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生理前の破壊衝動と「怒り」の表現について

はじめに

いつも、日記なんて書いてどうなるんだ?と思うことがあるけれど私はなぜか文章を書くのが好きでよく色んなメモをしている。そんな癖は幼少期からで、たくさんの紙のノートを貯めていた。

いろいろなアイデアもメモも全て燃やした。燃やすたびに『書くのは意味がないんだろうか』と思ってしまうが、今思えばそんなこともないんだなと思う。いつかまたやろう。今度はちゃんとしよう、とか思いながら嫌なものを溜めてしまうのだった。

誰かに伝えたいというよりは、私は自分のことを知るのが大好きで、それを分析することに人生を費やしている気さえする。でも思うにそれが自分を幸せにすることであり、自分の人生を生きる意味なのだと思う。

子供時代

今日は仕事納めの金曜日だった。そろそろ令和一年が終わる。今日は税務署に行ってきたんだけど、バスに乗っている時に後ろの席に子供が乗っていてなんて言ったかは忘れたんだけど、とっても可愛らしいことを言っていた。

バスの窓から私は国立競技場の日に照らされて強風に揺れる銀杏並木を眺めていた。その子供の何気ない一言を聞いた時、私は「もう一度、小さい頃からやり直してもいいかもしれない」と思った。こんなことを思うことは少ない。

私は子供時代が嫌いだった。とっても嫌なことが多かった記憶がある。というか「どうでもいい」ことが多かった。客観的に見れば小さい頃から私はとっても恵まれていた。勉強も運動もできて、親もお金があったし、服もいつも輸入してセレクトされた珍しいものを着ていた。習い事もたくさん行った。ピアノがものすごく下手だったんだけど、他のことはだいたいなんでもこなせた。でもつまらなかった。『こんなに恵まれている私でさえ辛いこの人生はなんなんだ』と思っていた。むしろ、幼少期から"客観性"というものが人生の憂鬱を加速させていた。

女の生理前はやばい

今日から平野啓一郎さんの『マチネの終わりに』という本を読み始めた。小説を手に取ることは滅多にないので前回日本語の小説を読んだのは2011年の村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』が最後かもしれない。その本の最初の方で印象的に書かれているのが”過去は全て未来自分自身の考え方で変わる。”っていう言葉だった。正直、今が良ければ過去の痛ましい思い出とかいうものは、どうでもいいように感じてしまう。ゴキゲンなときはなんでもどうでもいいのだ。逆に、お怒りモードの時は小さいことでさえイラッとくる。

女性は生理前の時はこの「お怒りモードスイッチ」がオンになるので小さいことで”血が沸騰するような気持ちになる”ことを理解できると思う。私も今でも小さなことで「血が沸いてくる」ほどイラつくことがある。それは高いケーキが美味しくなかった時とか、人がむやみやたらに下手に出る行動とか、証拠もないのにこれは正しいと言ってくる時とか、そんな些細なことにも血が湧くのがわかる。

"怒り"を詳細に説明する

『怒り』を言葉で表現するとしたらこめかみの上が暑くなって、血が集まる。目が血走るんじゃないかってくらい集まる気がする。一方で体は冷たくなって、胸のあたりに冷や汗を感じて、首の後ろが硬直する。そして怒りで手が震える。そして私はそんな小さなことで怒る自分が悲しくて、虚しくて、涙が出そうになる。これが私の『怒り』だ。

これは他の人もそうなのかもしれないけど私は「悲しみ」と「怒り」がすごく近いところにあるので、混ざってしまう傾向にある。

青春の時期はそのコントロールが大変だった。血が湧きまくって破壊衝動に駆られた。自殺願望まみれだったから自分を殴る癖がついた。これは客観的に見ておバカさんに見えたから笑えた。そうして気をそらすことができた。感情が抑えられなくて涙が止まらない時は泣いている自分の鏡を見て、「泣いてる顔ってブッサイクだな」とか「今日は可愛いな」とか思って落ち着く。これを繰り返していた。

今は目の前にあるものを壊したいって思う。でも片付けるのがめんどくさいし、痛みを与えた分、自分も与えられるだろうから嫌だなって思うので10秒くらいで世界は平和に戻る。そして冷静な世界に戻って「私は疲れてるのか、生理前なのか?」と考える。もし「生理前ホルモン」とかが発売されて、テロリストの女性たちに打ったりしたら女性はみんな殺人鬼になると思う。

今日はここまで。