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当たり前の日常の積み重ねが人の心にとって、とても大切だと知った日のこと


コロナ禍になり、外出自粛が増え、少し前の私だったらパニックになっていたであろう日々が、今割と落ちついて過ごせているのは、認知症の母を介護したお陰だ。

1日に3ブッキングと言われるほど、出かけるなら「会えるだけ会い」、「しゃべるだけしゃべり」、「観たいもの観て」というかなり激しい生活を送っていた時期もあった私にとって、ほとんどの週末を家で過ごすというのは修行以外の何ものでもなかった。

しかし、母の介護のために実家に戻ると決めた手前、愚痴ることもできず、悶々とした日々を過ごすこともあった。そんな時に再び始めた家庭菜園。これに救われたのだ。畑仕事はルーティンの繰り返し。土を耕し、種や苗を植え、水を蒔き、雑草を抜く。ただただ、それだけの繰り返し。

でもこの週末のルーティンが、体のリズムを整え、さらには心のリズムも整えてくれた。人間にとって、自分が無理なくでき、体が覚えた作業というのは、心に負荷を与えることもなく、自然と体が動くものだ。

これって茶道や華道、日本の伝統文化にもつながらない? 同じ動きを繰り返すことで、意識せずとも体が勝手に動き、それが自分の型となった時、はじめて美しい所作となって現れる。

私も自慢ではないが(いや、自慢だが)、鍬の入れ方が相当うまいなと思っている。腰が安定し、無駄なく、土を掘り返すタイミングとでもいおうか。畝を作るのは、不器用なため、あまりきれいにはならないのだが、一定のリズムで土に鍬を入れていると、なんだか心まで落ち着いてくる。

認知症の母にとって、それが台所作業だった。認知症が進み、料理はできなくなってしまったけれど、横にいてサポートしながら、「ニンジン切って」「皮を向いて」「千切りにして」と頼めば、私より上手に手際よくやってくれる。そりゃ主婦業50年近くやっていたわけだから、体が馴染んでいるのだ。

家事ができなくなってから、台所に立つと失敗を繰り返す母に、父が怒ることもあり、だんだんと母は台所に立たなくなったが、それでもふと気づくと、台所の掃除をしている。何度も同じところを拭いているのだが、表情はとても穏やか。彼女にとってはこのルーティンが心地よく、落ち着くのだろう。

認知症は何もかもできなくなるわけではない。昔やっていたこと、体が覚えていることは驚くほど、上手にできる。ただ、それを途中で放り出してしまったり、何をしていたか忘れてしまい、他のことをやりだすということがあるのだ。だからそこだけを責めてしまうと、さらに自信を失っていってしまう。

認知症との付き合いで大事なのは、やれることを取り上げないということ。

これはグループホームに勤める友人が教えてくれたことだ。グループホームでは、食事の準備も洗濯の補助もいろいろな作業を手伝ってもらうといい、彼女曰く「包丁さばきや縫物など、私よりもずっと上手」だそうだ。以前よりできないことばかり目についてしまいがちだが、できることを長く続けること。それが彼女たちの誇りを守り、自立した生活の支えになると思う。

現在のコロナ禍の中、Go To トラベルで世間は賑わしいが、非日常ではなく、今こそ、自分ができるルーティンワークを見つけることが良いように思う。難しいことではなく、毎日できること、週末にできること、仕事終わりにできること、など何か一つ、定期的に一定のことを課していくと、心が整っていくような気がしている。

これって、お坊さんがお経を読む時にたたく木魚のリズム?? あれに近いのかも。人は同じリズムを刻まれると安心するようだ。そうそう心臓の鼓動と同じだ。ただ、ただ同じことを繰り返すって、本当は深い意味があるのかも。これも認知症の母と暮らして気づかされたことだ。

心がざわざわしたら、あなたも一つ、同じリズムでできることを体が覚えるまでやってみませんか?


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