驚異を味わうことこそ、読書の真髄。
前回の記事において、わたしは以下の記事で小説における文章について、「平易な言葉を使って優れた文章を描くことが理想」ということを言った。
今回はこの記事に補足してもう少し深い話をしたいと思う。
この記事において、わたしは難しい言葉に固執しすぎると「硬く流れの悪い文章になる」と言った。
これは万人に対してわかりやすく書くべきだ、ということと同義だろうか?
否である。
特に文学などの領域においては否、であるとわたしは考える。
なぜなら、小説や評論を読むことの大きな楽しみの一つに
「未知の領域を味わう」
というものが少なからずあると考えるからだ。
時々、読書をする際にすぐ挫折してしまう人がいる。もしくは数ページか読んですぐに「無理だ」と見切ってしまう人が。
こういう人によく見られる傾向として、「読むからには内容の全てを理解しなければならない」という強い思い込みがあるように感じられる。
わたしの大学時代の先輩にもそういう人がいた。その人の読書の仕方を否定する気はさらさらない。しかし、そういった読み方はわたしにはいささか窮屈に思える。
わたしも時折、自分の能力を超えた本を手にすることがある。そういった本を読むとき、わたしは決して全ての内容を理解しているとは言い難い。これは単に読むフリをしているのではない。
要は能力以上の読書をしながら「自分の限界を知る」行為なのだ。
ここまではわかった。ここはわからない。
そういう部分を乗り越えながらとりあえず一冊を読見通す。時には読み通せないことだってある。
こういう身の丈以上の一冊に手を伸ばす行為はわたしに「理解の外」を味わせてくれる。
お前にはまだ、できないことがある。
知らないことがある。
わからないことがある、と。
わたしにとっての一番の恐怖はこの世に未知がないことだ。
何もかもを知り尽くしてしまったら、わたしの欲求は行き場を失いやがて腐ってしまうだろう。
読書とはわたしにとって、最も手軽に未知を味わうことのできる行為なのだ。
そして、「理解の外の世界」を味わせてくれる文章は「わかりやすくはない」が「優れたもの」であると言えるのではないだろうか。
本当に優れたものを読んだ時、人はそれをなかなか忘れられないものだ。一種のトラウマのように、たった一つの創作物が人生の一部のようになってしまう。わたしもそんな経験をいくつかしてきた。そして、このような文章は読者が内容をきちんと理解できているかどうかを飛び越えて衝撃を与えるものだ。
いつか、そんな驚異のある文章をわたしも描きたい。
皆さんはどんな読書をしているだろうか?
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