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酒井家と黒川能

500年も続いている黒川能
戦国時代や明治維新そして第二次世界大戦と数々の存続の危機があったそうです

弱体化した黒川能は庄内藩酒井家の庇護を受けます

酒井家が黒川能とどのように関わりがあったのか
*諸説あります

酒井藩庄内入部

元和8年(1622)初代庄内藩主酒井忠勝が庄内に入部する

<徳川家康が能を好んだことからいずれの藩も能役者を抱えており酒井家にもお抱えの能役者がいました
家臣から謡本や面を賜っていたことから忠勝は黒川能の存在を知っていたとされる>

少しそれて横道話
徳川家康は人質として預けられていた頃から能に親しみ稽古を受けたそう
家康以降歴代将軍は幼少から能の稽古を受け自ら舞い
江戸時代に能は幕府の式楽となった
忠勝は家康にとって義理の叔父である忠次の孫にあたる
(家康のドラマやってますねそれにも出てるらしい忠勝)

転機

元禄2年(1689) 庄内藩酒井家より上覧能の打診が届く
(上覧能…江戸時代に幕府藩主などの前で能を舞うことがあった
その他に上覧相撲などもある)

この頃は庶民の生活が困窮していたこともあり
氏子たちは城に行く際の衣服すらままならない状態だった
黒川は現状を
「能役者は60人能は10番ほど狂言を演じる人はいない」と正直に伝えて上覧能にあたって費用などの借用をお願いした
酒井家は支度金を用立てて上覧能の実現を支援する
後に上覧能についての正式に知らせが届く
式三番叟と能7番そして狂言は鶴岡の町人が務めることとなった

翌年王祇祭が行われた後役者たちはすぐに稽古に励んだ
その様子を見にきた酒井家お抱えの能役者は
「観世にも劣りなし」と高く評価し上覧能に値すると藩主に伝えた

上覧能へ

元禄3年(1690)
城の中に舞台が据えられ
4代藩主酒井忠真の御前で1日がかりでの演能が行われた

上覧後酒井藩から米百俵や能の諸道具などが贈られた

これ以降新しい藩主のお国入りの際に催され
元治2年(1856)まで10回ほど行われている
その度に装束や諸道具などが贈られた

回復

上覧により広く知られた黒川能は依頼を受けたりなどあちこちで演能や
奉行所の許可を得て自主公演を行っていた

初代藩主酒井忠勝が進めた新田開発による米の収穫も増し
黒川能と黒川は共に豊かになっていく

その時代の風潮に乗り

<開帳能・サシ囃子・座囃子>

という形式で演能興行が盛んになった

【開帳能: 宝物の御尊面4面や装束(光狩衣.蜀紅狩衣)などを開帳しての演能】

【サシ囃子: 謡のサシ(前方を指すサシをしながら前に出る型で能や狂言の型の1つ)の部分からの演能】

【座囃子: 能の曲の中の舞所だけを装束を着けずに演じる(現在の舞囃子)】

元禄2年(1689)で演能できる番組数は10番ほどだったものが

文政2年(1819)では60番足らず

明治32年(1899)には239番で
上座と下座で分配し上座121番・下座118番

能は上座と下座は同じ番組を演じることはなく

狂言は40番ほどを上座と下座で同じ番組を演じている

江戸後期から明治時代にかけて演じる演目数が増えていった

装束と道具

現在黒川に所蔵されている装束は室町期のものから酒井家から贈られたもの上・下両座合わせて500点以上あり
県指定の装束21点のほとんどが酒井家から贈られたもの
面も室町時代から酒井藩に賜ったもの狂言面を合わせ300点以上
謡本も酒井藩からの版木本や手書き本が残り
番組は500番残っている

現在につながる

江戸時代から明治時代になり酒井藩の庇護はなくなったものの

昭和には東京観世能楽堂や京都金剛能楽堂に国立劇場
平成に入りアメリカやフランスでの公演も行い
大正から平成にかけて4回の皇室御前能
県内外そして海外でも公演を行う

王祇祭は毎年欠かさず行われていたものの
新型コロナウイルスの流行により2年行われなかった
500年以上続く神事が中止されたのは記録上初のこと

調べてみて

黒川能が庇護を受けていたことを最近になって知りまして
というのはですね
2022年で酒井家庄内入部400年だったんです
そのタイミングですええ
庄内藩が酒井家というのもその時に知りました

黒川能の存続自体危ぶまれた時代に酒井家がいなければ今どうなっていたのだろうと思います

各藩にお抱えの能役者がいたのも徳川家康が能を好んでいたのも知りませんでした

昨年のうちに書けていればよかったのかもしれない

最後までお付き合いいただきありがとうございます
締めの文章にあーでもないこーでもないと書いては消すを繰り返し
結局なにも思い浮かばずにこのようになりました

2回続けて黒川能に関することを書いたので
次回は鶴岡市の何かを挟んでいこうと思います

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