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綴草子〜千夜一夜小噺集〜 第五話 月と星


#創作大賞2023

 僕との出会いは、偶然だった。その時の僕たちは、月と太陽のような距離だった。

「すみません!」
「いえっ……」

 僕は、雑踏の中にいた。感覚でいえば、雑踏の中に僕がいるのと同時に、僕の中に雑踏がいた。
 僕の脳は、暑さでどうにかなりそうだった。
 独り、雑踏の中を歩く。暑さで靄がかかったようなアスファルトを、人ごみの隙間から覗いていた。

「きゃっ……」
「あ、すみません……」
「何あの人? 大丈夫?」
「大丈夫―。ところでさぁ……」

 今日で何度目だろう。空は眩しくて、とても見上げる気にはなれなかった。
 ひたすら俯いて歩いている時だった。僕が彼女に出逢ったのは。

「きゃっ…」
「すみません!」
「いえ……」
「大丈夫ですか?」
「はい……。貴方の方こそ、大丈夫ですか? 顔色があまりよろしくないですよ?」
「いえっ、大丈夫です! 元々なので……」

 そう言った瞬間、僕はふらついた。

「やっぱり、大丈夫じゃないですよ! そこのカフェまで歩けますか? 少し休みましょう? 私が付き添いますから……」

「すみません……」

 不甲斐ない僕には、彼女が女神のように思えた。

「ミックスジュース二つで」

「かしこまりました」

 彼女はあっという間に注文すると、慌てたように言葉を紡いだ。

「すみません! 勝手に頼んでしまって……。コーヒーや紅茶よりも栄養が摂れるのではないかと思って……」

 彼女が、不安げに僕を見つめる。
 僕は、彼女がこの一瞬でそこまで考えてくれたのかと思うと、なんだかとても嬉しくなった。

「いえ、ミックスジュース、僕も飲みたいと思ってました」
「良かった……」

 彼女が、安堵の笑みを浮かべる。なんと、綺麗な笑みなのだろう。

「それよりも、すみません。僕のせいで、こんな時間に付き合わせてしまって……」
「良いんです。ちょうど時間ができてしまって、どうするか悩んでいたところだったので」

 彼女が苦笑する。僕はその時すでに、彼女の魔法にかかっていたのかもしれない。

「お待たせ致しました。ミックスジュースです」
「「ありがとうございます」」

 声が揃った僕たちに微笑みながら、

「伝票置いておきますね」

と、ウェイトレスは去っていった。きっと、バックでネタにされるのも時間の問題だろう。

「揃っちゃいましたね」

 彼女が笑う。

「そうですね」

 僕も笑う。ぎこちないながらも、笑ってみせる。

「ふふっ」

 彼女は、不意に笑った。

「どうかしましたか?」
「あ、ごめんなさい。なんだか楽しくなっちゃって。こうやって、誰かとカフェに来るのが久々だったんです」

 彼女は苦笑した。僕には、彼女の苦笑に隠れる哀しみを知らないふりができなかった。

「何か大変なことでもあったんですか?」

 彼女が目を見開く。

「あ、すみません。なんだか、哀しそうに見えたので……。無理に言わなくても良いんです。ただ、助けてもらった恩返しになれば良いなと思って……」

 もう一度彼女は目を見開くと、その瞳から雫が零れ落ちた。

「あ、ごめんなさい。こんなつもりじゃなかったの」
「あ、いや、僕の方こそすみません!」

 慌てて、そばにあったペーパーを差し出す。
彼女は、黙ってそれを受け取って、そっと瞼を押さえた。

「ごめんなさい。なんだか、いろいろ思い出してしまって……」
「いえ、こっちこそすみません。いろいろ思い出させてしまって……」
「ついでに……聞いてくれますか?」

 僕は、黙って頷いた。

「明るい話ではないんですけど……」

 彼女はそう言って話を始めた。彼氏と出会った時のこと。彼氏との楽しかった思い出。彼氏との突然の別れ。そこから抜け出せなくて、彼の面影を探してしまうこと。

「ごめんなさい。こんな話、初対面の人にすることじゃないですよね……」

 僕は、大きく首を振った。僕の瞳からも、何故か雫が零れ落ちた。

「あぁ、しまった……。まただ……」
「え……?」

 僕の記憶は、そこで途切れた。
 次に気が付いた時には、涙で顔をくしゃくしゃにしながら、

「ありがとう……ありがとう……」

そう振り絞る彼女の姿が視界に入ったのだった。

「大丈夫……ですか?」

 僕は、そっと震える肩に手を添える。一瞬彼女はびくついたが、すぐに肩の力を抜いた。

「ありがとう……ございます。もう……大丈夫……です」

 そう振り絞る彼女は、とても繊細な月のようだった。
 彼女が落ち着くまで、僕は彼女の肩から手を離さなかった。
 ようやく彼女が落ち着いた頃、ぽつりぽつりと彼女は呟きだした。

「彼は、私と出会えて幸せだったと言ってくれました。私も、彼に出会えて幸せでした。だからこそ、前を向こうともがきすぎていたのかもしれません。今日は、貴方に出会えて本当に良かった。これも、彼のおかげなのかもしれません」

「そうですね……」

 僕は、窓から空を見上げた。

「あの……、初対面でいきなりなんですが……。もしよろしければ、連絡先を交換して頂けませんか? この機会に、私も前を向くための一歩を踏み出したくて……」

 僕は少し驚きつつも、彼女の想いを受け止めることにした。

 あれから、僕と彼女は時々顔を合わせては、他愛無い話をするようになった。
 彼女は、繊細で、それでいて明るい笑顔を、たびたび僕に向けてくれるようになった。
 僕は彼女の笑顔を見るたびに、あの時見た月と星を思い出す。月と星の距離がまるで僕たちのようだった。

「ねぇ、君は見ているかい? 彼女はこんなにも素敵な笑顔を見せてくれるようになったよ。君に向けていた笑顔を、僕に見せてくれるようになったよ。ねぇ、聞いているかい? 君のおかげで、僕と彼女は月と星の関係になれたんだ。だから、君には礼を言うよ。だから、安心して眠っておくれ」

 僕は、あの時の彼に語り掛けた。ふわっと、空気が動いた。

「彼女をこれからも、支えてくれないか? これからも月と星のような関係でいてくれ。そして、彼女を幸せにしてやってくれ」

 なんだか、そう言われている気がした。
 僕は空を見上げた。月と星が、静かに温かく光っていた。

-次は、第六話 レモンティー-
https://note.com/kuromayu_819/n/nbfdedf40d0ac

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