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いつかくる未来のために

「君は、なにか困っていることは?ありません」

息子とお医者さんとのやりとりです。

中学進学にあたり、学校側からも支援級で過ごすのが良いのでは?と提案もあり本人も一年目は支援級で二年生からは通常級がいいかなと言っていたので進路は支援級希望とした。それにあたり診断書が改めて必要とのことでしばらくぶりに発達障害を診てもらえる病院へ行った。

そこで先生は困っていることはあるか?と聞き息子はない、と答えたため「なにも困っていないのなら通常でいいのでは?お母さんはなににお困りですか?」

私は本人は困っていることがないということが困っていると伝えました。今の彼が困ったことがないのはあらゆる配慮のうえに今の学校生活が成り立っているからです。学校、福祉、医療、いろんな力が働いて今のように学校は過ごしやすくなってきたのです。

クラス分けも日帰り旅行のチーム分けも班行動の内容もバスの席もなにもかも、様々な人や機関の配慮のうえに成り立っていることがわかっているようでわかっていない。そのことが問題で困っている事なのです。

配慮してもらって当然で、支援や配慮がなければ日常生活を営めなくなることは歴然です。毎日はしごをのぼり行けていた場所もはしごがなくなればどうやって行くのかと困ります。そんな日は来ます。いつまでも助けてもらい、支援してもらえることは期待してはいけないし一人でも生きていけるようになることを教えていかなければなりません。

あって当たり前ではないのです。無くて当たり前なのです。本来は自分の力だけでどうにかしなければいけないことを助けてもらっていること。それを認識すること。

はしごが無くなったらどんなことが出来なくなるのか困るのかを考えておいてほしいと思っています。

今の彼に周りが口やかましく言う事柄はすなわち彼が出来ていなくてまわりも困っているということ。出来るようになってほしい、やってほしい。覚えてほしい。そうでないとあなたが困りますよ、そんなメッセージもあるのかもしれない。

だから、息子に「明日から通常クラスで過ごすこと。よほどのことでないかぎり手助けはなし。そう言われて困ることはありますか?」と聞くといくつも浮かんできた。そのことがいつかあなたが困ったなぁと感じることだと思うと伝えました。彼にとっては支援がなくなるなんて考えてもいなかったようでした。それくらい配慮され支援されるのが当たり前になっていたから。

配慮は彼にとっては通過点であるだけでゴールではなく一生でもない。やがて自分でできることの範囲を増やして一人でも自分を生かしていけるようになってほしい。

歩けないときの杖のようなもの。歩けるようになればいらなくなります。いつまでもこの世界は配慮し続けてくれるとは限らない。

どうしても自分では出来ないことは支援も必要ですが支援がなくても出来ることが多いほど自分を好きになれるような気がしています。

今は自分は何が苦手で人の手を借りないといけないのか、何なら一人でもこなせるのか、その境界線を見つける作業をしていってほしいと伝えました。遅かれ早かれ親は先に死にます。そのとき慌てないで身を守れるのは自分しかいないのです。支援は当たり前ではなく差し伸べてもらえる手はとても暖かく有り難いことであると知っていて欲しい。そんな固い話は息子は分かりにくいのか不満顔。無理はありませんがいつかくる未来の一つ。


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