綴草子〜千夜一夜小噺集〜 第三話 酸性雨
カランと鐘の音と共に扉が開く。
「いらっしゃい」
渋い声が店内に広がる。
「開いてるかい?」
「あぁ……いらっしゃい。開いてますよ」
コートにハットを深めに被った男性が、ぬっと入店する。室内では、陽気なジャズが流れている。
客と思しき男性は、迷うことなく奥のカウンターへと向かう。
彼はハットを外して、腰を掛けた。
「今日は降りそうですぜ、マスター」
彼はそうマスターへ告げた。
「そうですか……」
マスターは悲しげな表情を浮かべた。マスターの表情に合わせるように、心なしか部屋が暗くなった。
外から雨の音が聞こえだした。
「始まりましたね……」
マスターは、表情を変えることなく呟く。
「今日は、どれだけ哀しみの涙が流れるのでしょう……?」
「さぁね。『神のみぞ知る』だな」
男は顔色一つ変えることなく、マスターを見つめた。その眼光は鋭く、それでいて、どこか哀しみを湛えているようでもあった。
ぽつん、ぽつん。雨の音に交じって、どこからか泣き声が聞こえてくる。遠く、それでいて近く。膜に覆われた所から聞こえてくるような近さと遠さを感じる。
「始まりましたね……」
マスターがカップを拭きながら窓を見つめた。
「あいつらには、この時しか訴えることができないからな……」
泣き声は、いつの間にか複数人の合唱のように織重なって聞こえだしていた。
彼らに聞こえている声は、外にいる人達には聞こえていない。その証拠に、外では女子高生の笑い声が響いている。
「彼女達に聞こえていなくて、良かったですね」
「そうだな……」
外の喧騒に混じって聞こえている泣き声。それは、今は眼に映ることのなくなった妖(あやかし)達であった。
彼らの声は、もうこの『現代社会』というこの世では、ごく一部の人達しか聞くことができない。
彼らの声が泣いているのは、彼らの孤独を感じる人達がいないからだという。
彼らは、自身の存在を知られることが半永久的に来ないことを知っているのだ。
そして、そのことこそが、己に与えられた地獄だということも。
前世の行いがどのような行いだったのかは、己にしかわからない。ただ一説には、子育てを放棄した母親や、イジメの主犯格だった奴が、その地獄へと導かれるのだと伝えられている。そして、うっかりその声に耳を傾け、彼らに救いの手を差し出そうとした者も。
本当かどうかは、行ったことのある者のみが知っている。
彼らの声が聞こえるのは、決まって雨の降る日だ。
雨の涙と共に孤独から解放してくれる者を探すのだ。泣き声を上げ、自身の存在を知らしめようとするのだ。
「今日は、泣き声がいつもより多いですね……」
「あぁ……」
今日が盆だからだろうか? いつもより合唱が大きく、厚みがある。
「今日はやみそうにないか……」
ホットコーヒーを見つめながら、男は呟く。
マスターは、相変わらずカップを順に磨いていた。カップの輝きと外の雨音が比例するように大きくなっていく。
男はホットコーヒーを口に含んで、渋い表情を浮かべた。
「おや、濃ゆすぎましたか?」
「いや……。外が濃ゆいなと思ったんだよ」
男はそう言って、コーヒーを飲み干す。
「ごちそうさん」
代金を置いて、男が外へ向かう。
「同情してはいけませんよ」
「あぁ……」
男はハットを深く被り、扉を開けた。
「待ってろよ、必ずお父さんが見つけてやるからな……」
彼はそう呟いて、扉を開けた。
合唱が一際大きくなる。
男は、傘もささずに雨の中へと消えていった。
「見つかると良いですね……」
マスターが呟く。
カップには、口に流れ込まなかった残りがうっすら残っていた。
彼は、今日も雨の中を探す。彼女を見つけるまで。
雨の音に耳を澄ませてみてごらんなさい。
あなたにも聞こえてきたでしょう? 彼らの哀しみの声が。彼らの求める声が。
でも、決して手を差し伸べてはいけませんよ。入りたくないでしょう? 『孤独』という名の地獄の中に。
-次は、第四話 前掛け-
https://note.com/kuromayu_819/n/n53e7fd4543ab
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