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『ぼくらは森で生まれかわった』(おおぎやなぎちか・著/宮尾和孝・絵/あかね書房)

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岩手の小さな村で夏休みを持てあまし気味の小5の真は、河童伝説のある森で、都会から来た順矢と出会った。順矢の第一印象は最悪だったけれど、同い年でもあり、真は毎日一緒に行動するように。しかし、順矢が映画で有名な子役だという秘密と、真がいじめにあっているという嘘が、祭りの夜に明らかになり、傷ついた順矢が東京へ帰ってしまう……。現在の悩みと向き合い、未来を真剣に考えることになった少年たちの特別な夏を描く!(公式あらすじより)

作中の舞台は岩手県の花里市羽野町という架空の町。岩手に縁深いという作者の手で、遠野近辺や実在の風景と上手にまぜ合わされ、土地柄や自然が身近に感じられます。

生まれも育ちも大阪の私ですが、「遠野物語」の舞台となる岩手県は、じつはあこがれの土地。観光でおとずれて古民家で寝泊まりしたこともあります。遠野の、かっぱ淵の入り口だったかな、たしかお稲荷さんの祠がありました。

暑い時期の物語。最初のページから、五感をじわじわ包みこむような、肌に近い表現や描写が続きます。死んでしまったじいちゃんが育てていた野菜がいま真夏の畑で鈴なり、という下りにはっとさせられました。物語序盤のこの鮮烈な「はっ」が、おおぎやなぎちか作品という感じがします。

主人公の真は明るく素直な少年で、そのまっすぐな性格に先導されて、シリアスなシーンでも安心して読めました。その一方で、ページの最後までつきまとっていた喪失感のような切なさは、いったい何だったのでしょう。喪失感は子ども時代につきものなのだろう、と読み終えて思いました。変化し続けることは、失い続けることと同じなのかも。順矢は森でじっと力をたくわえ、脱皮していたのでしょう。われわれ大人の変化がへび式(いいトコ新陳代謝)なら、順矢の脱皮はセミ式(羽化であり変態)です。「ぼくらは森でうしない、森で生まれかわった」ーーということなのかもしれません。

そして、読めども待てども、河童が出てきそうで出てこない笑。ふしぎを語る話ではないのですが、いつも、森の沼から、ぞろ、と見られている気がする読み味もまた楽しいのです。

縁は目に見えるものではなく、人と人の間にふわ、とただようもの。あると思えばあるし、ないと思えば存在すらしない。「いるかいないかわからないのに存在感たっぷり」の河童と同じようなものかもしれません。かっちゃんのお決まりの台詞(ふしぎで、意味深)、順矢の逃避、真の小さな嘘……ばらばらだった一つ一つの要素、それぞれの変化、細い縁があつまり綯われて、お話の最後には、一本の太いロープになります。

子どもたちに、「また世界に繰り出していけ」と伝える作者のメッセージが力強く、暖かいです。背中を押すというより、手を添えてくれるようなラストでした。

読み返したくなる一作。

そういえば、作中に「蚊帳」が出てくるのですが、昔、奈良の祖母のうちで蚊帳を吊ってもらったことを思い出しました。以前、地元市川市の考古・歴史博物館に行ったら、昭和の昔暮らしをテーマにした特別展で、蚊帳が展示されていました。現実の岩手の子どもにとっては、それくらいに遠い存在なのだろうと、リアリティを感じた下りでした。

今年はホタルみにいこう。

クワガタトラップたのしそうだなあ。


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