制作の日記① 3/14

ひとびとがすなるにきといふものを、制作もしてみむとてするなり。と、いうことで有名すぎる一節をもじって、制作の日記を書き始める。noteなんだからちょっとくらいおしゃれぶっても許されるだろう。
しかし日記といっても人に見られるものである以上、まずは自己紹介から入るのがいいだろう。
この日記を読む上で必要となる基本事項は以下の通り。
年齢:21歳
職業:学生
劇団:高校の卒業生で立ち上げた劇団で制作を担当している
役者経験:なし

もし、この日記を何か目的があって、例えば制作とはどういうものなのかを知るために読むという人がいたら、劇団の特徴は念頭においてほしい。大学のサークルや社会人劇団、商業劇団のそれとはおそらく異なるものであろうから。

前置きはこの程度にして本編。
今日は団内発表だった。団内発表とは、劇団に所属していながら、座組には参加していない団員を集め、本番さながらの演目を見せることで公演前の段階で修正点や課題を見つけるとともに、座組に関わる人々のモチベーション維持や経験値獲得を目的としたものだ。
私は制作として、全体の進行に関わったり、使用した劇場との打ち合わせをしたり、別演目の照明を担当するなどした。
日記は叙事詩ではないので、やったことはこの程度にとどめておく。

わざわざ日記を書いて何を残したかったか。
ここでは疎外感である。
こいつは手強いもので、私にずっと付き纏っている。
ハブられている、ということではない。これは現場において制作という存在だけが持つ特殊性に由来していると私は考えている。
役者や演出、舞台美術、音響、照明。これらはどれも一言で言えばクリエイティブな役割である。一方制作とはプロデューサーであり、生産・製造・制作と、どうしても無機質な側面が強くなる。この違いが二つの効果をもたらすことで疎外感につながっているのではないか。
一つ目は役割が違うということによる座組メンバーとのズレ、二つ目は無機質であるがゆえの、作品との有機的なつながりの希薄化である。これらの詳細については稿をあらためることとする。
ただし、他の劇団における制作が皆そうであるとは思っていないし、個人的な要素も大きく影響しているだろう。

話を団内発表に戻そう。
団内発表では先述の目的を果たすため、実際に演目を上演した後、反省タイムが用意されている。反省タイムでは、各々が感じたことや脚本担当、演出担当からのコメントもある。当然、反省内容は演劇の内容である。ここで制作たる私の居場所が行方不明になる。
制作という立場は難しいもので、演目の内容、ざっくりいってしまうところのクリエイティブな側面には関わりにくい。そのため、この反省タイムというのは言ってしまえば置いていかれやすくなる。
座組内の熱をもった議論は制作を取り残して進んでいく。いたたまれなくなって楽屋を抜け出す。疎外が加速する。戻っても、席は輪から外れ、傍観者となる。

そして劇場の使用時間が終わりに差し掛かる。片付けをする。
劇団内の同窓生と一緒に、劇場の掃除機がけをした。掃除機の音が人の話し声を遮り、内容を解読不能にし、ただの音声に変える。一台の掃除機を二人で使って掃除をした。この時間がやけに心地良かったことを覚えている。

劇場を退出し、時刻は22時。劇場からの帰り道は西と東に分かれる。
東向きに帰る人は少なく、東の駅から電車に乗る人は私だけだった。
電車に乗ってから夕食を食べ忘れていたことを思い出した。
自宅の最寄り駅につき、23時閉店のラーメン屋に駆け込み、「まだやっていますか?」と尋ねる。洗い物の音だけがする閉店間際のラーメン屋で腹を満たし、馴染みの立ち飲み居酒屋に向かう。
店を覗くといつでも親しく話してくれる、妖怪の名を冠した常連さんがいた。
3畳ほどしかない店内はいつも以上に混雑していて、荷物は店の前に置いた。
日本酒半合を注文する。他のお客さんと乾杯をし、ちびちび。隣の常連さんは確かカウンセラーだったと思う。劇団の話は宣伝ついでに以前、したことがあったため、今日もその話から始まる。流れでちょうど抱えていた疎外感の話をした。
常連さんは「じゃあその疎外感を引きずって、今日ここまで来たわけだ」と返した。そのとおり。

そのまま制作という役割についても話した。
「制作大変でしょ」という常連さんの言葉に、「制作なんてよくやるね、なんて言われるんですけど、ある意味最高の推し活だと思うんですよ」と私の持論を展開した。
後ろで他のお客さんと話していた、例の妖怪の名を冠した常連さんが振り返って会話に参加してくる。
「それだとどこかで限界が来る。だからどこかで線引きをしないと」

最寄りなのをいいことに深夜1時まで飲み続けてしまった。
二杯目の酒は裏八仙。妖怪の常連さんが奢ってくれた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?