたは彼をとても誇りに思うべき

ランナーの話「ラブさん」前編

ラブさんは、春先の光の様な優しい笑顔の女性ランナー。いつも、ピンク系の可愛らしい色合いのランニングウエアに身を包み、ニューヨーク市内で開催されるランニングレースに隈なく参加している。 ラブさんと出会ったのも、道産子丸編で書いたRun for Japanのイベントだったと思う。以来、何かとレースで見かけるようになり、会話を交わし、フェイスブックで友達になった。 ラブさんは、沢山、地元のレースに出るけど、フィニッシュ後、「タイムどうだった?」なんて聞いてきて、内心、勝ったとか