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何を手放すのか、止めるのか、捨てるのか、これが究極のゆたかさ

今日久しぶりに表に出た。ガランとした夕刻の寂れた公園に、純白のツツジが狂い咲いていた。

文字通り狂っているのだ。低木の緑の葉が全く見えない、ただの真っ白なものの集団と化したドームがそこにあった。

こんなツツジは見たことがない。写真を撮れば良かったな。しかしこの風雨で花は散るだろう。今のひと時だけ謳歌したらやがて低木はその衣を捨てて、新たなものへと生まれ変わる。

…このご時世になってからそんなことばかりを考えている。

手放すもの、手放した人。

好きだったものを止める瞬間。

もう要らないと捨てる時。

字面だけ見ると残酷だけど、なんとなく自然の摂理のように思えるし、悪い気持ちで持ち続けることにも正直疲れる。
それが人間関係だったら尚更、気分が悪いのにどうして一緒にいるんだろうとなる。

わたしの美徳では、付き合うならお互い助け合いたいし、愛し合いたい。でもそう思えない気持ちに嘘をついてまで一緒にいる、その価値はあるのか。

基本的に去る者は追わない主義だ。例えば彼氏に別れ話を告げられたら、よほど長年の問題を抱えてない限り(清算が終わってないと関係を断ち切れないため)、離れる選択をする。
逆にわたしももうダメだ…と思ったらそっと告げて離れてしまう。

人じゃなくても、物でもそうだ。ある程度愛着を持っていた物が、突然興味がなくなってしまう。
趣味もそうだ。ある日を境に突然卒業してしまう。

どれも少し悲しい思いはある。たまに再燃する時が1年に1度くらいはある。それでもなんとなく、興味を失ったものを側に置いておきたくないという気持ちがある。

具体例を挙げると、ピアノや歌。音楽全般は大学を目指していたくせに興味がなくなってしまった。

運動ではダンス。社交もサルサもベリーもよさこいも踊ってみたもやったけど、熱が冷めてしまった。

あとはお酒や煙草もぱったりと。よく禁酒・禁煙は難しいと言うけれど、わたしは興味がなくなるともう欲しくないのだ。ある日突然、飲まなくても、吸わなくてもいい日がきた。

今のところ旅行もそうだ。ある時期には頻繁に出かけるが、その時期を過ぎると全く出かけない。だから趣味じゃなくて、その時たまたま何かしらの興味の熱量が高かったのだろう。

そうして興味を失うとどんどん捨てていく。でもこれは、ある意味で良いことだと思っている。

それは、やらないことを決めると新たなやることが生まれる。あるいは今までやっていた本当にやりたいことがやれるようになる。分散していた力がひとつにまとまる。

例えば極端な例だが、仕事と恋愛に生きている人から恋愛を取り上げたら、仕事に精が出る。(わたしはそのタイプだった)

わたしは恋愛のスリルが好きだったが、他の方法でもっと簡単にスリルを体現できた途端に恋愛の興味を失ったのだ。逆に言えば、その程度の興味だったというそとだ。

その程度の興味をするっと捨てて、全く興味がなかったことを今ではやっている。

驚くかもしれないが、わたしは料理が全くできなかった。台所に立てば火事未遂をおこすし、電化製品は壊すし、流しは洪水になった(マジで)。料理禁止令が出されたほどである。
それがある日を境に料理を探究し始める。なぜかはわからない。

植物もだいきらいだった。
理科の授業で育てる朝顔もミニトマトもヘチマも全て枯らしたし、サボテンも腐らせる。そこに命があるという実感も持てなかった。

動物は未だに少し苦手なんだけど、かろうじて骨、化石、鉱物、虫、魚類、爬虫類、両生類までは興味が持てるレベルになった。これも命があるという実感が持てなかったのだ。
小さい子が虫を潰すような意識感覚で、頭で理解しているからそれはしないけど、自分とは関係ない別個体という感覚が強かった。

運動だってだいきらい。動きたくないし、動くと疲れるもん!と言い張っていたが、今では筋肉魔女を目指して腹筋を割っている。すきなポーズはサイドチェスト。プロテインも大好物…とだいきらいからだいすきの振れ幅がやばい。

では逆に一貫して興味を保てているのは、本とゲームとオカルトだ。ここまでくるとこれは捨てないものなんじゃないかとも思える。
本とゲームはわかりやすいからいいとして、オカルトは、小さい頃からぬいぐるみをベッドの周りに配置して、まるで葬列のようにしないと眠れないこともあるし。
ふしぎなメロディが鳴り続けたり、いるはずのない声が聞こえてくるなど、意味わからない奴ら解明してやる!的な熱量からくるものだと思う。それしかない。

これが今では、余計なものを捨て去ったお陰か十二分に研究させて頂いているから感謝しかない。料理や植物への興味もオカルトのせいだと言わざるを得ない。

人それぞれその価値の尺度は違うと思うし、わたしは極端な性格だと思うからここまでの人は少ないかもしれない。だが振り返ってみると意識を捨てた分だけ新たな意識改革が起こっているように思う。

もしかしたら明日何かに興味を失ったら。また新たな何かが始まるかもしれない。失うことを恐れてはいけない。
失うことはわたしにとって「いなずまの閃き」で、神のみわざなのだ。その流れに逆らわずに生きていきたい。人の流れも縁も、物の流れも縁も、流動していて、ひとところに留まって所有できない。
わたしはその時に愛することしかできないのだから。

狂ったツツジは、明日写真を撮ってこよう。きっと彼は今がいいんだ。

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