「ことば・人・社会・生きる」のかなたにみえるもの


敗戦国という歴史を担いながら、ドイツ同様世界経済を牽引する大国になった日本において、政治・経済は勿論のこと教育面でも、過去少なからぬドイツ通を育ててきた。しかしこのドイツに長年住み、ドイツと日本の架け橋を夢見て仕事をしてきたわたしは、いまだにドイツがどんな国なのか一言で表現できないまま、日々の暮らしを驚きをもっておくっている。いやむしろ日々の暮らしと闘っているというべきだろう。
ドイツの公立中等教育機関であるギムナジウム(日本の小学校5年生から高校3年生まで9年間の一貫教育機関)で教鞭をとっていたときに感じたことを述べてみたい。

5年生の入学時には1学年168名いた生徒が、卒業できるのは時には半分にも満たないことがある。成績が悪く、他校に移らざるをえなかったか、進学をあきらめた生徒が消えている。受験戦争がないかわりに、卒業することが難しいのは大学に限らず、ギムナジウムでも然りである。
ドイツの教育の基本的な考え方は、子供の個性と潜在能力をひきだし大切に育てることである。このことがドイツの教育制度の複雑さにもよく表れている。小学校4年生を修了すると子供はすでに将来を見据えた学校選びを強いられる。大学に進学を希望する者はギムナジウムに、親の職業を継ぎ専門職につく子供は基幹学校(6年間)、職業訓練をうけて早く就職を願うものは実科学校(8年間)に進学する。いわば小学校4年生の段階でふるいにかけられるのである。親の希望だけでは学校は選択できず、子供の適性・能力を教師と親が相談したうえでの学校選びである。そのための塾もなければ家庭教師もない。

「あなたのお仕事は?」とよくドイツ人に聞かれるが、今どこで働いているかではなく、どのような職業訓練を受けてきたかということが問われているのである。
いずれの学校にあっても子供たちは闘うことを学ぶ。換言すれば議論に勝つ、理屈を通すことを学ぶ。自分を主張できる子供を育てるために、家庭でも学校でもとにかく自分の意見を発表することを訓練する。その場合は理論だてて説明ができ、聞き手を納得させなければならない。その議論に伴うのは批判・批評であり、この批判や批評に賛意を得られなければならない。ギムナジウムの高学年の試験は学科を問わず3時間から4時間におよぶ論文形式で、カンニングは無意味である。自分の意見をしっかりもち相手に伝えることの重要性はヒットラーの政権下で何もできず世界的な悲劇を許した歴史の反省からきている。
そんな中、教科書の歴史問題が取りざたされているが、わたしには、とうてい日本の対応が理解できない。史実は国も国民も背負い、再び同じ過ちを犯さないために民間レベルでも、勿論、専門家のあいだでも徹底的に論議されてきた。「ドイツ人ときくと必ずヒットラーを持ち出され辛い」ともらしたドイツ人の友人を思い出す。ドイツでは第三帝国の史実を学年をわけてとりあげることが学習要綱に盛り込まれている。低学年のときは史実を、高学年では、ヒットラー政権下の政府の攻略を分析し議論する。
わたしは、日本の中学・高校で第2次世界大戦を客観的歴史事実として学んだ記憶がない。毎年8月になると日本では広島・長崎の原爆の記念式典が催されるが、この結末を生んだ日本政府、社会の責任を議論する声はあまり聞こえてこないのが不思議だ。歴史は負であっても我々の共有財産である。被害者、加害者を問わず心の痛みはあるはずだが、この痛みを教育現場で次世代に伝え、史実を客観視し、隣国と共有し、共生していこうという姿勢に足枷があってはならない。今ドイツをはじめヨーロッパでは報道番組はリアルタイムで、また種々様々な番組を見ることができるようになったが、今犯罪は低学年化しているという。しかし若者の本音、叫びが聞こえてこないことに大きな危惧を感じている。同じ言葉で会話できない現象に警告を発している専門家がどれだけいるだろうか。
異文化は実は国家間に存在するものではなく、国を問わず、言語を問わず、年齢を問わず、実は個人間に潜在するものではないかと最近感じるようになってきた。
同じ日本語で話していても、その人のもつことばの背景により、意味合いがまったく違い、とんでもない誤解を生むことを痛みととももに経験することがある。

したがって、自分の生きざまは年々孤立化してくる。他と果たして自分の想いなど共有することができるのか。自問自答の繰り返しだ。しかし未熟な自分を支えてくれた家族な友人、先輩など恩人がどれほどいるか。ほとんどは感謝も言葉も伝えられずに今日に至っている。私の人生は実は自分だけのものではないと、感じることがある。
次世代に、後世に、何かを残すために生かされてきたのだと、自分の中の自分が叫ぶ。

人生の最終章かと思えるこの年になり、あらためて自分の居場所を探し、そして自分の未来を考える昨今である
まるでまだ何も見えず不安いっぱいの思春期の私がここにいる。
果てしのない自分探しの道を歩みだし、自分との闘いの日がまた始まった。

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