見出し画像

準備できてないと諦めますか? ホントは「諦め」も「準備」も必要ない。

「諦めるって逆に難しい」
諦められている人は、この記事を開かないと思います。
これを開いた人は、諦めきれない何かがある人ではないかと思います。
ですが実は「諦める」も「準備」も必要ないのではないでしょうか?


「今すぐやる」という情報が溢れかえる社会

 2億61000万件
 これは、Gooleで「今すぐやる」で調べた件数です。
 アマゾンの書籍でも、書店の自己啓発本コーナーでも、なんならこのNoteの検索でもいいです。調べれば調べるだけ、「今すぐやる」為の情報とか、それを勧める記事はいくらでも見つかります。

 ちゃんとした実体験をふまえて真心で書かれた本もありますし、ちゃんと科学的に生活に落とし込んでいる実践的な本もたくさんあります。その中には私も気に入った本があったりします。

 それは私たちに示唆もくれますが、プレッシャーでもあります。

 あれかこれやと移り気に「今すぐやらないと!」となって、手を広げてたくさんの荷物を持とうとした挙句に、それを取りこぼして壊してしまったり、挙句に転げて体を壊したりしてしまったり。そして最後には、「こんなことはやめておけばよかった」と後悔する。そういう怖さもあります。

 たとえば、古代ローマの皇帝ネロの家庭教師としても知られる、政治家であり哲学者のルキウス・セネカは、そういった人たちのことを「自分の意志からではなく羞恥心から自己欺瞞を続けている者たち」と呼び、以下のように述べます。

 生の状況をしょっちゅう改めようとし続けた挙句、最後には、変革への嫌悪からではなく変化に二の足を踏む老齢から立ち止まり、そこから動かなくなってしまうのである。さらに、さほど移り気ではないが、その一貫性が恒心のゆえではなく、懶惰のせいであり、自分の意欲するとおりの生を送るのではなく、始めたとおりの生を送る者も、この範疇に加えるとよい。症例を次々に数え上げればきりがないが、この病態の結果は一つである。自己に対する不満がそれだ。

セネカ. 生の短さについて 他二篇 (岩波文庫) (p.60). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

 セネカはかなりの現実主義者なのでこんなことを言うわけですが、しかしなるほど身に覚えのない話でもない気がします。こういう経験をいっさいしたことがない人というのも、そうはいないでしょう。

 

大事なのは背伸びをしない Not 身の丈を考える

セネカはさらにこう言います。

 実現不可能なもの、実現可能であっても困難なものは断念し、身近にあり、われわれの期待に望みをもたせてくれるものを追い求めるようにしよう。ただし、すべてのものは、外見は種々の様相を見せはするものの、内実は等しく虚しいものであり、由ないものであることを知っておかねばならない。

セネカ. 生の短さについて 他二篇 (岩波文庫)

 なるほど。あまり夢を見るな、と言っているようにも見えます。
 私は半分ほどは同意しますが、もう半分はちょっと納得いかない。
 つまり、半信半疑です。
 誰だって、希望に期待したいものです。

 似た言葉ですが、少し違うニュアンス、つまり希望をもった言葉として、こういうものもあります。

神よ
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

ラインホールド・ニーバーの祈りの言葉

 どちらかという、私はこういった言い方のほうが、ポジティブで好きですね。先ほどのセネカの言葉は、受け入れる冷静さに重点を置くものですが、こちらの言葉は変えることのできるものをちゃんと識別して、変えることができるのなら、それに勇気をもって臨もうというニュアンスがあるります。

 ただ、もちろんセネカもただ現実を追認して身の丈を弁えろと言っているわけではありません。セネカは、変えることのできるかどうかなんて、そう簡単にわかるものではない。できると直感してやるのは賢者でないとできない、とそのようなことを言ってます。

本当に大切なこと、それは自分の気持ち=志を大事にすること

なんとも夢のある言葉ですが、そんなこと本当にできるのか? 結局それって綺麗ごとなのではないか? そういう見方もあるでしょう。

確かに綺麗ごとではありますが、現実論でもあります。
リアリストだったはずのセネカは、そういった運命に負けて志を放棄することに対してこうも述べています。

 運命が優勢となり、行動の機会を断ち切ったからといって、即座に武器を投げ捨て、あたかも運命が追跡できない場所があるかのごとく、潜伏場所を求めて背走するようなことはすべきではない。義務的な仕事に精力を注ぐのを控えめにして、なすべき仕事を選択したあと、国家に役立てる何かを見つけ出すべきなのである。兵役に就くことが許されないのか。公職を求めればよい。私人の立場で生活しなければならないのか。弁論家になればよい。沈黙が命じられているのか。物言わぬ支援で同胞を助ければよい。中央広場に足を踏み入れることさえ危険なのか。家で、見世物で、宴会で、善き仲間、忠実な友人、慎み深い宴客の役割を演じればよい。市民としての義務を(果たす市民権を)喪失したのか。人間としての義務を実践すればよい。

セネカ. 生の短さについて 他二篇 (岩波文庫)

 なんとも力強い言葉です。勇ましく心を奮い立たされます。
 なにか願望を持つ、つまり希望を持つのなら、かならずできることが現実論としてあるし、やらねばならないとアドバイスするわけです。またセネカはその志を国家に還元しますが、別にそうでない場合でも何も変わることはないのかなと思います。

そしてセネカはこう続けます。

 君は執政官か、政務長官か、全権特使か、総監のような存在でなければ国政に関わりたくない、などと言っているからである。
 最高指揮官や軍団副官でなければ兵役に就きたくないとすれば、どうだろう。たとえ他の人たちが最前線を占め、たまたま君が第三線の一員として配置されたとしても、君はその第三線から叫び声で、激励の言葉で、率先垂範で、勇敢さで戦うべきだ。両手を切り落とされても、なおも踏みとどまり、叫び声で加勢しようとする者は、戦闘の中で味方に寄与できる自分の役割を見出したことになる。君も何かそのようなことをすべきなのである。

セネカ. 生の短さについて 他二篇 (岩波文庫)

 自分が〇〇だったなら~というのは、思ってはいけないと知っていても、ついつい言葉にでてしまうときもあります。
 親がお金持ちなら~とか、大学にさえいければ~、というようなタラればの話は、たとえそれ事実であったとしても寂しいものです。
 運命を呪うのもいいかもしれませんが、仮に運命を呪うにしても、何かしらに取り組んでいる最中にしたいものです。
 別にセネカも出世しろとか、結果を残せといっているわけではありません。ありていに言えば「ベストを尽くせ」と言っているわけです。そして同時に、別になんでもかんでも夢を追いかけろといっているわけでもない、むしろ身の丈に合わないことはするなと言っているぐらいです。しかし、同時に自分のしたいことが”一切何もできない状態”なんて、現実には存在しないとも言っているわけです。
    小説家になりないと思うなら、とりあえず小説を書いてみることは誰でもできる。芸人になりたいと思うなら、スマホで漫才のひとつも撮ってみる。仕事で忙しいなら、べつにひとつの作品に一年二年かかってもいい。そういう見方も可能な気がします。

またこれは、単なる精神論でもありません。

やる気というものは、科学的に存在しない

やるからやらないかは、やる気の問題などとパワハラ気質に言われることもありますが、それは科学的に以下のように言えるそうです。
東京大学の大脳生理学研究者である池谷裕二 教授の言葉です。

いいですか、「やる気」という言葉は、「やる気」のない人間によって創作された虚構なんですよ。今からそれを説明していきますね。

人間は、行動を起こすから「やる気」が出てくる生き物なんです。
仕事、勉強、家事などのやらないといけないことは、最初は面倒でも、やりはじめると気分がノッてきて作業がはかどる。そうした行動の結果を「やる気」が出たから…と考えているだけなんですよ。

東京大学 大脳生理学研究者 教授 池谷裕二

そして、最後にここまでのまとめをセネカの言葉を借りてしたいと思います。

いかに大きな部分が閉ざされようと、それ以上に大きな部分が残されていないことは決してない。

セネカ. 生の短さについて 他二篇 (岩波文庫)

ご購読ありがとうございます。

「確かに!」とか「面白いかも!」と思った人は、ぜひ下の「♡」をプッシュお願いします!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?