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綴草子〜千夜一夜小噺集〜 不思議なきっかけ

 私は、とある会社のOL。彼氏はいる、一応。
 今日もパソコンに向かう。エクセルを、ようやく使いこなせるようになってきた。でも、完璧なブラインドタッチはまだできない。
 派遣社員という立ち位置は、時に居心地良く、時に居心地悪い。派遣先にもよるのだろうが、私のいる会社は、残業がない。時給の低さに、ため息が出る。
「お先に失礼します」
 いつもの挨拶をして、定時退社する。本来ならば、それが正しいはずなのだが、時給が低いこともあって、残業ができないことが悔やまれる。
 今日も今日とて、月給の予測をする。来月は、美容室は我慢した方がいいのかもしれない。
 そんなことを考えながら、電車に揺られる。今夜の晩御飯は何にしよう?
 私が電車に揺られる時間は、比較的短い方だ。しかも、各駅停車の電車に乗るので、比較的空いている。そこは、ついている。
 最近、なぜ自分がこんなに低収入から逃れられないのか、よく考えるようになった。彼氏ができたからだ。
 ミドサーという年齢層になってできた彼氏なので、嫌でも結婚の文字がチラつく。そうすると、金銭面の課題が避けられなくなる。
 しかも、彼は子どもが欲しいと言っている。ということは、必然的に収入を上げる必要が出てくる。
 所謂ハイスペ彼氏ならそんな心配はいらないのだろうが、彼氏は違う。人柄に惹かれたから、正直そんなことを考えていなかった。
 私には、奨学金という借金がまだ残っている。訳あって大学を中退し、借金だけが残ってしまった。その点でも、私は賢くない。
 仕事は辞められないし、でも年齢が上がるほど、妊娠のリスクが上がる。なぜ正社員の道はこんなにも遠いのか。
 仕事を選ばなければ、おそらく正社員にはなれないことはない。接客・事務どちらの経験もあり、なんならコールセンターでも働いていたので、技術職と営業以外ならそれなりにできる。
 しかし、私には致命的な欠陥がある。“仕事が長続きしない“という点だ。
 どの仕事をしていても、なぜか長続きしない。飽きるわけでもない。
 ある日、起きられなくなるのだ。始めは、やる気が漲っていて、どんな仕事も進んでできる。なのに、ある日突然電池が切れたように、起きられなくなるのだ。これだけが、どうしても直せない。
 彼氏には、“息抜きが下手だからだよ“と言われた。自分では、息抜きをしているつもりである。そもそも、“息抜き“とは?
 幸い、彼氏は私の扱いをわかっていることもあってか、あたたかく見守ってくれている。むしろ、スタートダッシュで頑張りすぎではないかと、心配される。
 私のラッキーなところは、両親に甘えて実家暮らしができているところと、優しい彼氏がいるところかもしれない。
 そんなことを考えながら、今日も帰路につく。
 シャワーを浴びて、晩御飯を食べて(今日は、お味噌汁と納豆とししゃもと麦ご飯だった)、布団に潜り込む。
 部屋には、本が山積みだ。地震がきたら、きっと生き埋めになるに違いない。
 私のささやかな趣味だった読書は、だんだん積読化してきている。本が読めなくなってきた。
 最近、眠りが浅い。11時半過ぎに眠りにつくのに、朝の4時過ぎに目が開く。何かの本で読んだ“不眠“というやつかもしれない。
 仕事では、ほんの小さなミスをたまにする程度で、仕事自体は評価されていると面談では言われている。どこまで本当かはわからないけれど。
 いろいろと考え込みながら、まどろみに身を任せる。
 そんな日々を繰り返す。

 ある日、夢を見た。私は、静かな湖畔で座っていた。それだけの夢。
 普段夢を見ない人間なので、やはり眠りが浅くなっているのかもしれない。
 どうやって、熟睡できるのか通勤途中にネット検索しては、試す日々を過ごす。
 しかし、その夢は毎晩私の眠りを支配して、寝不足の解消には辿り着かなかった。

 その日の晩も、動画配信アプリで、効くのかよくわからないヒーリングミュージックをかけて眠りにつく。ミュージックは毎晩異なるが、他の行動はいつもと変わらない。
 私は、いつものごとく夢の中で、湖畔にいた。一つ異なるのは、物語に出てきそうな赤い屋根の小さな木の家があった。
 なんとなくの気分で、家に近づく。ドアノブに手をかけると、簡単に扉が開いた。
「やあ、いらっしゃい」
 細身で高身長の男性がソファに座っている。年齢は、70〜80歳くらいだろうか。頭も髭も白い。木こりのような服装だが、身なりは、小綺麗である。
「最近、君はいつも湖畔にいたね」
 彼は、私に言葉をかけてくる。私が湖畔にいることを知っているらしい。
「ここはどこですか?」
 返事の代わりに、質問をした。
「ここは、夢のほとりだよ。具体的な場所というものではないけれど、君の夢の中に近いところだ」
 彼は、優しい声で答えてくれる。
「なぜ、私はここにいるのですか?」
 私は、さらに質問を続ける。
「ここはね、頑張りすぎた人を癒すための場所なんだよ。君がここにいるということは、君が頑張りすぎているということだ」
 彼は、微笑む。
「私は、まだ頑張りが足りないと思っています。もっと頑張って収入を増やして、もっと頑張って勉強して……」
「君は、十分頑張っている。時には休むことも大切だよ」
「でも、今のままじゃ、彼氏と結婚することも難しくなってきます……」
「彼氏は、もっと稼いでほしいと言っているのかな?」
 彼は、まっすぐ私の目を見つめてくる。
「そんなことはないですけど……」
 私は、困ってしまった。確かに、彼氏は収入について、何も言ってはこない。
 しかし、彼氏のうっすら教えてくれた月収を聞くと、自分も働いた方がいいのではないかと思う。
「彼氏とは、具体的に結婚後の話をしているのかい?」
「それなりにしていると思います」
 彼のまっすぐな視線が痛くなってきた。
「なるほど。2人は付き合い始めて、どれくらいになるんだい?」
「もうすぐ1年です」
 そうだ、あと2週間で1年になる。何人かと付き合ったが、こんなにも長く続いているのは、初めてだ。彼氏の優しさのおかげだ。
「1年か……。確かに、結婚の話が出るカップルもあるだろうね」
 確かに、友人の1人も、1年くらいで結婚している。私は、結婚できるだろうか……。
 彼の視線が痛すぎて、目を見て話せない。
 でも、自分の夢(に近い場所)だと思うと、だんだん緊張もほぐれてきた。なんだか、話を聞いてくれるし、いっそとことん話を聞いてもらおうという気になってきた。
「私は、結婚がしたいんです。彼とずっと一緒にいたいし、彼の子どもも欲しいです。でも、収入面が心配です。とは言え、子どもが欲しいとなると、高齢になるほど、妊娠の際のリスクが上がる。そんなことなどを考えると、仕事を変えた方がいいのではないかとか、いろいろ考え込んでしまいます」
 だんだん、声に力が入らなくなってきた。
「なるほど。君は、彼氏とずっと一緒にいたいんだね?」
「はい」
 彼は、自身の髭を撫でた。
「そこに、結婚という契約は必須なのかな?」
「え?」
 私は、咄嗟に聞き返してしまった。
「結婚しなくても一緒にいることはできる。そして、結婚という契約を結ぶには、信頼関係が必要だ」
 彼は、言葉を続ける。
「もちろん、彼氏も結婚のことを考えている可能性はあるだろう。しかし、まだ表にちゃんと出してはいないのではないかな?」
「でも、子ども欲しいねって言ってます」
「子どもが欲しいという言葉は、遠い未来の話で、すぐにではないかもしれない。言葉の綾かもしれない。本当に結婚への気持ちが固まっていれば、もっと具体的に話をしてくると思うよ。きっと、まだ彼の中では固まっていないのではないかな」
 私は、動揺した。確かに、彼の言う通りだ。彼氏からは、いつごろ籍を入れるかとか、親に紹介するよとか、具体的な話は出ていない。
「彼は、私と結婚する気はないのでしょうか?」
 私は、なんだか悲しくなってきた。
「今の時点では、ないかもしれない。私には、彼氏の心まではわからないからね。しかし、今まで通りちょっとずつ信頼関係を築いていけば、その道は拓けるかもしれない。君の行動次第だよ」
 彼は、微笑む。
「じゃあやっぱり、私はもっと頑張らないといけませんね」
 彼は、ほんの少し目を見開いた。
「頑張ることだけが、信頼関係を築くわけではないよ。程よく気を抜くことも必要だ。ずっと、緊張していると、彼氏も頑張らないとと、気を張ってしまうだろう? 気を張り続けると、お互い疲れてしまうよ。お互い、程よく気を抜いて、気楽な信頼関係を築く方が、後々楽だよ」
 彼は、目尻を下げて、私に笑顔を向ける。
「どのように、信頼関係を築けばいいのでしょうか?」
 私は、問いかける。
「そうだね……。きちんと話し合って、ペースを合わせることをおすすめするよ。全く同じ価値観やペースの人間は、なかなかいない。そこを擦り合わせて、お互い譲歩できるところで合わせるといい。言い方を変えると“妥協する“と言うことだよ。でも、自分を押し殺してはいけないよ。我慢のしすぎは、あとで大きな火種となるからね。そこは、ちゃんと話しなさい」
 優しい声色で、彼はそうアドバイスをしてくれた。
「さぁ、そろそろ行く時間だよ。60パーセントの力で日々を生きるくらいがちょうどいい。それは、以前君が言われた言葉ではないかい? その言葉を忘れずにね」
 そう言って、彼は玄関の扉を開いた。扉の外が、どこかで見たドラマのように白く光っていて、外が見えない。
「ありがとうございました」
「いえいえ。君の未来に、幸多からんことを」
 彼の優しい言葉に感謝しつつ、扉の外に出る。それと同時に、目が覚めた。時刻は、6時半。ちょうどいい時間だ。
 私は、彼の言葉を反芻しながら、支度をする。
 確かに、いつも私が一方的に将来の話をしていて、彼はいつも、「そうだね」と、相槌を打っていることが多かった。彼の話をよく聞いていなかった気がする。私は、もっと彼氏の話を聞くべきだ。次電話する時や会う時は、もっと彼氏の話を聞こう。
 それにしても、不思議な夢だった。現実のようにも思えた。あの男性曰く、夢に近い場所だから、夢でもないのだろうか?
 靴を履きながら、考えてみたが。答えが出ることはなかった。
 電車に乗って、窓の外をぼんやり眺める。彼は、60パーセントの力でと言った。職場の人に言われただろうとも。確かに、以前の職場の上司に言われたことがある。
「君が頑張っているのは、知ってる。いつも頑張ってくれてる。でも、それじゃあ潰れちゃうから。普段は60パーセントの力で、ここぞの時に100パーセントの力を出すんだ。君の仕事ぶりなら、普段60パーセントの力でも大丈夫だ」
 あの上司は、今も元気だろうか? とても優しい人だった。
 電車に揺られながら、今日の仕事は少し緩めに頑張ってみようと思った。つい全力を出してしまうから、緩くすることを心がけてみよう。
 そして、今の職場でもうちょっと頑張ってみよう。昇給のチャンスがあるかもしれない。ないかもしれないけど……。でも、もうちょっと頑張ってみよう。
 朝日で、車内が明るくなる。電車は、今日も順調に運行している。
 今日は、いい日になるかもしれない。いや、きっといい日になる。そんな、気がする。

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