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ア・サイエンティスト②

 コーヒーの残りが半分程になった頃、ユキの背後からあのウエイトレスがやってきた。
 「お待たせしました。ブレンドコーヒーのホットです」
 「ありがとう」
 ユキは私だけにわかるように少しにやけつつ目配せをしてから、ウエイトレスの方へ顔を向け、お礼を述べた。
 「あの、ミルクはお使いになりますか?」
 「ええ、もらうわ。どうもありがとう」
 ウエイトレスは元気よく返事をして、ユキのコーヒーの横に小さなミルクピッチャーを置いた。ユキを見ると、鼻の穴を広げ、勝ち誇ったかのような表情をしてこちらを見ている。
 「ごゆっくりどうぞ」
 足早に厨房へ戻っていくウエイトレスの背中を見送っていたユキが振り返り、言った。
「瞬間移動は、しなかったわね」
「そうだな」
「ミルクも、コーヒーと一緒に持ってきたわね」
「ああ、その通りだ」
 ユキはそれ以上何も言わなかったが、嬉しそうに、にやにやしながらコーヒーの香りを嗅いでいる。
「なぜ彼女が今回はミルクをコーヒーと一緒に持ってきたかわかるか?」
「いつもの『学習』の理論でしょう?あなたが大好きな理論の一つの 」
「その通りだ。彼女もまた、進化を続けているんだ」
「だけど、何かを学習するには条件付けが必要でしょう。彼女はミルクをコーヒーと同時に出すことをどうやって学習したのかしら」
「店長にこっぴどく𠮟られたんだろうな。殴られたか、蹴たぐられたか。結局、トラウマ的恐怖が学習には一番効果的なんだ」
「それなら、他の可能性もあるわよ」
「なんだ?」
「あなたの冷たい態度よ。ミルクすら正しいタイミングで出せない若い学生だと見なして、睨み付けたりでもしたんでしょう?」
「馬鹿な。大学教員が学生様にそんな態度を取るわけがないだろう。自分の研究の時間を割いてまで毎日ホスピタリティ満載でサービス業務をこなしているんだ」
「何度も言うようだけど、あなたって、本当に捻くれているわよ」
「ああ、重々承知している」
 ユキは呆れたようにため息をついた。ミルクピッチャーを手に取り、迷わずコーヒーにミルクを全て入れ、一啜りする。
「なあ、毎回思うんだが」
 ユキはコーヒーカップを口につけたまま目だけこちらに向けて、眉を大きく上げた。
 「どうして最初からミルク入りのコーヒーを頼まないんだ?」
 ユキは口に含んだコーヒーを味わうように何度か転がしてから飲み込み、コーヒーカップを皿に置いた。
「どういうこと?」
「君はいつもブラックコーヒーを頼んで、一啜りする前にミルクを全部入れるだろう。はじめはブラックコーヒー本来の味を楽しんで、途中からミルクを入れるのなら話は別だが、君はそうはしないだろう。それなら、最初からミルク入りの飲み物を頼んだ方が効率的なんじゃないか?」
 「たしかにそうね。でもあなたにはわからないと思うわ」
 「何が、わからないと思うんだ?」
 「言葉では説明できないわ」
 そう冷たく言い放つと、ユキは窓の外の景色を見るように、そっぽを向いた。説明を放棄した彼女に多少のいらだちを覚えたが、その様子を悟られないように、深呼吸をした。
 「そういえば、例のアンナさんはどうなんだ?」
 ユキが務めている心療内科に通う患者を、守秘義務があるからと、心理学者になぞらえて呼んでいるのだった。
 「彼女は鬱病の典型例ね。希死念慮は今のところ見られないけど、気分の落ち込み、無気力感、睡眠障害がひどいみたい」
 「それでも、そのような症状も全て彼女自身の自己申告によるものだろう。君から見て本当に辛そうだったのか?」
 その瞬間、ユキの表情が一変した。まずいことを口走ったと反省したころにはもう遅いようだった。
 「荒畑さんをはじめ、鬱の症状を訴える患者は顔に酷いクマがあったり、待合室でも何をする気力もなく、横たわっている人すらいるのよ。実際に見たこともないくせに、よくもそんなことが言えるのね」
 いつもよりも低い声のトーンで言い放った。それでもまだ怒りが収まらないようだった。
 「何年も人の感情について研究しているくせに、人の心が全く分かっていないのね」
 そう言い放つと、ユキは椅子の上においてあるカバンを持ち、席を立った。早足でドアの方へ歩き去っていく。その背中を一瞥し、すっかり冷め切ったコーヒーの残りを飲み干し、背もたれに背を付け深呼吸をした。次の瞬間、突然ユキが戻ってきたと思えば、五千円札をテーブルの上に乱暴に置き、再び去っていった。
 ミルク入りのコーヒーが半分飲みかけだったことと、喫茶店に来るのに五千円札を崩していなかったことを不思議に思いながら、ジッポライターを右手で手に取り、煙草に火をつけた。

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