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鼓動の風景へ

はじめに
この小説は少し長い小説なので、少しでも皆さまに読んで頂きたいということで、期間限定ですが、無料で印刷をして送付します。ご興味がある方は下記のアドレスへ連絡をしてください。
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あらすじのようなもの
ある男がサーカスに拾われたところから小説が始まる。ある男が見た夢から、19世紀末のヨーロッパの蚕の疫病を経由して、二足歩行のウサギの輸入を通じた明治時代の横浜の貿易商の元老の出会い、さらに2050年代の野菜工場で働く若者までの人々の生活を描く。二足歩行のウサギによって生と死、夢と現実は入り混じる。


            Ⅰ

 私は真暗闇の中にいた。体の奥の、そのまた奥から、こちらへ向かって音が聞こえる。

それは私の内側で数百頭の馬が駆けだしてくるような音だった。音に意識を集中させると心臓の鼓動音だ。私は生きている。

目を開けると灰色の雲が視界いっぱいに広がっていた。右向きに寝返りを打って海を眺める。波は高く荒れ、強風で波の泡が宙を舞う。だが、不思議なことに波の音は聞こえなかった。起き上がって周囲を見回すと、湾曲している砂浜の一番奥にある場所で寝ていたようだった。後ろを振り返ると砂浜に沿って道路がはしっており、道路から海に向かってなだらかな坂になっている。道には誰も歩いておらず、周囲には建物も建っていない。それどころか、砂浜には生物の気配すら感じない。波の音もしなかった。再び海の方を見ると、岬の先端に建てられた灯台は厚い雲に向かって光の輪を描いている。この無機質な光だけが、この入江に生命の存在を感じさせる。

私は自分の格好を点検してみると、白いシャツの上に灰色のコートを着て、ベージュのズボンを履いていた。シャツの上から横腹を摩ると肋骨が浮き出て、指が骨の隙間に入る。自分の存在を確認するように顔をなで、指で鼻を挟むと鼻梁が高く張っておりカモメのくちばしを思わせた。

私の前歴は私も知らない。

 遠くの方で薄く轟音が聞こえた。音の方へ眼をやると共に灯台のあたりから、こちらへ砂嵐が向かってくる。砂嵐はあまりにも大きく、竜巻のように地面から天に繋がっている。 

空から剥がれ落ちた雲が砂のように細かく砕けて地面に落下したのか、あるいは浜辺から砂が空へ吸い取られているのか、砂の柱はそうした途方もないことを考えるほどに巨大だった。砂嵐はスピードを上げてだんだんこちらへ近づいてくるにつれて、地鳴りのような音も大きくなる。 

砂埃の合間から馬の足が姿を現した。嵐は馬車が引き起こしたものだった。砂嵐を起こせるほど馬の脚力は強いのか。砂嵐は馬車の一団に姿を変えてこちらへ向かってくる。私が座っている数十メートルのところで荷馬車が止まった。馬の息は上がり、体からは湯気が出ていた。荷台からは二十名ほどの男女が次々と飛び降りた。子供から大人まで年代は幅広かったが、共通しているのは瞼が痩せており、顔色が悪かった。彼らは荷台から砂浜へ木箱や跳ね回る小猿が飼われている檻や紅白の縞模様に塗られた大玉などを手際良く荷物を下ろし始めた。

荷ほどきの指図しているのは男物の白いシャツに灰色のズボンを履いた女だった。女の年齢は二十代の半ばくらいで、タンスの中の防虫剤の臭いのように、どこか懐かしさを感じさせる美しい顔立ちで、服を作るときに使う長い竹製の物差しを首の下に置いたように肩幅が広い。長い腕を振り回しながら行う彼女の指示は簡潔で的確だったが、その話しぶりは気持ちが入っておらずどこか投げやりな印象を受けた。

荷物を荷台から下ろし終えると、彼女は緑の木箱から麻布を取り出して広げ始めた。麻布は全体的に黄ばんでおり、所々に補修の跡があった。彼女は周囲にいる者たちに布の角を持つように指示をする。彼女が広げた麻布は八角形になっており、八人の者たちがそれぞれの角の部分を持って、よぉーし、よぉーし。彼らは互いに声を掛けつつ、後ろに歩きながら布を引っ張った。中心部分に木の棒を立てて布を立ち上げようとして、張られた布の下に彼女は潜った。

坊主頭の男が私に気が付いた。こんなところで座っているなよ、早くどけよ!テントが立てられないじゃないか!男は侏儒で、半そでの丸首シャツに、裾を折り曲げてもだぶだぶのズボンを吊って履いている。男は着ているシャツが破れそうなほど筋肉がついていた。 

男に言われても、私は黙って座った姿勢を崩さなかった。その姿を見て男は銅板に爪を立てたような奇声を上げた。その声は周囲にいる者たちへ背骨に針を打たれたような寒気を与えるものだった。坊主頭の男が私の上半身を持ち上げ肩に担ぐと視界は上下さかさまになって、男の靴が私の頭上に見えた。それでも、私は抵抗をしなかった。坊主頭の男は馬車の端の方にほっぽらかされている錆びた動物用の檻を開け、その中へ私をぶちこみ、外から閂をかけて、テントから離れた場所に檻を転がした。その衝撃で砂に床面がめり込んだ。坊主頭の男はそれで満足したのか、また布の角を掴みテントを張る準備へ戻ると、周囲の者たちはテント張りの作業を再開した。立ち上がると檻に頭をぶつかるので、私は体育座りのように膝を丸め、彼らがテントを張る様子を黙って見ていた。

日が落ちると、テント内部に囲むように吊り下げられたランタンによって、テントそのものがランプのように発光した。このテントの光に吸い寄せられるように、昼間は隠れていた観客たちが浜辺に集まり始め、入り口に列をなした。日が落ちると海風が強まり、周囲は冷え込んだが、彼らの体温と吐く息でテントの周囲には湯気が登り、炎に照らされた列に並んだ男の背中には汗の染みが黒く見える。テントの入口には看板が置かれ、空中ブランコを行っている猿が大きく描かれたポスターが貼られている。看板の横に立って、黒い帽子を被った男が今日の演目をしゃがれた声で早口でがなりたてた。彼はこのサーカスの団長のようだった。

ドラムの音が小刻みに鳴り、最後に銅鑼が打ち鳴らされて、サーカスは開幕したようだった。檻からでも観客の歓声が聞こえたが、テントには目もくれずに私はひたすら海を眺めていた。プランクトンの影響で海水は緑色に発光している。光は波の動きに合わせて揺らめいている。揺らぎは同じように見えるが、一度も同じ波は現れない。このわずかであるが決定的な違いが、光を月に照らされたクラゲのようにも、ガスの青い炎のようにも見え方をまちまちに変化させる。 

波を見ているうちに、私は光に直接触れたい、飛び込んで体全体を光にまみれたいと体の内が沸騰して切なくなる。肩を打撲させないように左手で右肩かばうようにしながら、勢いをつけて体を檻の右側に傾けて倒すと倒れた檻の棒が目の前を平行に横切る。私は両手で鉄棒を握り、腕立て伏せをするような案配で棒に体の全ての体重を掛ける。棒は太ももが抜けられるほどまで窪んで歪んだ。こうして驚くほど簡単に檻を抜け出せたが、ずっと膝を折っていたので、関節が固まってしまい、うまく歩けない。後ろを振り返ると砂浜には足が長すぎて絡まったクモのような足跡がのたうっていた。

翌朝も砂浜一帯の空に雲が張り付き空気は空へ抜けず淀んでいた。

私はどこにも行く場所がなかったので、檻から抜け出しても、昨日と同じ砂浜の奥の場所にいて、テントの方を眺めていた。坊主頭の男はテントから抜けて、私が抜けた檻を見ていると、こちらに気が付いて、何やら奇声を発して、砂に足を取られて何度も転びながらも、ちぎれそうなほどの勢いで腕を振って駆け寄ってくる。私は殴られると感じて走り出そうとしたが、ずっと膝下を折っていたので、足が痺れて立ちあがれない。男は私の袖口を握るやいなや、サーカスの団長のところへ来いと甲高い声で喚いた。彼に言われるがまま、私は団長会うことになった。

誰も居ないテントの客席の真ん中には胡坐をかいている白髪の貧相な老人がいた。老人の髪の毛と眉は右側だけ石油のように黒く、そこだけ昨日の面影を残していた。団長は私をサーカスに入団させた。私は他の場所へ行くあてはなかったので、彼の言うことに素直に従ったのだ。

数か月後には、テントの入口に置かれたポスターは空中ブランコをする猿から、私が箱の上に立っているものへ変わった。

私が舞台に登場すると客席からは悲鳴を押し殺した溜息が聞こえる。私が千の目玉に見られている間に、肩幅の広い女は緑のシダの葉が描かれた赤い木箱を持ってきた。私は箱の側面を開けて中に入ると女が扉を閉めて、扉の四隅をくぎで打ちつけ、その上から鎖を何重にも巻きつけて南京錠を掛けた。

錠を掛けると坊主頭の男が車輪のついた背の高い黒い布がかけられた鉄棒を舞台の中央へ引っ張り木箱を隠す。ドラムロールがなり、黒い布の前に立った団長が声を張り上げて、数字を数えた。1、2、3、4、5。団長は6からは観客も手を振り回して一緒に数えるように煽った。6、7、8、9、10。女が握った布を引いた。布が床に落ちる。私は木箱の上に立ち上がり、大波が押し寄せたような拍手を全身で受けた。


次の公演場所へ移動をする時に、私は荷馬車から煙草を吸いながら、景色を眺めるのが好きだった。馬車の速度に身を任せて風景を見ていると、自分の輪郭が溶けて、この世界に溶けていくような安らかな気持ちになる。テントの布が入っている木箱に腰掛けて、海岸沿いの蜜柑畑を眺めていると、私の側に猫のようにそっと肩幅が広い女がやってきた。黙ったまま、並んだ状態で海岸を眺めているうちに景色を共有する嬉しさで体が温まってくる。馬車は海岸線の道を内陸の方へ曲がり、山岳地帯へと向かった。次の興行は炭鉱がある山間の町で行われるのだ。

山道に入り、道がだんだんと悪くなり、車輪が道の窪みにあたって、その都度、車体が大きく軋む。そのたびに女の物差しのように広い肩が強く私に当たった。肩幅の広い女は、私に肩がぶつかっても、位置を変えようとはしない。女は突然言った。ぶつかっても嫌じゃないの?彼女は切れ長の目で私を見つめた、いや、痛みを感じないんだよ、関節が柔らかいから。そう。私は鉄製のケースから紙巻の煙草を2本だして、私が腰かけている木箱でマッチ棒を擦って、一本を煙草に火をつけて彼女に渡した。ありがとう。私たちは荷台から上半身を乗り出して煙草を吸った。彼女を見ると、煙草を挟んだ指は伸びていた。

登りが続いた道は下り坂に入った。坂の底には川が流れている。川の表面には水泡が沸き上がり、ある大きさまで膨らむと震えて表面に映る太陽と共に弾けた。川からは冷たい風が吹き上げて、私たちが吐き出した煙草の煙は縦に登った。二本の煙は気流の関係でまっすぐ進むかと思えば、後ろへ戻ったり、蛇のとぐろを巻いたりして、ミミズのように空にのたうちまわる。馬車が長いトンネルに入った時に、煙は消えた。闇。

長いトンネルを抜けると女は言った。今日行くところはあそこにある村でしょう?彼女が指差す方を見ると山に建物が牡蠣のように張り付いていた。

それから三十分ほど走って村の入口に着くと、私は馬車の荷台から降りて、空を見上げた。大気圏に近いせいか、色は青が濃く紫に近い。村は特殊な作りをしていて、鉱夫用の五階建の集合住宅が村を取り囲み、街道から村の中心に入る道は馬車が入れないほど狭い。

小柄なアジア人がこちらへ走ってきた。挨拶をすると馬と言う名の中国人でサーカスを呼んだ鉱山会社の社員だった。馬の顔にはしわが一つなく、個々のパーツが小さい。彼の姿は物事を知りすぎた子供のようにも、何も物事を知らない老人のようにも見えた。この街の作りは複雑で迷路のようなので、彼が先導して会場まで連れていくのだという。私も他の団員と一緒になって、馬の後を追って荷物を積み込んだ台車を押した。

馬が言うように、村の内部は迷宮のようだった。なにしろ村へ入る道からして建物の隙間なのだ。隙間を入ると血管のように薄暗い道は分岐し絡み合っている、馬は一つ目の分岐は右側、二つ目の分岐は真ん中と口で案内をしながら、早足で駆け抜ける。しなびた野菜が山積みになっている八百屋と床屋の間にある細い下り坂を突き当たると視界が広がる。そこが今日の会場の広場だった。ポケットに入れている時計を見ると、驚くべきことに、村の入口から5分程度しかたっていなかった。

何でこの村はこんなつくりをしているんだよ。人を惑わすために作ったのか。何往復も台車を押している坊主頭の男が不満気に呟くと、先導をしていた馬が振り返り、甲高い声で不思議な抑揚をつけて説明をした。この村の鉱山は大資本家が開発した鉱山ではなく、小さい業者たちが集まってそれぞれの坑道を見つけて開発されたものです。そのようにバラバラに集まってきた人たちが争いをせずに建物を建てるにはどうしたら良いか分かりますが?

この男の問いには誰も答えられなかった。私たちの沈黙に満足したかのように、彼はゆっくり話した。

それは自分が好きなように建物を建てることなのです。そう、この土地には手つかずの広大な土地があります。各々の人たちが思いのまま自由に作れば、あるところまで達すれば調和がとれる。普通は道に合わせて建物はつくられるものだが、この村は建物に合わせて道が勝手にできる。この村ではいがみ合いが道を作り、愛情が広場になるのです。


翌朝は背中の痛みで私は目を覚ました。サーカスでは、団長から小猿まで一緒にテントの中にマットを敷いて寝起きをする。テントから出ると広場には靄がかかっていた。この地域では春先になると寒暖差の影響で昼前までは村全体に靄がかかるのだという。陽の光が靄の中を揺らぎながら私にまとわりつく。

サイレンの音が村中に鳴り響いた。七時か、私はサイレンのことを馬から聞いていたので、特に驚きは無かった。この音は鉱山の夜勤が終わったことを示す合図なのだ。サイレンが終わると、地下深くから地上へ出る鉱夫たちの足音が鉱道を通じて村へ噴き上がってくる。

目の前には交代する昼勤の鉱員たちは鉱山へ向かうため、広場の中を横切っていた。歩いている鉱員たちは揃いのカーキ色のズボンと麻のシャツを着ており、彼らの何百本の足が踏み鳴らす足音は、私には聞いたこともない外国の言葉に聞こえた。足音で会話をする国に迷い込んだのかもしれない。そう思うと嬉しくなる。

何を笑っているの?テントから出てきた女は笑いながら言った。横には坊主頭の男も立っていた。これから舞台用の靴を馬車に取りにいくの、あなたも行くでしょう。女の甘い声には有無を言わせぬ迫力があった。ああ、3人で馬車へ行くために路地へ向かった。朝の霧を吸い込んだ広場の土は昨日よりもふくよかだった。

交替の時刻が近づくにつれて、鉱山から出てくる鉱員たちの足音が広場に響いた。じゃがだら、じゃがだら、じゃりこ、じゃるこ。そこに、鉱員の妻たちが開け閉めするドアの音まで入ってきた。じゃがだら、じゃがだら、バンバン。上機嫌な音楽を聴いているような気持ちがする。音の陽気さも重なって、このまま三人で海にでも遊びに行くようになり、気持ちが弾む。

肩幅の広い女は小さく叫んだ。あっ、猫だ。

どこにいるんだ?霧で良く見えないよ。私は言った。

あの建物の隙間にいるやつだろう?いるよ、茶色いやつだろ、こっちにくる。

怪力男が言った通り、風の流れで、流れる霧が体のところどころ隠しながら、猫は鉱員の足もとをジグザグにすり抜けながら、広場にいる三人の方へ走り寄ってくる。

一瞬、猫は首を伸ばして立ち止まった。シュシュシュル。女はしゃがんで猫の目線に合わせ、舌を鳴らして子猫に呼びかけた。猫が怖いのか、坊主頭の男が女の後ろに隠れたのがおかしい。猫は止まったままだった。シュシュシュル。女はもう一度舌を鳴らした。

猫は肩を下げて警戒心を解き、女の足もとまで寄ってきた。彼女は猫を抱き上げると、霧が薄くなり、太陽が猫を照らして、二人の体が一体化して光る。よく見ると猫は茶色の中に白い斑点が混じっていて、そこに光が集まっているかのように毛が輝いている。女は猫を抱きかかえたまま歩いた。

私たちは砂利道の坂をくだり、鉱員と蟹歩きですれ違うほど狭い道に入ったと思えば、突然、視界が開けて、建物が抜けている空き地になっている場所に入る。似たような道を抜けると別の似たような道へ行く。馬のようにすべて女が道案内をしてくれた。彼女は一度も道に迷わずスムーズに進む。こっちの方が近いの。女は言った。何でそんなことを知っているのか。

女の後を追って、先ほどと似た路地に入った。路地は薄暗く、道の真ん中あたりに無数の星が光っていた、あっと思い、星に近寄って見上げるとそれは星ではなく太陽に照らされた水滴だった、建物の間に蜘蛛の巣が張っていて、糸に靄が引っ掛かって水が溜まり、豆粒大の水滴が連なっているのだ。その時ごそごそと黄色と黒の縞模様のクモが建物から糸へ飛び乗り、一列に並んだ水の球が路地の薄い暗闇の中で炸裂した。滴が私の額に当たった。前を歩いている女に抱かれた猫は、私の額に洗濯物の滴が当たった瞬間を見逃さなかった。猫は私と目が合うと、周囲に鐘が鳴った。この鐘の音について、私は何も聞いていなかった。


目の前から鐘の音も、猫も、肩幅の広い女も、坊主頭の男も消えた。視界が明るくなり、あらゆる方向から、無数の声がやってくる。色々な声が重なり聞き取れないが、白い声の膜に包まれると、全身に痺れを感じて、安らぎを感じ、ここから逃げ出したいと言う気持ちが失せる。押しつぶされた無数から一本の声の線が流れて、しなければいいと思ったのでしょう?きっとそう。これは、うちのプラムの収穫にきていた女の声だ。もういい、あの人のところへ戻るから。彼女はあのように言えば、私が来ることを見越していたのだ。それにしても。あの時に彼女と一緒に逃げたら、どうなっていたのだろう?彼女の声が、母親の泣き声と父親の怒鳴り声が反響して聞き取れない。つまり彼は、何と言ってよいかな、そう、彼女に誘惑をされたんですな。彼女の夫は庭師の仕事だったのだが、働かず、昼間っから飲んでばかりでだらしのない。仕事だけじゃなく、酒びたりだと、あれのほうもね、わかるでしょう?おったたないんだ。たしかに脇が甘いんだ、あいつの両親も。あの年頃のこ、この声は誰の声だ?あいつだ。雑貨屋のマッカーシーだ。ろの男のことを何も知らないんだ。さかりがついて、羊だってやるんだからな。あの、じじい、余計なことを言いやがって。ここにある毎日30個の歯ブラシを、このステッカーのついた鞄に入れて決められた地区の家々で売り歩くんだ。仕入は5シリングで25本、それを1本4ペンスで売る。1本あたり1.6ペンスの利益だから、1セットあたり、1・25シリングが手元に残る。だいたい、販売員は日に3セットは売るから、だいたい月収で3・8ポンド、年収で45ポンドは手元に残るはずだ。それだけあればロンドンでも十分に暮らせるし、君が結婚しても問題なく生活ができるはずだ。最初にこの鞄とステッカーを買い、制服も誂えなくてはならないが、その費用の20ポンドで君に貸し付けるから、年5パーセントで返してもらえればよい。最初の3年は厳しいが、それを耐えれば、一生安泰だ。それよりも、君みたいな、有望な若者が無一文で田舎から出てきて、こんな広場で寝起きをするのは社会の損失だからな。私は君のためを思って言っているのだよ。この話を聞いた時、なんて幸運なんだろうと思った。何もわかっていなかったのだ。あの20ポンドを返すのにどれだけの靴底をすり減らさなくてはならなかったのか。歯を磨けば毛が歯茎に刺さって、口の中が血まみれになるような歯ブラシなんて、誰が買うのか。雑貨店はすでに別の歯ブラシ業者が入っていたし、家庭に売りつけても祖枠品なので再購入は無い。半ば脅すようにしても、日に1セット売れるのが良い方だった。当然、販売員を辞め、会社に借金が残る。奴らの目的は20ポンドが生み出す、5パーセントの金利だった。販売員が途中で逃げ出しても利益は出る。だから、金の無さそうなやつに片っ端から声を掛けるんだ。そう、1853年8月23日は火曜日だ。では、2035年6月4日は?月曜日。これは凄い、その通りだ。5162年1月19日は?金曜日だよ。いや、参ったな。天才だ。妻の兄の声だ。懐かしい。上海の路地裏にあるあの店、何といったか、あのテーブルがベトベトして用心しないと袖口が汚れるあの汚い店、あそこで喰った蒸蟹は旨かった。雌蟹の腹に爪を立て胴体を割り、割られた身の裏側に張り付いている黄色い卵を殻ごと口に入れて啜りこむ。海を濃縮したように濃い塩味で頭が麻痺した。そこに俺が持っていた西暦月日辞典を持ち込むと、座興に彼は特殊な計算式を暗算して、西暦と月日を聞けば、曜日を即答するのだ。彼は天才だった。数字の。はやく、はやく、部屋に入って。奥様がお待ちでしたよ。女の子です。ホイーラー先生のところの看護婦の声だ。親になるということが信じられなかった。私は子供に会いたくなくて、わざとその時、遅く行ったのだ。もともと、私は子どもが好きではなかったから。だが、初めて誕生した娘を抱きあげた時に赤ん坊の肌の柔らかさの感触に触れ、乳児のにおい体全体で嗅ぎ、彼女の鼓動を感じた時に、全てが変わった。彼はこの赤ん坊を愛し、ベッドの上で微笑んでいる妻を愛し、大げさでなく、この瞬間、世界のすべてを愛した。赤ん坊が彼に微笑みかけたとき、不機嫌にふくれたとき、四つん這いで動いたとき、歩いたとき、言葉を発したとき、その都度、幸福感でいっぱいになった。あれ、先ほどの方?しかも、これを2回も体験できたのは奇跡だ。先ほどの歯ブラシを交換にいらしたの?家は2人暮らしだから、ああ、彼女の声だ。彼女がドアを開けた時、あんな歯ブラシを売りつけたら、もう彼女二度と会うことは無いと思った。だから、近くの薬局で最上の歯ブラシを買って交換に行ったのだ。次はひと月後でいいです。彼女とは3本目の歯ブラシを運んだあとに付き合い始めた。本当に彼女のことが好きだった。彼女と会っている時は、二人の体が離れると互いの体がバラバラになりそうで、2人が会っている時は寝ている時や歩いている当然のこと、食事の時ですら常に腕をからませ手を繋いでいた。仕事などどうしても離れていなければならない時は、私は彼女に対して朝と夜に手紙を書いて、出来事や気持ちを報告した。まだ書き足りないときは、私は仕事を抜け出して昼間にも手紙を書いた。だんだん、髪が乾いてくる。手も骨っぽくなってくる。この姿を見ると自分で自分が情けなくなるの。肌の色が黒い斑点が出来ている。彼女は病で咳が止まらなくなった。その病の治療法はただ一つ、空気の清浄な場所で静養し、栄養が豊富なものを食べて、免疫をつけることだった。私はどちらも金がないからできなかった。自分が食うのを我慢して、人を騙すようにして歯ブラシを売りつけて稼いだほとんどの金を彼女の治療費に当てたが、とてもじゃないが療養できるほどの金はできない。ごぉーん、ごーぉん。これは何の音だ?ごぉーん、ごーぉん。ああそうだ、鐘の音だ。このころに、歯ブラシの販売員だけでは、入院費が間に合わず、貿易商会の小使としても働き始めた。それでようやく彼女を薄暗い廊下に面した大部屋から窓側のある個室に移したのだ。個室だと部屋全体の光がベッドの近くへ集められているように白く眩しかった。ごぉーん、ごーぉん。彼女が寝ているベッドの脇に座って、一緒にプラタナスの葉を黙って眺めていた。その時に聞いた鐘の音だ。1978年11月28日は?強い日差しに照らされたプラタナスの葉の影が彼女の顔にかかって揺れていたのを。どうしようもないんだ。やりたくて、やりたくて。だからあんなのにひっかかる。黙れ。光の力は効果があったんだ。彼女の、あれ程止まらなかった咳がやみ、顔色も元のように戻り始め、病院が出す固いパンと味の薄いスープでも体重が増え始めたのだ。行くのが辛かった見舞いも回復するとしたがって楽しみになってくる。最初は日の光に負けていた彼女の姿が段々と病室の光と吊りあうように感じた。退院をした時に彼女の薬指の爪がひどく伸びていることに気が付いた。単に爪を切り忘れたのか、何かのまじないなのか?このことを指摘すると何かが壊れそうで言いだせなかった。退院してから彼女は塞ぎがちになった。いつも体を合わせていたのに、彼女は私の側に寄るのも嫌がった。あなたと出会った時は幸せだったし、少しでも離れているとバラバラになってしまいそうだった。他に男ができたのだろうか?きっと今でもそう。でも、それは不健康なことじゃない?どこで出会ったのだろうか。病院か?確かに、あなたを愛しているし、愛されているのは全身で感じていた。でも、あなたはあなただし私は私でいいの。これからずっとあなたといると2人とも腐ってしまうような気がする。病院にもずっと付き添ってくれたし、本当に感謝をしているし、申し訳ないと思っているのだけれども。彼女は私の肩を抱いて部屋を出た。彼女が話した内容よりも、あらかじめ決められた台詞を言っているような感じがしたのが、苦しかった。私は彼女のことを何も理解をしていないのだ。プラム摘みの人妻の時と同じだ。どこへ彼女は行くのだろうか?少なくてもこの部屋ではない。もう帰ってこないだろうことは予想できた。彼女がいなくなった部屋の中にはしばらくの間、彼女の残したにおいが残っていた。声からもにおいが漂ってくるようだ。

鳴り続いていた音が止まり、波の音が聞こえ始めた。気が付くと私は首まで海に浸かっていた。海底はつま先立ちで着くくらいの深さだった。白く照らされている夜空の方角を見ると入り江の突端には灰色の灯台があり、その周りを高速で羽を回転している小型の風車が囲んでいる。灯台の光が海の方へ現れると、海水は緑に光った。海が光ると水に浸かっている首から下までの体が見える。私の服装は白いシャツの上に上着を羽織らずに直接に灰色のコートを着ていて、ベージュのズボンを履いていた。服は海水に浸って濡れているのに重くなかった。コートは波に揺られてクラゲのようにふわんでいる。灯台の誰かが光の加減を捜査したのだろうか。灯台の光が海へと落ちてきた。私の周りへ降りる光は暴力的だった。光が通った後の海は緑のプランクトンが消え、真っ暗になる。私を囲む光は徐々に狭まり、頬を張り倒すように光がぶつかった。目の前が白くなると、突如、見慣れた漆喰の壁とドアが、


彼は青年から中年になり、個室が与えられた貿易商として、革張りの背もたれがしっかりとした椅子に座って、昼食の後に昼寝が許される立場になっていた。目覚めると背中が痛いので、貿易商は窓を見るとやはりガラスに水滴がついている。近頃は雨が降ると肩甲骨のあたりが掌できつく押されたように痛むのだ。そろそろ火伸【ひのぶ】が来るころだ。部屋が薄暗いので、彼は机の上に置かれた電気スタンドをひねる。発光した電球は部屋の机に置かれた写真立てを照らした、写真は二年前にこの会館を建てた時のものだった、会館の前に並んだ商会員たちは二段で並んでいて、前列は彼を囲んで西洋人、後列は日本人を含むアジア人だった。

九年と八か月前に貿易商はウイリアム・リー貿易商会の日本支店の副支配人として横浜へやってきた。貿易商が来日したきっかけは、この時から三十年ほど前、ちょうど彼の部屋から妻が出て行ったころ、あるフランスの養蚕農家を個人的に襲った出来事から始まる。

フランス北部の養蚕農家の主婦は、何か気がかりな夢から目覚めて、納屋の裏側にある蚕桶の蓋を開けると、数千匹の蚕は死んでいるのを発見した。蚕の屍骸は仰向けに倒れており、体の全体には黴のような黒い斑点が浮かんでいた。彼女は悲しみの感情よりも先に目玉が熱くなり、蚕たちの上に涙が落ちた。何でこんなことになってしまったのか。そういえば、昨日も夫は酔っぱらって帰ってきた。その時は夕方の餌やりをやってから酒場へ行ったと言っていたが、やっぱり夫は餌やりをせずに飲みへ行き、かわいそうな蚕たちを殺してしまったのだ!彼女はすぐに駈足で家に引き返すと、夫が寝ている寝室へ飛び込んで、掛け布団の上から夫を両手でたたき起こした。

翌朝、夫婦で黙ったまま並んで食事をとっている際に、開けっ放した窓からゴムを焼くようなにおいが台所に流れてきた。彼女はにおいから隣家の養蚕農家が蚕の屍骸を燃やしているのを悟った。昨日、彼女が蚕の屍骸を燃やした時にも同じにおいがしたからだ。

その日の午後に、白衣を着た地元の衛生局の職員は夫婦の家に消毒の為にやってきた。家に入るなり、彼らは慣れた手つきでゴム製のアコーディオンの様な機械を組み立て、蚕が飼われた納屋だけではなく家の隅々までその機械で消毒用の硝酸を撒いた。だが、この程度の消毒剤ではこの村へ深く入り込んだウイルスの勢いは止めることはできなかった。数日後には、この村に十件ほどある養蚕農家が飼育している蚕たちは黒い斑点を浮かべて全滅した。そこから、フランス全土に蚕の病が蔓延するのに、そう時間はかからなかった。数か月後には、ウイルスはフランス全土の養蚕農家の蚕を食いつし、アルプス山脈を越えてイタリア北部まで広まった。

ここでようやく、パリの商工会館に主要な製糸業者たちが集まり、今後の対策を決める会議が開かれた。ここまで会議を開くのに時間がかかったのは、業者間の縄張り意識が強くて同じテーブルに着くことを嫌がったからだった。会議が終わり、議長が、議場の外で待ち構えている新聞記者の前に現れた。メモ帳とペンを持った記者の前で上着のボタンがはちきれそうなほど腹が出ている議長は重々しく言った。作れないのなら買うしかない、疫病が到達しない地域へ繭を買いつけるしかないのです!それは会議を開かずともわかる当たり前な結論だった。メモを取っている記者がしらけている様子に気が付かぬまま、議長は満足な表情を浮かべその場を去った。

何はともあれ結論が出たことから、すぐに製糸業者の依頼を受けた貿易商たちは生糸を求めて東に飛んだ。貿易商たちが目を付けたのはギリシアだった。アテネの生糸会館では一時、ギリシア語よりも英語やフランス語の方が多く飛び交ったほどだった。一躍、ギリシアがヨーロッパの養蚕の中心になったものの、それも長くは続かない。人の往来が激しくなるに従ってギリシアにも疫病も侵入し始めたのだ。ギリシア政府はヨーロッパ各国の支援を受けて、消毒剤の総力戦をおこなった。雪が降らないギリシアの真夏に粉雪が舞った。その正体は雪ではなく硝酸だった。硝酸が降り積もり、子供たちは水で硝酸を固めて、雪合戦のような遊びをし始める。驚くべきことに、彼らの親たちも風邪の予防になると、子供たちをとがめることは無いばかりか、家族総出で硝酸を家族同士で投げつけた。消毒剤の圧倒的な投入によって、疫病はほとんど終息に向かい、人類は勝利をしたかに思えた。新規の紡績工場の竣工が始まり、工場員の募集も始まった。しかし、ウイルスは人間が一番打撃を与えるタイミングを待って反転攻勢に出たのだ。数か月後、砂の城が指の一突きでさらさらと崩れるようにギリシアの養蚕農家は総崩れになった。紡績工場は廃墟と化し、一度も稼働しなかった機械の間を、空腹で目が光る野良犬の家族がうろついた。ギリシア陥落後、貿易商は糸を求めてさらに東へ突進する。貿易商たちはウイルスよりも生糸を早く仕入れるために、トルコ、シリアとシルクロードの源流である清へ向かってユーラシア大陸を縦断し始めた。二十年かけて、ようやく行き着いた清は桑畑の広さ、伝統に根差した高い製糸技術、移送費用を含めた多少の値段の高さに目を瞑れば、紡績業界にとっては理想的な地域だった。しかし、予想外のことが発生する。清の内部で太平天国の乱が勃発したのだ。清の国内で排外主義が高まり、政府は鎖国政策に転じてしまう。シルクロードもこれで行き止まりか。これ以上東には先へ進めないと思いきや、清と入れ替わるように、アメリカの圧力で日本の江戸幕府が開国政策へ転じた。上海にいる貿易会社の支社は、開港直後の日本へ調査員を派遣した。調査員は報告した。日本にも伝統的な養蚕産業もあって、鎖国政策のおかげで疫病の打撃を受けていない。糸の質には改善点があるものの今後成長する可能性を感じる、と。聞いて支配人は即決した。これはいける。こうして、貿易商会は競うようにして横浜の居留地に日本支社を設立した。

調査員が危惧をした通り、日本産の生糸には大きな問題があった、肝心な糸の品質が安定しないのだ。西洋ではすでに蒸気機関を動力源とする紡績機による糸の生産が主流であったが、日本ではいまだに手作業で糸を紡いでいた。当然、糸を紡ぐ人によって品質にばらつきができる。横浜にいる貿易商たちの要望は、日本に本格的な製糸工場を建設することだったが、弱体化している江戸幕府には、もはや機械式工場を設立する資金的な体力はなかった。

そして、日本国内で動乱が起き、あっけなく三百年続いた江戸幕府は崩壊した。

江戸幕府から政権移譲をしたばかりの明治新政府はとにかく外貨を獲得したい。政府は初期投資が少なく、利益率が高い産業として、製糸産業を国策として工業化する方針を定めた。政府はいきなり国家予算の十二分の一もの破格の費用を使って群馬県に製糸工場を建てる。士族の娘たちが、お国の為にと工場へと動員をされた。工場内で華道や茶道を習えるなど彼女たちの待遇も良かった。だが、全国に工場が建てられ、官立の工場が民間へ払い下げられるようになると、士族の娘に変わって、貧しい農家の娘が工場に勤めるようになる。工場主は親に気兼ねが無くなったので、女工たちの扱いが雑になる。はっきり言えば、彼らは機械の一部として彼女たちのことを見るようになるのだ。女工が朝6時から、夜の8時まで昼の三十分を除いて、絶え間なく鳴り響く紡績機の中で、彼女たちは休みなく働かされ、ミスをすれば罰金をとられる。中には、給金よりも罰金の方が多い女工もいたという。

貿易商が勤めていたウイリアム・リー貿易商会では、そうした工場から糸を専属的に仕入れた生糸売込商から糸を買い付けて、主にイギリスとアメリカへ生糸を輸出していた。彼らが買い付ける機械式の糸は品質の安定性はあるものの、紡績機自体の管理が悪くて、糸の寄り方の密度の高さや表面のつやが失われる欠点があり、中級品の糸の輸出に留まっていた。この欠点の解決法は横浜の貿易商会の間では一致していた。それはヨーロッパから多くの技師を呼び寄せて機械の改良をすることだった。

しかし、貿易商は自分の経験からこの方法の解決を考えていた。

八王子に生糸会館という生糸の生産業者が集まって定期的に見本市が行われる場所がある。普段は生糸売込商が横浜まで出向いて、そこで生糸の買取をするのだが、生糸会館の中庭に大きな桜が植えられていると貿易商は聞き、是非見てみたいと思って、わざわざ出向いたことがあった。その時に、会館の一階では日本の業者向けの見本市が開かれており、貿易商は甲府や信州の農家で生産された糸を見て驚いた。糸はよりが一定で表面が水のように滑らかで、しかも為替の関係を差し引いても、信じられぬほど低価格で売られている。これまでは外国の貿易商会は売込商が持ち込んでくる糸を購入することができなかったため、こうした糸の存在を知らなかったのだ。その翌年には外国人の移動制限が緩和され、八王子より先へも出かけることができる。自らが直接に山梨や秩父あたりの農村に買い付けに行けば、良い品質のものを農家から直接買い取ることができ、高価格帯の商品も扱えるようになる。貿易商はこの意見を支配人に主張したが、彼は反対してこう言った、手作業では生産量は少ないし、機械式が主流になる中で安定をして仕入れることができるとは思えない、それよりも、しばらくすれば品質の良い紡績機が発明されるだろう、そうなれば機械式の糸の品質も徐々に良くなっていくのだ、と。始めは穏やかな話し合いだったが、徐々に会話がささくれ立ってくる。俺を無能扱いにして偉そうに指図をしやがって。ついに、最後にウイリアム・リー貿易商会の支配人は机を蹴り上げて叫んだ。だったら、お前がやってみろ!

こうして、彼は自らの貿易商会を立ち上げることになった。独立をした当初、貿易商は商人宿で握ってもらったぱさつく玄米の握り飯と塩辛いいわしの丸干しの入った包みを腰から下げて、日本人の通訳だけを連れて、山梨県の笛吹あたりの農村へ直接生糸の買い付けに行った。彼はまだ若く、気力と根性があったのだ。そのあたりでは、まだ個人の養蚕と製糸を盛んに行っており、器械製糸以上の品質の糸をいくらでも仕入れることができた。安く上質な糸は香港に居る妻の兄へ送られて、主に中国内の高級服の仕立て業者に売りさばかれた。仕入の拡大に伴って売上も増加し、現在は社員数も日本人も含め二十名ほどの人数を雇えるほどになり、2年前には関内のホンチョ・ドーリ沿いに自社の建物を建てることができるまでになった。


ノックの音が部屋に響いた。貿易商はドアの横に掛けられた時計を見ると、約束の時間まで二十分を切っていた。慌てて、貿易商は机の上に置かれた書類を封筒に入れて鞄にしまう。扉に向かって声を上げると眼鏡をかけて日に焼けている日本人の青年が不安そうな顔をして部屋に入ってきた。彼が火伸だった。彼はもともと甲府で英語代用教員をしていたところを貿易商が見つけ、英語が達者で山梨の事情に詳しいことから自分の会社へ呼び寄せたのだ。

ノブ、早く来てくれないと困るじゃないか、時間に遅れるぞ。貿易商は自分のことを棚に上げて、火伸に注意をすると、一緒に階段を駆け下りて商館を出た。外に出るとさっきより雨が強まっていて、遠くのほうで雷の音が鳴り、空が明滅している。辻馬車を拾おうと思ったが、店の前に出ても、それらしき馬車は見当たらないので、馬車をあきらめて彼らは税関へ向かい歩き始めた。すれ違う天秤棒を担いでいる風鈴の物売りやふんどし姿の荷揚げ人足たちがば雨の中で、水たまりを踏み鳴らして、泥にまみれてうじゃらけている。

税関は二年前に建てられたばかりだったので、外から見てもまだ全体的に真新しい感じがした。建物中に天窓へ降り注ぐ雨音が鳴り響いている。目の前に大階段が現れ、階段は吹き抜けになっている二階とつながっていた。建物中に鳴り響いている。目的地の検疫所は、1階の大階段の右側をすり抜けた先にある部屋だった。火伸が検疫所の扉を開けると部屋は薄暗く、動物の鳴き声と匂いが部屋中に充満している。眩しく光る白熱灯が置かれた受付のカウンターは白衣を着た中年の官吏が座っていた。男の背中は丸まっており、薄い頭頂部を入口に向かってさらしていた。火伸が鞄から書類の束を出して官吏に差出しながら、フォルモッサの居場所を聞いた。官吏は受け取った書類から目を離さず聞き取れないくらいの小声で言った。フォルモッサはこの部屋の奥の扉から出たところの波止場にいます、書類の確認が終わったら、場所を案内するので、そこのドアの近くの椅子にかけて待っていてください。 

火伸は、彼の言っている内容を貿易商に通訳をして、彼らは言われた通りに入口のドア付近に置かれた簡素なイスに座った。どこかで工事を行っているのだろうか。椅子は蜂の羽のように絶えず振動している。貿易商は火伸にフォルモッサのことが書かれた手紙を読ませていなかったことを思い出したので、手紙を渡し、読むように言ってから、少しでも不快な振動を忘れるために目を瞑った。

火伸が受け取った手紙の差出人は貿易商の妻の兄からだった。彼は貿易商が経営する会社の上海支社の代表を務めている。もともと貿易商と彼とはウイリアム・リー貿易商会時代の同僚なのだ。商会の名前が入っている便箋にタイプ打ちで手紙は書かれていた

フォルモッサというほとんど知られていない動物をうちの商会で引き取った。明王朝の貴族の家系の男がもとの飼い主だ。動物の出所と扱うものの内容だけに清の国内で取引をすること難しい。だから、日本で販売はできないだろうか。写真とフォルモッサの概要を同封した。確認の上、早急に返信がほしい。

封筒には写真が同封されていなかった。火伸はもう一枚入っている便箋を出した。こちらは手書きで所々訂正の箇所があった。

フォルモッサはウサギの一種だが、人間と同じく二足で歩く。手が無いかわりに足まで長く垂れ下がった耳が手の役割を果たす。耳は先端に進むにしたがって徐々に筒口が広がる形状になっていて、先端の部分で物を掴めるようになっている。フォルモッサはこの自在に動く耳を使って餌取りを行うのだ。フォルモッサは雑食性なので、耳を使って昆虫を捕まえて食べる。その昆虫の捕まえ方は独特で、耳の内側にある毛穴から熱帯に生育するマンゴーなどの果物のように粘ついた甘酸っぱいにおいを発する分泌液が出ている。この強烈なにおいに誘われて、フォルモッサの垂れた耳を花と間違えて吸い寄せられた虫たちは皮膚の表面に浮かぶアラビアゴムのような汗を舐めようとした瞬間に、その視界が暗くなる。フォルモッサの耳はパタンと閉じられ、耳を曲げて口へ運び虫を食べてしまうのだ。この耳からでる分泌液には虫だけではなく、人の心をざわつかせ、記憶を混線させるという迷信があるようだ。どうやら、元の飼い主はこの分泌液を精製して何かの薬物を作っていたように思える。

ここまで読んで火伸は不安になった。このような動物を明治政府の最高実力者の孫娘のプレゼントにしてよいのだろうか。椅子が乱暴に引かれる音がした。火伸が受付をみると、書類の確認を終えた官吏が立ち上がり、目を瞑っていた貿易商も彼につられて立った。書類の確認ができたから、フォルモッサのいる波止場へ行きましょう。ここの書類に署名をしてください。官吏からペンを渡された貿易商がサインをすると、官吏はカウンターの板を突き上げて外して、彼らをカウンターの内側に招いた。

貿易商たちがカウンターの内側に入ると、外側では分からなかった部屋全体の様子がはっきりとわかった。カウンターから15メートルほどの先にある部屋の突き当りに波止場へ通じる扉があった。扉のある壁を挟む壁沿いに動物たちが入れられた檻が奥まで並べられている。

貿易商は振動の原因が分かった。檻から発する動物たちの様々な種類の鳴き声や羽音、足音や排泄音が混って一つの塊になり、壁や天井に反響して部屋が振動をさせているのだ。檻の中から発せられる絶え間ない動物の殺気立った叫びに貿易商は怖気づいて、帽子を深くかぶり直して歩き始めた。 

貿易商たちの一番近くにある檻の中にいるのは金色の毛に覆われた猿だった。猿は何かを叫びながら、小刻みに跳ねて檻の中でぐるぐると動いている。その声は威嚇をしているというよりも哀願をしているように聞こえ、貿易商は胃のあたりに淋しさが吹きすさび、眼をそらすように。猿の檻から右に視線を向けるとそこにはハリネズミがいた。ハリネズミは意思とは無関係のように、不規則に背中の棘を逆立てたり、萎めたりしている。白衣の官吏がどんどん先へ行くので、貿易商たちが彼に遅れまいと進む。奥へ行くほどに部屋の揺れと鳴き声の大きさがひどくなってくる。檻は置かれているものだけでなく、天井から電球のように何本も四角い鳥籠が吊り下げられていた。鳥籠の中には赤色、黄色、金色の羽の鳥たちが目の前にぶら下がる電球に向かってギュラギュル、ヤィアバーバーと鳴く。貿易商は震える床を踏みしめ、反響する声の中をくぐり、檻を横目で見ながら進んでいるうちに、だんだんと自分がこの部屋の一部に同化し馴染んでいくとともに、体の奥からを突き上げるような激しい怒りを感じた。この部屋は、この税関は間違っている!生き物に対して、世界に対して、何もかもを対して、軽んじている!この場所は、悪と呼ぶにはあまりにも、ちっぽけで、悪について、無自覚だった。

税関吏が部屋の奥にある波止場へ通じる勢いよくドアを開けた。

貿易商の目の前が白くなる。青空。頭を殴られたように光が眩しい、青空には雲が湧き出ている、酸素を多く含んだ海の空気がうまい、いつの間にか雨が降りやんだのだろうか。自分の怒りが白々しさを帯びてきて引いていくのを感じてくる。この怒りは手放したくはなかった。だが、握りしめた砂が指の間からすり落ちるように、怒りが自分の内側から消えるのだ。

東京湾が目の前に現れた、船も何艘か航海している。真新しいセメントでできた波止場には、鳥籠のような竹でできた山のような形をした檻が一つ置かれていた。官吏に促されて檻に近づくと、茶色い何かが動き回っている。

フォルモッサだった。

実物を見てもこの動物の存在が信じられず、良くできたまがい物のように見える。フォルモッサの身長は90センチくらいで、全身は茶色い細く長い毛におおわれ、パン生地のようなむっちりとした存在感がある。耳は噴水のようにいったん上がって、弧を描くように下って先端にいくにしたがって広がるとともに、耳の内側の桜色の色味が増す。呼吸に合わせて耳の先端部分も開閉していた。フォルモッサの耳は手の欠損を補っているというよりも、独自の経路で進化をした生物の器官のようだった。目が大きく、都会で飼われていたと思われるような柔らかい顔つきしている。

火伸は官吏に連れられて、台車を取りに港にある倉庫へ走っていったようだ。一人残された貿易商はもう一度檻に近づいた。檻の周囲にはフォルモッサの耳から発せられる粘着質の甘いにおいが漂っていた。貿易商はフォルモッサと目が合うと、体の内側には、大昔は一つだったのにどこかで枝分かれした兄弟に会えたような嬉しさが込み上げてくる。フォルモッサは瞬きをして耳を前後に揺らす。貿易商は早くうちに連れて帰ってフォルモッサを家族に見せて喜ばせてやりたいと思った。貿易商はしゃがんで檻の中に居るフォルモッサを眺めた。

フォルモッサの耳と顔の隙間から一艘の蒸気船が飛び出している。船はフォルモッサの右耳と顔の隙間から入り込みんで、髭の上を滑り込むように進む。顔の後ろと一直線に突っ切り、髭に乗っかるように航海して、左耳と顔の隙間に抜け、再び船が現れる。貿易商にはそれが手品を見ているようで面白かった。貿易商は背後に視線を感じ、振り向くと関吏がその様子を見ていた。貿易商と官吏は目が合い互いに照れて笑った。結局俺も世界を軽く見ている側にいるのだなという思いが貿易商の頭をかすめた。火伸が台車を押してこちらへ向かってくるのが見えた。


フォルモッサは商会に一度運び込まれ、検収や役人へ送る書類作成の為に数時間置かれた後に、山の上にある貿易商の家で預けられることになった。

貿易商はいつも夜遅くまで店に残って仕事をしているのだが、今日は日が沈む前に家に帰ることにした。いつもは歩いて通勤をしているが、今日は馬車を呼んで、フォルモッサを入れた籠を座席に乗せて帰った。丘の上にある家に着くと貿易商は門の入口に置いた台車に籠を乗せて、建物を迂回し、芝生が敷かれた裏庭へ入った。庭からは横浜の街並みだけでなく、東京から房総半島まで東京湾を一望できる。良く晴れた冬の朝には浅草の五重塔も見えることもあった。 

すでに芝生の一角には柵を設けていた。柵の中心には金具の輪をねじこんだ杭を打ちこみ、金具の輪はフォルモッサの首輪をつなぐリード紐を繋げるようにしている。柵の中に入った貿易商は籠をあけて、ケガをさせないようにフォルモッサを慎重に持ち上げると結構重い。彼は久しぶりに子供を抱きあげる感触を全体で味わった。腕の中に居るフォルモッサは筋肉質で心臓の鼓動が直に自分の胸に伝わる。人間の子供みたいね。家から出てきた妻の言葉を受けて、貿易商は応じていった。本当だよ。久しぶりに子供を持ち上げた気持ちになった。意外と体重が重いんだ。腰を痛めそうでひやひやしたよ。彼女は貿易商より八歳年下で点心の饅頭のように肌は白く、体つきはふくよかだった。

彼女はしゃがみ込んでフォルモッサを見た。明日ではなく、今日から連れてきたのね。あぁ、本当なら店に一晩置くつもりだったのだが、暗い中で留守番をさせるのもかわいそうでね。どうせ家には一週間しかいられないから早く君たちに見せたくてね、今日連れてきたんだ。

子供の頃に家でウサギを飼っていたのを思い出した。夫婦で飼うとすぐにウサギは子供を産むから、お兄ちゃん一緒にと子ウサギを友達の家まで届けて渡したのよ。

鼻の穴を斜めに広げて、きゅるきゅるとフォルモッサが鳴いた。貿易商は妻に言った。ほら、聞こえるだろう。鳴いているよ。フォルモッサはウサギなのに声帯があるのだな。

外の様子を察して、十歳の娘、下が七歳の息子も走り寄ってきた。貿易商は娘にフォルモッサの飲み水用にバケツに水を汲んでこさせ、彼は息子と一緒に餌の牧草を屋外にある物置に取りに行った。姉弟は水をいれた木の深皿をフォルモッサの前に置き、牧草を食べるようにフォルモッサに話しかけている。

貿易商はフォルモッサをつないでいる杭の近くに椅子を出して、井戸で冷やしたキリンビールの栓を抜き、子供たちの様子を横目で見ながらフォルモッサの入国書類を確認した。三十分ほど書類を読んでいると頭が疲れたので書類から目を離し、フォルモッサの方をみた。最初のうち、フォルモッサは慣れない環境に怯えて耳もしおれていたが、二人の子どもたちが熱心に話しかけている内に、二人が持っている牧草を食べ始めた。娘が渡す草を耳の先端で包むようにして掴んで口に運んで食べている。その様子を姉のブラウスを握って弟は眺めていた。貿易商が家の方を見ると妻が本を読んでいる様子が見えた。彼女はシャーロック・ホームズの冒険を読んでいる。彼は読書の好きな彼女の為にイギリスで評判になっているのをわざわざ取り寄せたのだ。

貿易商は書類を読みながらも頭の隅の方で昼間見た夢を思い返していた。夢は醒めると見ている間の生々しさが急に干乾びて握った枯葉のように粉々になるのだが、肩幅の広い女も坊主頭の男もここに現れそうなほど生々しい実感があった。その延長で最初の妻のことを思い出した。ようやく、忘れかけていたのに、ああいう形で現れると、うわっと今でもこの場から、ありもしない坂道を駆け下りたくなる衝動に駆られる。子供もいて時に説教じみたことを言っても、自分にはこういう部分も残っていることに驚く。走る代わりに空になったコップにビールを注いだ。飲み干すと椎の木に目をやると蝉が鳴いていた。

妻は本から目を上げてガラス越しに庭を眺めた。蝉の音は家の中でも薄く聞こえる。すっかり慣れたのか、リード紐をフォルモッサは立って跳ねていた。交代で餌をやる彼の子供たちの姿、夫の顔を見ると何かと話しているように見えた。それぞれの風景に自分の顔が二重写しで映り、こちらにも視線を感じる。

山の麓のバンドーから風が吹き上げた。屋敷の窓がギーギーと軋み、フォルモッサの耳が浮き、息子が被っていた帽子が飛んで屋根に乗った。ビールが注がれたコップが倒れて書類の一部が濡れた。風は止まずに濡れた書類がバラバラになり空に舞った。ガラス越しに飛んだ紙から太陽の光が透けて見えた。

貿易商は息子の帽子を拾い、書類をかき集めた。ふたたび、庭の椅子へ座り、海の方へ眼をやった。沈みかけた夕日が東京湾に降り注ぎ、海は鏡を割りいれたかのように輝いていた。


子どもたちは珍しく早起きをしてフォルッッサと最後のお別れをしたらしい。

服装を整えるのに手間取り、いつもより一時間遅く入った居間のテーブルには、子供たちが書いたフォルモッサの絵が2枚置かれていた。パステルで書かれた絵はフォルモッサとは行ったことがない海水浴の絵と自分よりも大きな葉っぱをフォルモッサにあげている絵だった。せっかくだから絵を額装して飾ろうと思う。

妻が言うには、子供たちは朝と夕方に交替で大根の葉っぱをフォルモッサに与え、学校から帰宅すれば、山手の家からから丘伝いに根岸の競馬場あたりまで散歩へ行くのだそうだ。弟がフォルモッサの散歩をすると、跳ねるフォルモッサに引っ張られて、フォルモッサの後を引っ張られて小走りになってしまう。彼女はこれでは、フォルモッサを散歩しているのか、フォルモッサに散歩をさせられているのかわからないと笑っていた。

その話を聞くと、やはり子供が動物を触れる環境に居るのは良いなと思う、無条件なものに体全体であたると無条件になれて、優しくなれるのだ。

フォルモッサを預かるのは一週間だけなので、子供たちに愛着を持たせないように名前をつけることを禁止した。今となっては自由にさせておけば良かったと思う。知らないのはこちらだけで、二人は俺に隠れて名前を付けているかもしれない。二人がフォルモッサの世話をするときに、貿易商が近づくと小声になるのだ。妻も子供たちの秘密を知っているのだろう。彼が食堂にいる時に窓越しに庭で三人がフォルモッサに向かって何か話しかけている様子をしばしば見たからだ。母親しか入れない子どもだけの領域があるのだ。

貿易商は正装をして馬車を待つために玄関へ行った。ポーチには昨晩の内に庭から移動していたフォルモッサが入った竹籠が置かれていて、妻がしゃがんでフォルモッサを眺めていた。彼女は寝間着のままだった。

淋しくなるわ。せっかく子供たちもこの生活に慣れてきたのに。

貿易商は納得したように言った。そうだな、他の動物、たとえば犬でも飼うか。

貿易商の言葉を聞いても、妻は黙ってしゃがんだままフォルモッサの籠を見ていた

息を吐いて立ち上がって妻は貿易商に尋ねた。元老はどんなひとなのかしら。

そうだな。偉い人だけど気さくな人らしいよ。

妻は言った。そう、気さくだから偉くなれたのね。

約束の十時半に役所が差回した自動車が屋敷の車止めに停まった。やはり、元老の家に行くとなると馬車ではなく自動車になるのだなと貿易商は思った。運転手と一緒に、フォルモッサが入っている籠を車に積んだ。

汽車の線路と並走するように自動車は東海道を東へ進んだ。自動車の中には果実のようなにおいが充満している。品川駅が前方に見えてくると自動車は右折し、小高い丘の下にある門に入って坂道を登る。坂を上りきって屋敷の車止めに着くと玄関前には地味な着物姿の女中が待っていた。室内に足を踏み入れるとこの建物も新しいニスの匂いが漂っていた。彼女は赤い絨毯が敷かれた玄関ホールを抜け、長い廊下を通って、彼を庭に通じる食堂に案内した。部屋に入ると女中は貿易商にここで役人を待つように伝えた。食堂には誰もおらず、薄暗く無音だった。部屋の一面は窓が据え付けられていて、そこから庭の様子がよく見える。窓は建物を囲むポーチに繋がっており、そこからスロープと伝って庭へ降りられる仕組みになっていた。スロープの先にある広い芝生ではテーブルを出して二十名ほどの人々がアフタヌーン・ティー形式のパーティーを行っていた。貿易商は竹の籠を窓に向け、フォルモッサとパーティーの景色を並んで眺めた。ガラス越しにこの景色を見ているとカンバセーション・ピースを見ているようだった。庭が見られて嬉しいのかフォルモッサは、はしゃいで籠の中で軽く跳ね、きゅるきゅるという鳴き声を上げて長い耳を前後に揺らす。

窓の外では、八月の粒の荒い光が芝生に降り注ぎ、大きな楠木が芝生に影を映している。この暑いのに、パーティーに飽きた子どもたちはテーブルの周りで追い駆けっこをして遊び始めている。暑いのによくやるよ、と思ったが、それは大人の理屈で、子供の頃、汗みずくで走っているうちに汗が風で冷えて涼しくなったことを思い出した。家族の中心にいるのは羽織袴を身につけ、膝の上に孫を乗せているつきたての餅のような顔をした元老だ。

若い頃の元老は幕末には外国の領事館を焼打ちにし、江戸幕府の要人の暗殺にも関わっていたという。倒幕後に元老は現状の日本では西洋には勝てないことを悟り、西洋の制度や文物を積極的に受け入れる開国論者に転向をした。その後の彼は日本を西洋化していくことに人生の多くの時間を費やした。太陽暦の導入、鉄道の開設、軍隊の創設、学校制度の制定、憲法の発布、これえらはすべて元老が携わったものだそうだ。その話を聞いた時、貿易商は若い頃の自分が憎悪していた者に長い時間をかけて変身するのだなと反射的に思った。翻って自分の若い頃を振り返ると憎悪する対象だけでなく、将来の理想像すら思い描くことがなかった。なりゆきまかせでここまできてしまったとしか答えようがない。おそらく元老もそうなのだろう。

雲が太陽を隠したので、部屋に入ってくる外光が一時的に遮断された。その時、折水がドアから食堂に入ってきた。折水は農商務省の役人で二十代後半の痩せた男だった。彼は主に外国向けの輸出産業の育成について仕事をしており、製糸関係の仕事で貿易商と知り合ったのだ。折水は白人の貿易商と同じくらい肌の色が白いが、色を隠すよう顔の下半分に黒々とした髭をはやし、高い襟のシャツにスーツを着ていた。折水は貿易商にわざわざきて屋敷までフォルモッサを運んでくれたことの礼を言い、フォルモッサを自分に見せるように頼んだ。緊張をしているのか、彼の声は上ずり、舌足らずで、早口でしゃべる様は子供が喋るよう思えた。そう、彼は英語に慣れていないのだ。貿易商は籠を彼に向けると、フォルモッサはさっきまで上機嫌だったのに見られていることに気が付いて耳を落として目を伏せた。

折水は風変わりなところがあり、貿易商と初めてあった時も、生糸のことなどそっちのけで、工芸品として江戸時代に作られていた人魚のミイラの製作を海外向けに復活させて輸出できないかということを貿易商に熱っぽく相談していた。その時は、貿易商は彼が冗談で言っているのかと思い聞き流していたのだが、実際に海外の博物館やコレクターにミイラを納めたのだというから能力は高いのだろう。

折水にフォルモッサのことを話すとすぐに彼は興味を持った。折水の直属の上司は元老の姪の夫であったので、彼は上司を通じて元老の個人的な要件をいいつけられていた。そのため、元老の家庭の内情に通じており、元老が末の孫娘を可愛がっていることを知っていた。彼女の為に特別なプレゼントとしてフォルモッサはうってつけだった。

ほら、閣下の膝に座っている子がいるでしょう。あの子にフォルモッサをプレゼントするんです。貿易商が言われた方向を見ると5歳くらいの白い子供用の服を着た女の子が木の枝を持って男の子を追いかけまわしていた。日本語ではああいう子をお転婆というのですよ。貿易商は言っている意味が分からず、無表情で頷くと、折水は女中の方を見て行った。

そろそろ、閣下のところへ行きましょう、女中から紫色の布を受け取り竹の籠に布をかけた。フォルモッサの籠に布を掛けておいて、披露目の際に外すのだという。

貿易商は台車を庭に出すために、窓を引っ張って全開にした。

外気と人々の歓声、セミの鳴き声が無音の食堂へ一気に流れ込んだ。貿易商はフォルモッサを乗せた台車を押しながらスロープを抜けて眩しい庭に出た。貿易商は先ほどまで見ていた絵画の中に飛び込むような気がして気分が高揚する。

庭に出ると参列者の視線は台車を押す見慣れぬ外国人に集中した。人々はお喋りを止め、走り回っていた子供は立ち止まった。食堂から元老の座っている籐椅子までの距離は30メートルほどであったが、囁き声をかき分けて歩く時間は永遠に感じられた。貿易商は折水の準備の悪さを呪った。あらかじめ参列者に話せばこんな目には合わなかったのに!本当に気が付いていないのか、気が付いていないふりをしているのか分からなかったが、折水は周囲に誰も人が居ないかのように貿易商を元老のもとへ案内した。折水は元老に耳打ちをすると、元老は孫を膝から下ろし大声をあげた。その場にいる全員の視線が台車に注がれる中、貿易商は紫の布をとった。

フォルモッサは籠を背もたれにし、尻餅をついたように座っていた。フォルモッサの眼は閉じ、力が抜けたように耳の先が開いたまま垂れていた。フォルモッサの耳が開いているところは見たことない。爛れたような甘いにおいが籠の周りにまで漂った。貿易商も折水も最悪の事態が頭によぎった。パーティーの参加者は初めて見る生き物の姿を見て、頭の中には様々な疑問が浮かんだものの、言葉が出てこない。この動物は何だ?猫なのか?犬なのか?それとも近頃はやっているウサギなのか?手が無いのか?歩行するのか?餌はどうするのか?

白い服を着た孫娘がフォルモッサの籠へ駆け寄った。まだ色が薄く茶色のおさげの髪が風に舞う。周囲にいた大人たちは籠の周りに集まり、折水を通訳にして次々と貿易商に質問をし始めた。

これは犬なのか?耳が長いから、ウサギ? ええ、ウサギの一種のフォルモッサという生き物です。エサはどうすれば良いのでしょうか?蠅などの虫も食べますが、普段は馬用の牧草で大丈夫です。香港で飼われていた時は、茹卵を与えていたようですよ。人間と同じように足で歩くの? はい、二足で歩きます。お庭が広いですから、お庭で散歩させるのも宜しいかと思います。そのことを通訳した折水は、屋敷の使用人に背の低い柵を用意するように伝えた。

狭い所では可哀想だからお庭に出して差し上げてよ。

その声でフォルモッサの籠が開けられた。

外に出られるのが、よほどうれしいか、フォルモッサは勢い込んで籠から飛び出た。

垂れた耳がリボンのように波打つ。フォルモッサが飛び出た勢いで、籠が倒れると、なぜか一斉に人々は歓声を上げた。強い太陽光がフォルモッサを照らし、体の輪郭をハッキリさせ茶色の毛を光らせる。フォルモッサは楠木の樹影が映る芝生を飛び跳ねた。

最初は遠巻きに見ていた子どもたちも1時間たつと歓声を上げてフォルモッサに抱きつくようになった。フォルモッサは子どもが手渡す牧草を耳で掴んで口に運び、両耳で木の器を抱えて水を飲んだ。老若男女関係なしにこの動物に魅了されていた。パーティーも終わりかけ、貿易商は屋敷を出ようとすると元老に呼び止められた。驚いたことに元老は貿易商に英語で話しかけた。

今日はありがとう。良い一日になったよ。

貿易商が何かを話そうとすると、急にフォルモッサのあまい匂いが鼻をよぎるのと同時に地面が揺れた。地震ではない、高波に煽られた船みたいな揺れ方だった。目の前のすべての籐で編んだ椅子も楠木も元老やフォルモッサまで、一切の物が青空へ舞い上がって地面にたたきつけられるのではないかと思われるほどだった。 

だが、目の前のテーブルの上に置かれたカップはなんともないし、パーティーの参列者が慌てた様子はない。折水は閣下と貿易商が話しているのを見て通訳をしようとこちらに来ようとする。

揺れているのは彼だけだった。正確に言えば、彼の内側だけ揺れていた。揺れている間中に、様々な断片が彼の中に入り込んで頭の中で散らばっていた。入院していた病室の窓から見た教会の鐘つきの顔、香港で食べた蟹の味、女の汗で湿った肌の感触、家を飛び出して悲しんだ叔母の顔。死んでも生きていている。夜通し子供をあやして徹夜をして迎えた朝の濃い酸素の清々しさ。実際に見たこともない景色も見える。生活排水で汚れている川のほとり。病室で見たプラタナスの葉の影。涙で光る横浜港。生きていても生きている。

視線を感じて、貿易商は振り返った。自分がいる場所から十メートルほど離れた庭に植えてある楠木のそばにいるのは、最初の妻であった。なぜまたここに?彼の心臓の鼓動が早くなった。病気になる前の艶のある黒髪に意思の強さを感じさせる顎のライン。私は彼女の顎のラインが好きだった。何一つ変わっていない。貿易商は声が出なかったが、彼女がこの場にいるのが当然だと思った。最初の妻は無表情で見ていた。どうして急に現れたのだろう。彼女は死んだのか?そんなことは聞いていないが。死んでいなければ、若い姿のままではないだろう。風に揺れた楠木の音。彼女ではなく、私が死んでいるのだろうか?私が死んでいても、彼女が生きていてもかまわない。過去の彼女に会えたことが嬉しかった。それは虫が良すぎる考えだろう。閣下や折水の目が気になったが、気にしていられない。椅子から立ち上がって、楠木へ向かう。私は揺れていても不思議と彼女の方へ真っ直ぐ歩けた。貿易商は無表情の妻の手首を握った。彼女の肌は温かく、手のひらだけは冷たかった。女からは口をうごかしているのに声が出ていない涙で滲んだ中年男の残像が浮かんで見えた。

こちらこそ良い日でした。閣下もお元気で。

貿易商は何事もなかったかのように白紙のような声で返した。一瞬だったのか。随分長い時間がたったように思える。一瞬が三十年よりも濃密な時もある。あれは何だったのか。雲の間から茜色の光が漏れた。風が強くなり、雲が動く、夕方になり薄い茜色の線が何本も芝生に差し込んだ。最後に貿易商はフォルモッサを見た。何人かの子どもとじゃれていたが、フォルモッサは貿易商を見ると彼に向かって耳を前後に揺らしているように見えた。浅い感傷が込み上げて、思わず貿易商はフォルモッサに向かって手を振った。食堂に入ると折水が貿易商を待っており、玄関まで送ってくれた。折水は仕事をやり終えた満足感で貿易商に対して上機嫌に何度も礼を言った。

品川から横浜へ東海道を下って家に帰る道中、自動車の窓から貿易商は海を眺めた。満月が海を照らしている。月光の帯が波に揺れ、不思議なことに車の中にいても絶えず波の音が聞こえる。この時期の夕暮れはまだ昼間の熱気を引きずっている。近所に住んでいる浴衣姿の老夫婦が砂浜の上にベンチをだして月光を眺めていた。この東海道沿いの風景はずっとみても飽きない。貿易商は大森のこのあたりの風景が日本で一番好きだった。あの震えは、まだ体の芯に残っていたが、波の音を聞くうちに和らいできた。海が光るのは波があって水が動いていくことで光を反射するからなのだな。風が光なって音に移ろうのか。そう言えば、フォルモッサの寿命はどのくらいなのだろう。あの手紙の中に説明がなかったな。犬なら五年、もって十年くらいか、亀は五十年くらいだろうか。フォルモッサはそれよりも長く生きそうだ。私よりも妻よりも子供たちよりも長生きかもしれない。私の孫かひ孫か、それよりも先まで生きるかもしれない。生きていても死んでいてもどっちにせよ変わりないさ。むしろ、フォルモッサは私よりもすでに長く生きているかもしれない、私の祖父母か、それより前からかも


               Ⅱ


午前中の頭の働きが良い時間に、火伸は書類の英訳の仕事をする習慣になっている。

翻訳の仕事の速度は体調によってばらつきがでる。休み明けの月曜日や目覚めが良い日だと昼までに三通ほど契約書を訳せるが天気が悪い日や酒を飲みすぎた翌日だと、一通訳すのがやっとだった。今日は十一時の時点で一通なので、まずまずというところか。昼飯までにもう一通を訳そうと、書類に手を伸ばした時に、上から幽かに自分呼ぶ声が降ってくる。

火伸は声の方向を見ると吹き抜けになっている二階の廊下から、貿易商が自分の部屋へ来るように手招きをしていた。火伸が部屋へ入るなり、窓側に立っている貿易商は彼に部屋の中央に置かれているミーティング用の大きな机に行くように促した。火伸が机に近寄ると神奈川県と静岡県をまたがる地域の地図が張られていた。

ノブは菊島と言う場所を知っているか?

ええ、真鶴と小田原の間にある半島のことでしょう。そう言って、火伸は机に張られた地図に描かれた菊島半島の場所を握っている鉛筆で指した。

先月、私はそこの突端にある牧場の土地を手に入れたのだ。そこに学校を建てるためにね。君には言っていなかったが、三年くらいまえからずっと準備をしていた。

火伸はこの計画を意外に思った。そもそも火伸が貿易商の口から教育に興味があると言う話は聞いたことがない。

その学校では何を、英語を教えるのですか?

火伸の問いに対して、貿易商はそうだと声を張り上げ一気に話し始めた。

その通り英語はもちろん教える。それに加えてこの学校にはもう一つ特色があってね。日本には宣教師が建てた英語学校はあるが、英語を使った会計や貿易知識などの実学を中心にした学校は日本にないだろう。もとある牧場はそのまま活用して、牧場の隣に校舎と寄宿舎を建てるのだ。そして、教師と一緒になって生徒が牧場を運営し、そこで生産をした商品を販売する。学問と実践を同時に行うところが今までにない特徴なんだ。

貿易商は地図が置かれた机の引出しから冊子を出して、地図の上に置いた。火伸は表紙を見るとそれは日本語で書かれている契約書だった。

貿易商は火伸に契約書を読むように促した。契約書は賃貸借契約書で賃貸人は農商務省所管 菊島牧場と書かれ、驚くべきことに賃借人は会社ではなく貿易商個人の名義だった。

貿易商は平然として言った。

賃借人の欄を見て驚いただろう?もちろん、取締役会で学校の開設について審議をしたさ。

彼はここで言葉を切った。

学校設立に関して、役員は、全員、反対だ。彼らは誰も協力をしようとしない。今は本業に注力すべきだという意見だ。やるならお前の金でやれということだ。私は彼らを解任してこの計画を強引に進めようかと思ったが、さすがに会社を道連れにはできなかったよ。仕方がない、私の個人の資金で進めるしかないのだ。だが、私には土地を買って、校舎を建てられるほどの資金もない。昨日も東京へ行ったのはその相談のためだったのだ。賃貸人の菊島牧場は知人の折水さんという役人が代表を務めていて、彼に頼み込んで、ひとまず土地を借りて資金の目途が立った状態で土地を購入する契約にしてもらっている。改めて売買契約を結んだ際に、それまでの賃借料は購入資金から引いてもらえることになった。

ここまで話し終えると貿易商は自分の席に戻って、机に置かれた水差しからコップに水を注ぎ、彼は一気に飲んだ。貿易商は火伸にも水を勧めたが、彼は断った。

ここからが重要なのだが、売買契約締結時から三年以内に目的の為に土地を使用しなければ、この土地は農場のままに返還をしなければならないのだ。 

貿易商は契約書を開いて締結日の箇所を指さした。

先月の十月二六日に契約をしたから、三年後の十月二六日までに校舎建設の着工をしなければ農場のまま返却をする必要がある。三年間で学校が作れなければ、農場のまま国へ返却をしなければならないのだ。だから、ひとまずはノブに現地の代表として農場を管理をしながら、学校を運営する際に必要な農作物の収穫高や気候、菊島半島に住む人たちの生活などをレポートに書いて送って欲しい。農場には従業員もそのまま残ってもらっているから実務面は彼らを頼れば問題は無い。

自分でも分かりきっていることを火伸は尋ねた。

菊島へ行くならば、ひとまず、私は商会を辞めなくてはならないですね。

貿易商は眉間にしわを寄せて言った。そうだ。ただ、五年後にはここ商会へ復職できるようにする。給料は今よりも一時的には減るが、下宿の賃料は私が負担をする。さらに学校が開設したら、君にはそれなりの立場で携わってもらいたい。

急に貿易商の声は小声になった。

それと申し訳ないのだが、ここまで話を聞けば分かるように時間的な猶予はない。

貿易商は火伸の目を見て言った。You're the only one I can count on.

火伸の耳の奥でこの言葉がロウソクの火のように不安定にゆらめいた。

火伸は貿易商と言うよりも、西洋人が弱音を吐き、自分の機嫌をうかがうような態度をとっている姿に愕然とし、言い知れぬ不安を抱いた。貿易商が契約書の説明をしたあたりから、火伸の頭蓋骨と脳味噌の隙間には牛乳を注がれたように白い膜が張り、英語が聞き取れず、声が言葉の像を結べなくなっていた。正常な判断ができず、ここで感傷に流されて、安易な判断をすれば、失敗するのが目に見えている。貿易商が話している途中で、火伸は舌を動かすのも億劫だったので、黙って一礼をして部屋を出た。

火伸は二階の廊下に置かれたイスに座って、階下の同僚がソロバンを弾いたり、タイプライターを打っているのを眺めた。You're the only one I can count on. 火伸は貿易商の声を反芻した。西洋人は自分とは違って間違いはあっても、弱さを見せないものだと思っていた。それは、彼が甲府時代に代用教員になる前、酒屋の奉公をしていた時から抱いていたものだ。英語を喋ることができれば、廊下を歩くのにも気を使うこの息詰まるみじめな生活を抜けられると信じて、仏典を読むように英語の文法書を読み、祝詞を唱えるように英語を喋っていた。火伸の中では西洋は希望であり、未来だった。自分はなんて単純な人間だったのだろう!我も人なり、彼も人なりなことに気が付かないなんて、もういい。ここで考えを断ち切った。鉈でしめ縄を叩き斬るような爽快感が全身に走った。未来から見れば、これもまた過去になるのだ。

重い足を這わすように階段を降りながら火伸はふと気が付いた。貿易商が地図の上に出した契約書を誰が英訳したのだろう。俺はいつも大事なところを後から思い出す。火伸は自席に戻ると、ぼんやりと斜め前の空席を見た。そうか、あいつは妻の実家の呉服屋を継ぐといって、急に先月辞めたが、これが理由だったのだな。


その十日後には、貿易商と折水は小田原駅の東海道線のホームから熱海鉄道のホームにい向かって歩いていた。駅の外れにある熱海鉄道のホームには紺色の半纏をきた若い車夫が待っている。熱海鉄道は車夫が客車の後方に付けられたT字の取手を押して車体を動かす人力鉄道だった。列車と違って人力鉄道は出発時間が定められているわけではなく、辻馬車のように客が来ればすぐに出発をする。彼らが乗り込むとすぐに列車は小田原駅を出発し菊島半島へ動き出した。

車夫が押す列車はゆっくりと小田原城のお堀の脇を通って市街を抜けると、青い実がなっているミカン畑の中に入った。ミカンの木々間からゆっくりと白波が立っている相模湾が現れ、その向こうに薄く菊島半島が先端には灯台が聳えていた。進行方向に向かって振り返った貿易商は半島の方を指指し火伸に言った。ほら岬の先に灯台が見えるだろう。あの下が牧場になっているんだ。駅から農場へは歩くと二十分くらいで着く。灯台の右端にある森の中は管理小屋があって、今日はそこで折水さんと待ち合わせているんだ。

今日は貿易商が良く喋った。折水が人魚のミイラを某国の博物館に売りつけた際に、博物館が本物だと誤解して、日本に人魚の調査団を派遣して大問題になった話まで披露した。

鉄道が海に近づくと、太陽の光が海へ散らかり、反射した光が火伸の目に刺さった。燃えるような青空の汗ばむような暖かい陽気だった。険しい登り道が続くと休憩のため車夫は車体のブレーキをかけて、竹筒から水を飲みキセルを吸った

ふと思い出したように、貿易商は言った。

おととしの夏にフォルモッサをうちの商会で取り扱ったことをおぼえているだろう?今、フォルモッサはこれから行く牧場で飼育されているんだ。

閣下はフォルモッサを手放したのですか?

フォルモッサを牧場に預けていると言ったところだ。もともと、フォルモッサを飼っていた男は清王朝を打倒し、明朝復活を掲げている三合会の幹部だったんだ。誰が閣下のところへこんな動物を連れてきたんだということになって、外務省と農商務省が対立をしたんだ。個人的なものだから納まったんだが、大変な事態になったんだよ。それでフォルモッサを呼んだ折水さんは一時的に牧場を経営する農商務省の外郭団体に移った。今は別の役所の方に戻られたがね。

火伸はフォルモッサと貿易商が進める学校建設の件が繋がっているような気がした。購入資金ができるまでの賃貸借契約という出来すぎた契約といいこのことと何か関係があるのではないか。

列車が菊島駅に着くと、火伸が車夫に金を払った。その金額は二時間弱、およそ十㎞を道のりを大人の男を人力で運んだにしては信じられぬほど安かった。横浜なら、もりそばが一枚食べられるくらいの値段だった。

菊島駅は丘の上にありホームからでも相模海が一望できる。駅舎を出ると目の前に湾状に婉曲した漁港と右端にある森の先にある岬に灯台が見えた。駅周辺には誰も居らず、驚くべきことに駅から牧場に至るまで道のりで誰一人すれ違わなかったのだ。駅から漁港にかけて伸びている坂を下りきり、港に入っても魚船があるばかりだった。こんなところで学校を開いても誰が来るのか。火伸は内心で思いながら、ワカメやアジの干物を干している海沿いの道を歩くと神社に突き当たり、鳥居の前を横切って山道へと進む。ここからの山道は小石で舗装をされおり、曲がりくねったトチノキの森の中に通った坂道を上ると牧場の看板が掲げられた柵の所へ着いた。ここへくると潮のにおいの中に、かすかに牛の匂いが混じる。

柵を入ると砂利が敷き詰められた緩やかな坂道に差し掛かる。柵を入ってすぐのタブノキの間から管理小屋が見えた。小屋は八畳ほどの平屋の丸太造りで、外観は潮風により全体的に黒く痛んでいる。

小屋に入るとすでに折水は椅子に座って彼らを待っていた。彼はフランネル地のワイシャツをきて、カーキ色のズボンをサスペンダーで吊っていた。この頃の折水はすでに髭を落としていた。彼の日に焼けており目じりにはしわが刻まれている。火伸は握手をした時に折水の手に自分の手と同じく掌が分厚く節くれだっていることに気が付いた。

彼らは簡単な挨拶を終え、書類の引き継ぎ終えるだけで、あっという間に一時間半が経ってしまう。秋の陽は短い。壁に懸けられた時計を見ると、折水はすぐに牧場を案内すると言い、三人は小屋から出た。すでに森の中は薄暗くなっていて、灯台の直線的な光は昏い森の中で徐々に存在感を示し始めていた。ここから岬の方へ向かっていきましょう。歩いて五分くらいで薄暗い森を抜けた。すでに水平線が桜の花びらのような薄い紅色に染まりかけていた。白い柵で仕切られた放牧地帯には牛が五頭放牧されている。折水の話だともう五頭は牛舎にいるのだと言う。外で放牧されている牛の背中は呼吸をするごとに黒く盛り上がった。牧場の中には二十メートルほどの高さの灯台が建てられており、塗られている白いペンキが西日に反射して眩しく、灯台の周りを灰のように黒いカラスが飛んでいる。

坊主頭の男が柵の前で雑草を毟っていた。顔は墨をたっぷりふくんだ毛筆のような眉をはやしており、つぎの当たった黒いどてらのとも半纏と判断が付かないボロ布を身にまとっている。男の姿は修行僧か乞食のように見えた。折水は貿易商に言った。さっき小屋で話していた管理人の土雲さんです。牧場だけでなく、そこの灯台守も兼ねているんですよ。柵の手前にある管理小屋と同じ形をした丸太小屋を指刺した。彼はここに住んでいるから、何かあったら彼に聞けばよいでしょう。

折水は土雲に声を掛けた。今度ここの運営をする会社の方々たちだよ。

土雲は彼らをろくに見ようともしないで吐き捨てた。都会の人間は何もかも金で買えると思っていやがる。折水と火伸は風が強くて土雲の声が聞こえないふりをした。

貿易商は火伸に向かって小声で叫んだ。貿易商が指差す方には柵にはリード紐が結ばれたフォルモッサがいた。火伸も懐かしさのあまりにフォルモッサの方へ駆け寄った。しゃがんでいる土雲はその姿を横目で見ている。フォルモッサは小刻みにリズムを刻み、跳ねるたびにフォルモッサの耳は風に舞って鳥の羽のようにふわりと光の中を舞っている。夕日に照らされた毛は金色に光るようだった。フォルモッサを抱きかかえようとする火伸に貿易商は言った。ノブ、フォルモッサを触るときに慎重にしたほうが良いぞ、毛がかたくて刺さるからな。

火伸は背中を上から下になでつけると、フォルモッサの姿は火伸の記憶の中よりも大きく、体毛の色も濃かった。フォルモッサの枇杷の種のような黒い目に火伸の姿が上下さかさまに映っていた。フォルモッサの目の中に居る火伸はフォルモッサが分泌する粘っこい腐りかけの果物のような匂いを嗅いだ。初めて嗅いだにおいなのに懐かしいにおいがした。


それから十日もしないうちに火伸は菊島へ移住をすることになった。

横浜の高島町にあった火伸の下宿には家財道具がほとんどなく、風呂敷に包んだ衣類を行李に入れて背負って来るだけで引っ越しは済んだ。菊島半島での火伸の下宿先は土雲の紹介をうけた駅から漁港へ繋がる坂道の間にある一軒家だった。

行李を背負った火伸がその家へ行くと、すでに玄関先にはひっつめ髪で紺の縞模様の着物を着た老婆が待っていた。彼女はしゃがれた声で家に入るように言った。茶の間へ入り、彼女は火伸に茶を入れた。この家は骨董商だった彼女の夫が建てたもので、十年ほど前に建てられたものだという。

虫の知らせがあったんだろうねェ。わらが食えるようにちゃんとやってくれて。倒れるちょっと前に、下宿用に離れを作るなんて言いだして。そう言うと彼女は茶を飲んだ。彼女は夫が残してくれた骨董を売りに小田原や熱海、湯河原の得意先へ出かけることが多く、家を空けることが多いのだという。

部屋に案内するからと、老婆に促されて火伸は彼女と一緒に玄関を出た。家にはいる時には気が付かなかったが、門から玄関の間にある敷石の間が分岐をしていて、そこから離れに行けるようになっている。通された離れには玄関はなく、縁側から家に入る作りになっている。部屋は六畳と八畳の二間で、奥の八畳間からは漁港が見えた。昼間の漁港には夫の帰りを待つおかみさんが集まっており、そのお喋りが薄く部屋の中まで入ってくる。老婆は火伸を部屋に案内するとすぐに本家へ帰ってしまった。

十一月の昼は短い。荷ほどきをして、衣類を押し入れにしまうとすぐに日が落ちた。夕方になると漁を終えた漁師たちも家に帰り、浜の人通りが途絶えると、途端に部屋の中までも波の音が部屋に忍び込んむほど静かになる。火伸は柱に掛かっている時計を見るとまだ十七時だった。普段だとまだ仕事をしている時間だ。奇妙な言い方だが、一週間前の華やかな職場にいた自分がうらやましくなり、淋しい気持ちを紛らわすために持ってきたフランクリンの自伝を読んでいると、障子の向こうから、すみません、ご飯を持ってきました、という薄紙のような白い声が聞こえる。火伸が障子を開けると年は縁側には二十歳過ぎの若い女が、食器が乗ったお膳を持って立っていた。

彼女はあの婆さんの孫だろうか。火伸です。よろしく。火伸はいつもよりも声を張り快活な調子で声を掛けた。女は小声で真魚子です、よろしくお願いします、と言って、お膳を置くなり、溶けゆくように家へ戻ってしまった。火伸は真魚子の幼い対応に物足りないものを感じつつも、お膳を見ると、金目鯛の煮つけにあおさの味噌汁ときゅうりの塩もみ、そしてごはんが置かれていた。卓袱台にお膳から食器を移すと、食べ物はまだ温かった。煮つけを箸で掴むと身が崩れそうなほど柔らかく、口に含むと厚い皮の間にあるどろりとした脂が旨い。誰も見ていないことをよいことに、魚の太い骨までしゃぶり、脂がとけた汁もご飯にかけて喰いつくした。浜の近くだからやはり魚が旨いな。火伸は淋しい気持ちも魚の煮つけを食うだけで、吹き飛んでしまうほどの己の単純さにあきれつつも、ひどく満足な気分になって早めに寝てしまった。

初日は九時に農場に来ればよいとのことだったので、火伸は八時過ぎに下宿をでて農場へ向かった。火伸は漁港を通りかかった時に、ちょっと、あんた、頭に手ぬぐいを掛けている浜のおかみさんたちに話しかけられてしまった。彼女たちに質問攻めにあった火伸はこれまでの来歴や農場のことなど、求められるまま話してしまう。ちょうど、牧場を建てられる前にサナトリウムの計画があったことを話した時に、おかみさんの一人がその話から近所にいた誰が真鶴のサナトリウムへ移ったと口走り、その話題になったときに、彼は会話から逃げることができた。

九時少し前に小屋へ着いた時にはすでに土雲は小屋の前で立っていた。彼は十日前と同じつぎが張っている半纏を着ている。火伸は挨拶をしようと息を吸った際に、先に土雲が機先を制した。 

火伸さん、あんた、生まれは百姓の家だろう。手がごつごつしていて分厚いからな。

突然の一突きで、火伸は呼吸が乱れ言葉の関節が外れ、意味の通らない返事をした。

牛舎へ行こう。土雲は火伸の目を見ずにそのまま小屋から出て行った。土雲は歩く速度が速く、運動不足の火伸は土雲についていくだけで息が切れる。この前は五分くらいかかった岬までの道のりも半分くらいの時間しかかからずについた。

岬にある灯台の下に赤い屋根の牛舎がある。その周りを二十頭ほどの牛が雑草を食んでいる。柵に入るとすぐに、置かれている天秤棒の両端に繋がっている木桶を指さした。森の中にある井戸へ水を汲みに行ってきてくれ。牛に飲ませんだ。柵の中には井戸が無いんだよ。何を言っていやがる。ほとんど初めて会った人間にあれこれ指図をされるのにはさすがに腹が立ったが、子供の時に奉公人だった習いが抜けないのか、火伸は意思よりも体が先に動いてしまう、火伸は首の裏に天秤棒を通して木桶を持ち上げた。重い棒を担ぐとぎゅっと背骨の隙間が縮む。火伸は柵の中に牛に混じってフォルモッサが跳ねているのを横目で見た。貿易商の家に預けられていた時は散歩に連れ出していたと聞いていたが、ここではその必要はないのだ。

土雲の指示で牧場内を駆けずり回った。日が落ち、牛舎に牛を入れて夕方の餌やりの仕事を終えるとようやく一日の仕事が終わった。土雲は火伸に労いの言葉もかけずに、柵の外にある小屋へすぐに戻ってしまった。彼はこの後に灯台の点検があるのだと言う。普段は机に座っての仕事なので、今日の仕事はこたえた。血管に鉛を入れたかのように全身が重い。足を引きずりながら山を降り、漁港へ入り、下宿へ帰った。離れに帰るとすでにお膳には夕食の用意がされていた。昨日と同じくご飯とあおさの味噌汁、厚揚げと玉ねぎをウスターソースで炒めたものが皿に山盛りになっている。火伸は空腹のあまり一気に食べ終えて食器をお盆にのせて本家の方へ戻そうと本家へ行くと、縁側に腰掛けて月を見ながら真魚子は湯のみにひや酒を入れて飲んでいた。縁側を指さして食器はここに置いておいてくださいと酔いで言葉が滲んだ声で言った。火伸は真魚子にお酒を一緒に飲みませんかと誘われるのを期待していないこともなかったが、特に誘われなかった。離れに入る時、火伸は意地汚く後ろを振り返った。真魚子はそのままの姿で湯のみを傾けていた。


火伸は下宿から毎朝七時に牧場に通う。牧場に着くとまず牛舎に入って牛に牧草を与え、搾乳をする。土雲と分担をして五頭の牛の乳搾りが済んだ後に、土雲は灯台守の仕事のため、いったん牧場から離れ、灯台の中へ入る。その間に水汲みと火伸は牛乳を金属の容器に移し替える作業をする。土雲が再び戻ってくると二人で牛たちを牛舎から出して糞の清掃を行う。この作業が終わると十二時を過ぎる。

昼食の時間だ。下宿では弁当を出してくれないので、昼食は牧場の一角にある農場で栽培している茹でジャガイモに塩を振ってバターを塗ったものを、熱い湯と一緒に柵の外に置かれたベンチで土雲と食う。

この牧場はもともと農商務省の管理だったとは思えないほど小規模で平凡なものだった。唯一、先進的だと火伸に思われるのは、農場の一角が農園になっており、セロリとかアーティチョークなど、日本では始めて見る西洋野菜が栽培をされているくらいだった。時折、火伸もジャガイモと一緒に茹でたアーティチョークに塩を降って食べるが、豆のような味がして特に旨いと感じなかった

午後に入ると午前中に作業をした牛乳の入った容器を小田原の業者に渡し、再び牛を牛舎へ入れる。牛舎へ牛たちを入れた後に夜の餌を与えると五時になり仕事が終わる。土雲は柵の外にある小屋へ帰り、火伸は二十分かけて下宿へ帰る。

土日は、春日と言う菊島町の役場に勤めている春日という男が酪農の作業を変わってくれるので、土曜は週の売り上げの帳簿付けと貿易商への報告書の作成日にあてる。報告書は月末に貿易商へ送ることにしていて、内容はその月の牧場の売上に加えて、菊島半島の風土やこの地域の学校の分布について学校建設に役立ちそうな資料も付け加えていた。

日曜日は休みだが、六日間働いた後だと目覚めていても背中が鈍く痛んで起き上がれない。布団から這うように起き出して、離れの縁側で茶を飲みながら海を眺めるとあっという間に日が暮れてしまう。

こうした生活を三か月も続けていくと、横浜時代には常にたぎっていた不満が無くなってきた。横浜に居た時は、早く出世をして金持ちになりたいとか、芸者をはべらせたいとか、良いコートが欲しいとか、この世の貧乏をなくしたいとか、家族を持ってみんなで仲良く一家団欒をしたいとか、凡庸な欲望とか理想というものを人並みに抱き、それがなかなか得られないと不満を抱いたり、努力をしようと発奮したものだが、ここにいると世間と言うものを忘れてしまい、牛のことや昼飯のじゃがいものことをだけを考えて日々を過ごす。そうすると、すぐに月は輝き、日はまた昇り、月曜の朝を迎える。


土雲は火伸よりも十歳ほどの年長で、もともと浜松で巡査をしていたのだという。彼の妻は浜松時代に居た時に亡くなり、それ以来ずっと独身で、今はフォルモッサと一緒に牧場内の小屋に住んでいる。土雲は妻が亡くなった後に、上役の横暴な態度に腹を立てて殴り、警官を解雇された。その後に知人の伝手で岩手の牧場で働いていたところを、折水と出会って、ここで働くことになったそうだ。折水は土雲のどこを気に入ってこの牧場へ呼んだのだろうか。思い当たるのは、修道僧のような真面目さであると思う。実際に火伸は日曜日を休みに当てるが、土雲は日曜も春日と働いている。最初に土雲に会った時に放ったすべてを金で買えると思っていやがるという言葉は都会者に対する嫌味も含んでいるが、彼の潔癖な性格からくるものだろう。ひとりぼっちで岬で暮らす孤独か、あるいは何かの劣等感を埋めるために、彼は火伸よりも熱心に牧場に届けられている新聞を読んでいて、自分なりの感想を帳面に書き写しているらしい。昼飯時などに、土雲は新聞で仕入れた情報の断片をつなぎ合わせて、外人に媚びへつらう鹿鳴館外交を批判し、都会の婦人の堕落を嘆き、財閥の金権体質を口汚く罵り、そのことについて火伸に同意を求めた。火伸はその主張に同意をするわけでもなかったし、かといって土雲の機嫌も損ねたくもなかったので、曖昧に返事をするだけだった。火伸自身も土雲に罵られる対象であるような気もするのだが、分厚くて節のある手をもつ農家の息子であるという一点で自分と同じであると判じているのだと思う。

土雲は昼飯も食べ終わると柵に繋がれているフォルモッサのところへ行って煙草を吸いながら首回りをかいてやりじゃれている。その姿を火伸は眺めていると土雲はフォルモッサに俺よりも懐かれているなと軽い嫉妬を覚えるほどだった

彼は毎日夜の九時ごろに小屋をでて灯台へ点検のために小屋を出る。この灯台は最新の設備が光源も含めてすべて電気で賄っているので、灯台守と言っても付きっ切りで火の番をしなくて良く、朝と夜に二回ずつ設備の確認をすればよい。それでも、嵐の時は灯台の中で一夜を過ごすのだと言う。

火伸も一度彼に頼んで、気候が良い春の夜に灯台の点検についていったことがある。

その時は、五時に牧場の仕事が引けた後に下宿へ帰らずに火伸が暮らしている小屋に留まった。土雲は茹でたジャガイモと塩焼きにしたイワシに酢を振ったものを出してくれた。九時近くになると二人連れたって西洋風の菜種油を燃やしたランタンを持って灯台に登る。入口のドアに建てられた杭に繋がれたフォルモッサを首だけ出して麻袋に入れて、リュックのように背負った。こうすると温けぇんだ。一人で置いとくわけにもいかんからな。麻袋から首だけ出したフォルモッサは垂れた耳を顎の下で重ねていた。

夜になると風が強くなり風圧が顔に当たり頬が揺れる。耳がおかしくなったのか、柵に入ると外は昼間のように波の音も牛の鳴き声も何も聞こえない。聞こえるのは草を踏み鳴らす音と灯台の回転する光だけだった。この光があるからか、薄いランタンの光の必要は薄かった。火伸は昼間には何も感じなかったが、夜の灯台は山だと思った。酒屋での奉公時代に夜の配達のときに山が恐ろしかったことを思い出した。山が怪物に見えるとかで何か理由があるのではなく、ただ、山が怖い。反射的に靴の中で足の指を縮ませた。

灯台の根元の部分に引き戸があって、バインダーに挟まれた点検簿が置かれている。土雲は火伸が居ることなどお構いなしに、点検簿を手に取るとずんずんそこから頂上までらせん状の階段を登る。一瞬間を開けて、ふと見上げるとランタンの光で照らされる彼の姿は小さくなっていた。フォルモッサの真夏のようなにおいも薄くなる。慌てた火伸も遅れまいと駈足で登った。外から見るよりも実際の灯台は高いのかなかなか頂上までつかなかった。夢でも見ているのか、あるいは日常が夢なのか。分からないがひたすら登りつづけた。土雲は登り切ってしまったらしく、頭上の光は消えていた。火伸は闇の中をひたすらに駆け上がっていた。頭の空気が薄くなり、体の先の力が抜け始めても、火伸は駆け上がることは止めなかった。坂道を駆け下りるように、右足が左足を誘い左足が右足を誘う。もう、自分の意思では差しの動きを止められなかった。体に湯気が立ち上るのを感じた時、上の方に彼はくっきりと光の隙間があるのが見えた。光に群がる虫のように体をぶつけるように行き止まりの扉を開けた。真っ白な部屋に透明な二つの目玉が円形の部屋の中を回転木馬のように回っていた。目玉はレンズで光を増幅させるのだ。

遅かったな。土雲が言った。彼の背負っているフォルモッサはまぶしいのか麻袋に顔を隠していた。火伸は背中を丸め、喘えぎながら言った。こんなに灯台が高いとは思わなかった。

部屋の中は強烈な光に包まれている。とても地球にある光とは思えなかった。手のひらで握りしめられた銀河の中に投げ込まれたようだった。この光の正体は何なのか知りたがったが、レンズに邪魔されて光源の姿は現さなかった。火伸の内側を見透かすように、土雲は言った。光源はちっぽけなものだよ。火伸はこの光源を見たかった。どんなに眩しいものだろうか想像もつかないほどだった。レンズを止めてやるよ。土雲は言って、配電盤を操作してレンズを止めた。隙間から見えた電球は火伸の離れにある卓上のスタンドと同じくらいの大きさの弱い光だった。


月一回の頻度で給料の為替小切手と共に貿易商は火伸に手紙を送ってくる。書かれている内容は、前回の報告書の感想や近隣の学校の在籍人数など調べてほしい内容についての指示がほとんどだった。今回の手紙には初めて貿易商会の経営についても書かれていた。

昨年から欧米では化学繊維であるレーヨンが安価になったことで急速に普及し、生糸の需要が激減したのだという。世間の動きは自分でも予測できない段階に入ってきた。生糸の輸出はもはや主力にはならない。機械式の生糸か手巻き式の生糸の戦いではなくなり、予想しないものが現れてすべてを掻っ攫うと手紙は結ばれていた。

このままでは、学校どころか、貿易商会もどうなるかわからない。火伸はそう思いながら、この手紙を読み終えると、火伸は本を読んでいる真魚子の猫のような丸まった背中を眺める。この手紙は真魚子が離れまでに持ってくれた。火伸が離れに住むようになって半年も経つと、真魚子は火伸に慣れて、離れに入り浸るようになった。今日は手紙を持ってきた後も、小机に置かれているディケンズの二都物語の翻訳本を開いて読んでいる。真魚子は火伸に本の内容を聞かせたいのか、窓の外の海へ向かって音読をしている。 

ちょうど真魚子が読んでいたのは、登場人物が夜のパリを彷徨い、一組の母娘がぬかるんだ道で立ち往生しているところに出会うところだった。娘を乾いた道まで運び、男は別れ際に娘の腕にキスをして呟く。イエス、言いたまう。われは復活なり、生命なり、われを信ずる者は死すとも生きん。およそ生きてわれを信ずる者は、永遠に死なざるべし。老婆と二人きりの生活で、あまり喉を使っていないのがよいのか、真魚子の声は通りが良く美しい。もう一度、その一節を呼んでくれないか?火伸に言われた真魚子は背筋を伸ばして再び読んだ。

イエス、言いたまう。われは復活なり、生命なり、われを信ずる者は死すとも生きん。およそ生きてわれを信ずる者は、永遠に死なざるべし。

火伸は目を瞑りこのイエスの言葉を聞いていると火伸は永遠に生きられそうな気がした。

それが理由というわけではないのだが、その後まもなくして火伸と真魚子は結婚をし、火伸が下宿をしている離れに真魚子と暮らし始めるようになった。

結婚した翌年の春、真魚子は自分の体の変調に気が付き、彼女はこのことを牧場から帰ってきた火伸へ告げた。

ツクツクボウシが鳴き始め、夏の暑さにから秋の涼しさが混ざりはじめる頃、とうとう真魚子が出産しそうだという時になっても、火伸は牧場を休まずに牛の世話をしていた。土雲と昼飯のジャガイモを食っている最中に、老婆が牧場に走るようにやって来て、子供が生まれたことを教えた。老婆から話を聞くや否や、火伸は老婆をおぶって家まで向かって駆け出した。今となっては信じられないことだが、その時はそうすることが正しいことだと思っていたのだ。老婆も火伸の奇矯な振る舞いを受け入れたのも、孫娘の出産と言う一大事だったからなのだろうか。彼女は火伸のふるまいを自然なこととして受け入れた。火伸は老婆を背負いながら、坂道を駆け下り、港を抜け、また坂を登って家の中へ入った。火伸と老婆の姿に唖然とする産婆や手伝いに来ていた真魚子の従妹たちの視線も気にせずに、火伸は真魚子のもとへ、子供のもとへ駆け寄った。

真魚子の内に抱かれている赤ん坊の顔を覗き込むと、産まれて二時間あまりだというのに、子供は意思を持って目をはっきりと自分の方に向かって動かしている。この子は生きている。この瞬間に火伸は赤ん坊に自らの時間を譲り渡し、赤ん坊から活力を譲り受けたのだ。

赤ん坊の名前をどうするのか。役場へは二週間以内にこの子の名前を届けなければならない。老婆は地元の寺に居る僧侶が姓名判断に詳しく、この地域の子どもは皆彼に名づけてもっているから、彼に名前を付けて貰うように主張をしたものの、火伸は珍しくこの申し出を断り、穏やかに啖呵をきった。あの子の名前を決めるのは、自分たちで行いたい。これは私たちの人生の一番重要な仕事なのです。しかし、それから三日が経ち、一週間がたっても火伸たちは赤ん坊の名前が思い浮かばなかった。真魚子ですら、老婆がいないときに、火伸ではなく別の誰かに名付け親を変えてもらっていた方が良いと言ったほどだった。

言葉は突然やってくる。いつものように、夜中に数時間ごとに泣く赤ん坊を真魚子と交替であやして、ようやく夜が白くなり始め、赤ん坊が眠った後、疲れた火伸は真魚子と並んで海を見ていた。夜明け前の水平線に赤みが刺すこの時間が、港が賑わう時間で、湾には漁船がひしめいている。火伸も舟をこぐ彼らの大部分を知っていた。善吉、辰之助、林三郎、政、勝、周吉。小舟をこぐ彼らのひとりひとりにも名前があり、両親にも、祖父母もの世代にも名前があり、子供たちにも、孫たちたちにも名前を付け続けるのだ。そう、人類が続く限りは名前を付け続ける。名前は不滅の発明であり、それは途方もないことに思えた。そのようなことを波で揺れる船をぼんやりと眺めている時に一つの言葉が、火伸の内側へ歩いてきた。横にいる真魚子にその言葉を告げると、良いわね、とっても。そういって彼女は寝ている赤ん坊の方を見た。

次の日曜日の朝に、老婆に言われて火伸は皆の見ている前で赤ん坊の名前を書くことになった。役場には届けを出したのだし、名前を書く必要はないのではないか。火伸は言ったが、そういうものではない、国なんかいつ倒れるかわかったものではない、だいたい人生で一番重要な仕事は役場に届けをだすことではないだろう。今度は老婆の言葉に火伸が折れた。赤ん坊が生まれたころは夏と秋の空気が混ざっていたが、その日はすっかり湿度の低い秋の空気になっていた。老婆の指示の下、火伸は庭に井戸で水垢離をおこない、赤ん坊を抱いた真魚子と老婆が見守る中で、仏間のささくれ立った畳の上に火伸は新聞紙を敷いて紫色の下敷きを重ねた。その上に半紙を置いて毛筆で赤ん坊の名前を書いた。

火伸空という名前だった、その最後の一筆の横棒を書き終えた瞬間、墨で書かれた自分の文字の中に脈がうって血が通いモンシロチョウのように墨跡が風に吹かれて空を舞い、自分の手をすり抜けていくように感じられた。


明治四十二年十月二十六日、この日は、貿易商が菊島半島へ来た最後の日だった。

火伸は貿易商が十三時に来ると聞いていたので、その十分前には小屋の前で立って待っていた。自動車の助手席から降りた貿易商は三年前よりも貿易商は背丈が縮んでいるように見え、生え際のあたりも薄くなっていた。反対に後部座席から降りた彼の妻は肌つやが一層良くなっており、まだ幼かった彼の子供たちも大人の顔つきになり、最後にあったときの弟は彼の腰ほどの背丈だったのに、火伸の背をだいぶ越していた。君も随分と火に焼けてたくましくなったな。火伸の手を強く握って貿易商は言った。貿易商の子どもたちは日本語が喋れるので、春日を役場から読んで牧場を案内させた。伸は貿易商と小屋に入るなり貿易商は言った。手紙にも書いたが、折水さんへ頼んで、君にはこのまま農場に残っても構わないと言質を取り今日はその契約書を持ってきた。ここにサインをしてくれれば明日以降も継続してここに通っても問題はない。貿易商は鞄から書類を出して机の上に置かれた。すでに貿易商と農商務省の記名と捺印がされていた。

日本語で署名を終えると火伸は尋ねた。商会の方はどうなるのですか?

来月に私の持っている自社株式をすべて売却する目途がついた。あと半年早く売却できれば、来年の今頃はここに校舎が建ち、君が校長になっていたのだ。来週の水曜に日本を去るから、家も売却した。だから今日は家族連れなのだ。これで、学校建設に当てた資金も、会社の借金も返せる。上海に戻って、最初からやり直しだ。貿易商は力なく笑った。

火鉢に置かれたやかんが沸騰したので、火伸はポットにお湯を注ぎ、貿易商にカップを差し出した。この日のために貿易商の好きなアールグレイの茶葉を買ったのだ。部屋の中に紅茶のにおいが満ちていた。普段は番茶やお湯しか飲まないので、このにおいを嗅ぐと昔の横浜のホンチョ・ドーリにあった商会時代を思い出す。火伸は貿易商にまだ聞いていなかったことがあった。

どうして学校を作ろうと思ったのでしょうか。

君も四十を過ぎるとわかるよ。自分や家族だけに時間を注ぐだけでは虚しくなるんだな。君も山梨の生糸会館であった生糸売込商がいただろう?彼は機械がそのうち人間の代わりになる、完璧な仕事で安価な製品を作れるとね。その時に私は言っただろう。たとえ、今は機械に負けても、三百年後、二十三世紀に生き抜くことができる人間を育てたいとね。人間だけが持つ力を使ってね。

ここまで貿易商は話すとカップを口に着けたまま黙った。

しかし、私は何が重要かということが分かっていなかった。のぼせ上がって足元が見えなくなる。本当に大切な目の前のことがいつも見えず失敗する。そう、昔からな。過去と和解できたように思えても、結局いつも同じ過ちを繰り返すのだ。


彼らは牧場へ向かおうと小屋を出ると入れ替わりに春日が小屋へ入ってきた。春日は十五時に来る郵便を受け取るために戻ってきたのだ。火伸は火鉢の番を頼み外へ出た。砂利道を登りながら貿易商は火伸に言った。子どもたちにフォルモッサを見せてやりたくて、わざわざここへ来たのもあるんだ。家で彼らの描いたフォルモッサの絵を飾っていたんだ。今日一番弾んだ声をしていた。

砂利道を登り、貿易商たちが牧場へ着くと、娘は妻と話しておりフォルモッサへ殆ど見向きもせず、息子は腕組みをして彼らは遠巻きに跳ねているフォルッモッサを眺めていた。

その様子を見て、家族が見えない位置で貿易商は立ち止まり、ひとりごとのように呟いた。もう大人の反応だな。この前までは抱きついていたのだが、といっても六年も前の話だがな。

貿易商は火伸の方へ声を張って尋ねた。ノブ、あの灯台の下へ行っても良いか?

貿易商は家族を見向きもせずに大股で柵へ入り、牛の間をすり抜けて火伸と共に灯台の下まで歩いた。ふと、火伸はフォルモッサを引き取りに行くときに雨の海岸通りを歩いた時のことを思い出した。貿易商は灯台を見上げた。灯台は力強く灰色の雲に光の輪を描いていた。貿易商は崖の転落を防止する柵へ寄りかかり相模湾を見た。雲が音を吸い取ったのか、不思議と波の音はしなかった。

そういえば、君も去年結婚をしたのだろう。

えぇ、先日男の子が生まれました。

良かったな。子供は一日ごと、数十分、目を離しただけでも成長をするからな。

そこまで言って、貿易商は海を黙って眺めた。火伸は自分の心臓の鼓動が聞こえる様だった。

疲れたよ。俺はずいぶんと遠くまで来てしまったな。髭をそるために洗面所の鏡を見るとぞっとする時があるよ。こいつは誰だってね。子供の頃は親父のプラム農家を継いで、地元の娘と結婚して一生を終えるとばかり思っていた。ボタンの掛け違いというものかな。地球を半周してしまった。

そういって思い出したように言った。君、煙草を持っているか?久しぶりに吸いたくなった。

火伸は金鶏という安い紙巻き煙草に火を点けて差し出した。煙草を挟んだ貿易商の指は伸びていた。火伸は貿易商が煙草を吸っている姿を始めて見た。

遠くの方で声が薄く聞こえる。声の方に振り返ると、小屋へいるはずの春日がこちらに向かって走ってくる。フォルモッサは春日とも貿易商の家族とも無関係に牛の間をすり抜けていた。


貿易商が学校を作ると言いだしたのも、火伸をこの場所に住まわすために考え出したのではないか、この根をたどると、貿易商が日本へ来たのは、ヨーロッパで蚕の疫病が発生したからだし、火伸の代用教員になったからだ。この場にいるのも単に偶然が重なったことにしか過ぎない、そう考える火伸の横を左右に体を揺らした空が歩いた。

貿易商が国へ牧場を返しても火伸の生活に変化はなかった。月曜から金曜までは朝七時から五時まで働き、土曜日に週の売り上げを計算する。違いと言っても、貿易商のために報告書を書かなくて済むくらいだった。

空が歩けるようになると、真魚子は週の半分くらいは空を連れて昼前に火伸と土雲に弁当を持ってくるようになった。空は同世代の子どもたちに比べてもひときわ頭が大きい。歩くと数メートルごとにバランスを崩して転んでしまう。転んでしまう空を助け起こすのは火伸でも真魚子でもなく、土雲だった。土雲が表情を引っ込めて泣く空の頬を人差し指いで撫でてあやす姿を見るとと彼の果たされなかった父性を感じて火伸は淋しい気分になる。

真魚子が持ってきた梅干しの入った握り飯を食べながら、突然に土雲は真魚子に灯台を上ったことがあるかと聞いた。

いいえ、ありません。そこからは東京は見えるのかしら。あァ、今日は天気が良いから、うっすらとだがね、見えるかもしれんな。本当に。嬉しいわ。私は東京に行ったことがないから、一度でよいから東京を見たかったの。空ちゃんにもそこからの眺めを見せてやりてぇしなァ。準備するから、待ってな。そう言って、フォルモッサを麻袋に背負うと灯台の中へ入ってしまった。

しばらくすると、土雲は灯台の光を外へ放つガラス戸からガラスを囲むバルコニーへ出て、彼らに向かい手を振ると彼らも灯台へ向かった。空をおぶった火伸が灯台の引き戸をあけて、真魚子を先に行かせた。灯台内部にある階段の中にはクリーム色の壁が柔和に光る。土雲が上の扉を開けてらせん階段に光が入るようにしてくれたのだ。ちょっと環境が変わるだけで泣く空が、慣れない場所に入っているにも関わらずぐずらなかった。大丈夫か?真魚子に声を掛けると、真魚子は息が上がっている。彼女はさすがにばてたらしく、立ち止まってしまいそうなので、真魚子の軽く背中を押してやった。首筋からうっすらと汗のにおいがした。彼らは階段を上り切り、てっぺんまでくると土雲が待っていた。

五人は灯台の外へ出た。土雲は真魚子に東京はこっち側から見えるだろうと言った。あっ、あれ?あの黒いの?真魚子が裏声で叫んでいる。彼らからすこし離れた所で火伸は空を抱いて海を見せた。海は凪いでいて、氷のように滑らかだった。

土雲は火伸に声を掛けた。火伸さん、こっから見えるのは東京だけでないぞ、この海の先にカリフォルニアがあるんだ。カリフォルニアには五年前から俺の弟が家族を連れてそこで働いている。冬の朝だと見えるかと思って、朝行くんだがなぁ、なかなか見えんね。 

確かに太平洋を越えてアメリカまで見えそうなほど、今日も素晴らしく晴れていた。

確かにこの天気なら、アメリカ大陸が見えるかもしれない。火伸は目を細めて海と空の間を見ても、ただ白い場所があるかりであった。灯台からはアメリカの陸地は目を細めてみても見えなかった。土雲は見えるといつていたが方角的にあっているのだろうか。ただ、真魚子も空も土雲もフォルモッサも黙って白い場所の一点を見つめていた。五人が眺めていればきっと大陸が現れるのではないか、火伸は信じて疑わなかった。この眺めている間は幸福な時間でも刺激的な時間でもなかった。時間が流れている。ただ、それがかけがえのないものに思えた。

彼らが海を見ている時に、海風に紛れて蠅が灯台の方へ飛んできた。蠅は土雲が背負っているフォルモッサの耳に停まった。フォルモッサは耳のひだを挟みこんで蠅を閉じこめる。筒状になった耳の先をストローのように口元にくわえ中に閉じ込めた蠅を吸い取ってしまう。その姿を真魚子に負ぶわれた空の小さな目はじっと見ていた。ほぼ毎日フォルモッサと遊んでいるにも関わらず、空にとってはフォルモッサはいつも驚きの対象で、その姿を見ていて飽きることは無かった。それは何もなにもフォルモッサだけではない。空にとってこの世界は驚きに満ちている。相模湾からの吹き付ける風も、太陽から降り注ぐ光も、真魚子が作る味噌汁の風味も、寒くなると白くなる自らの息も、その世界の全てに慣れておらず、それに出会うたびにいちいち驚き、悲しみ、怒り、喜ぶ。自分は世界に開かれている。これは空だけにもたらされた特別なものではなく、誰しもが、生まれてから五年くらいは持っているのだろう。

空がその世界の感覚を徐々に失うに比例をして生活に必要な知識を得ていき、完全にその感覚を失う前に戦争で死んだ。戦況が激しくなり空が兵隊に招集された時は、火伸は悲しかったが、悲しい、早く戻ってきてほしいとは言えなかった。彼はすでに妻と子供がいて、火伸と一緒に牧場を手伝っていた。しかも、彼はすでに土雲の後の灯台守として、元は土雲が住んでいた小屋に結婚したばかりの妻と息子と一緒に住んでいた。彼には彼の生活がある。あまり、彼に干渉ができなかったし、近所の若い男たちも皆招集されていたので、表だってそんなことを言えるほど彼らは強くはなかった。空の配属先は九州の対馬や桜島あたりの支援が主だと聞いていたので、激戦地へは送られないと火伸と真魚子は安心をしていたが、戦況の悪化によって、空は最前線の部隊へ配属をさせられたのだ。

二月下旬の冬の底がうったように徐々に温かさが感じられた日のことである、空が南方の島で死んだという連絡を空の妻から火伸が受け取った時、突然、彼は灯台の点検をすると言い始めて、真魚子を驚かせた。

何もこんな時に、薄暗い家に私を一人に残すようなことをさせなくていいじゃありませんか、役場に行けば変わってくれるじゃないの。真魚子は涙を流して叫んだが、驚くべき強情さで火伸は彼女の言うことを聞かなかった。空が徴兵された後は、役場の人間と漁港の組合長と火伸の三人交替で灯台の点検をしており、確かに今日は火伸の当番だったものの、真魚子が言うように、残りのどちらかへ連絡をすれば代わりの人間を出してくれるし、そのことで文句を言うものはいないはずだ。しかし、今夜だけは自分が灯台を守らなければいけない、これは自分の使命なのだ。火伸は真魚子にひたすら同じことを呟いた。ささくれ立った畳の上で空と書いた時に自分のもっとも重要な仕事は終わったと思っていたが、そんなことは無かったのだ。まだ自分の仕事は残っている、それが今夜、灯台の点検をすることなのだ。

夜の海風はまだ刺すように冷たい。老いてすっかりたるんだ肌の上にらくだを二枚重ね着して、それからワイシャツを着る。シャツの上にセーターを着て、その上からさらに紺色のどてらを羽織り、ダメ押しで昔、横浜時代に馬車道の洋服屋で誂えた穴が所々あいているコートも着て外に出た。神社の脇道から森に入ると空が死んだ南方のジャングルへ繋がっているような気がした。火伸は灯台へ行く道すがら、わかりきっている灯台の点検の順番を頭の中で復唱をしていた。牧場は戦争に入ってから、牛を飼う余裕が無くなり、畑になっていた。畑を通り、火伸は灯台の下の引き戸を開けて、懐中電灯を持って真っ暗な階段を上がった。コンクリートの床が冷えきっており、一段ごとに膝関節の隙間に冷気が直撃する。ここで立ち止まったら、その瞬間に自分は動けなくなってしまうのではないかと思う。火伸はひたすらに階段を上った。今日は冷え一段とひざが痛む。眉間にしわを寄せ、膝に手を当てながら、やっとの思いで、頂上まで着くと倒れ込むようにして扉を開けて光源の部屋へ入った。今日もガラスの目玉は部屋いっぱいに回っていた。エンジンのおかげで、室内は温かい。部屋の暖かさとレンズがいつものように動き部屋が光で満たされている様子をみて、急に力が抜けて座り込んでしまった。やっとの思いで立ち上がりバインダ―に挟んだ点検簿へ記入した。窓の方をみると外の様子がいつもと違う。東の空が真っ赤なのだ。空の赤味はガマガエルの腹のように収縮を繰り返していた。火伸はそれが何かわからず、ただ綺麗だと思った。何かに気が付き、うっと、息が漏れ、後悔をした。そうか。空の赤い下で人々は重なり、呼吸ができす、焼け死んでいるのだろう。そう思うと急に、火伸の視界は涙で歪んだ。多くの死んだ人のことも思うと悲しいが、死んだ人の親の気持ちになるとたまらなくなるのだ。悲しさに比べて、思いのほか涙は出なかった。いつの間にか、火伸の体は乾いていた。海を見ながら赤ん坊だった空と真魚子と一緒に見た海の風景を思い出した。自分の中でも幸福な時だった。あの時と同じように海を見た。空の赤みに負けないほど満月が光り、波は月で輝いていた。


偶然だが、空から五代先の子供の名前も空と言った。彼の両親はかつての火伸家の中に空と言う名前の人物がいることは知らずに自分の子どもに空と名付けた。両親はいくつかの姓名判断のサイトを比較して調べた結果、一番字画が良い名前が空だったので名付けたと空は聞いている。

空は両親と高校生の弟と一緒に小田原競輪場近くにある古いマンションに住んでいた。国産車の販売店に勤めていた祖父がこのマンションを勝った時に火伸家は菊島半島から小田原へ引っ越しのだ。空の母親は介護の仕事をしており、父親は海岸沿いのホームセンターに勤めており、空も地元の工業高校を卒業後に、高校の紹介で菊島半島にある国営の野菜工場に就職しており、週五日働いている。

平日は夜勤の母親の代わりに、空は朝の五時半に起きて父親と自分、弟の弁当を作る。弁当の中味は冷凍のご飯を電子レンジで解凍し、大豆ミールと豆苗の炒め物とをタッパーに詰めたものだった。大豆ミールとは大豆をすりつぶして粉状にしたものを豚油と一緒に固めたものを醤油風味で味付けをしたもので、鶏肉のミンチのような味がする。肉は高いので買えないが、野菜だけではものたりない、だから昼は大豆のすり身を食べるのだ。

今日も母親は帰ってこないので、男三人で、弁当の残りで朝食をとると、洗い物は父親がやると言うので、空はいつものように朝のニュースの天気予報が始まる七時二十四分に家を出る。今日の神奈川県西部は晴れのち曇り、小田原市の最高気温は十五度、最低気温は。空はお天気キャスターの声を後ろで聞きながら、玄関を出ると、歩いて駅に向かう。空は服装には構わないほうなので、この季節は厚手の茶色のフリースに学生の頃から履いているジーンズといういでたちで、いつも同じ格好だった。彼は小田原駅から菊島駅まで小型のマイクロバスのような電車に乗る。茅ヶ崎から熱海にかけては過疎化が進んでおり、空が小学生だったころから車両がどんどん減らされるようになり、今では電車の車両もバスのような一両車両だった。ジーンズのポケットからスマホを取出し、中学時代から空と付き合っている彼女にメッセージをおくったり、ちぃかわのパズルゲームで遊んでいるうちに菊島駅にすぐに着いてしまう。

菊島半島では牧場はとうの昔に姿を消し、岬の灯台も打ち壊された。代わりに建てられたのが、ビニールシート張りの野菜工場と風力発電のためのプロペラだった。

駅前の町なみも変わった。数年前に、五年以上放置された空き家は国が接収して取り壊す法律が成立したことで、駅前から民家は殆ど姿を消し、その跡地には白い砂利が巻かれている。砂利は港へ向かって敷き詰められており、海から見ると敷き詰められた白い小石が敷き詰められた丘は太古の古墳のように見えた。

自動改札を抜けると工場へ架けられている専用の橋を渡る。この橋のおかげで明治の頃のように港へ降りずに岬へ行け、駅からは十分くらいで工場へ着く。

工場は氷のような薄い透明感があった。透明なビニールは周囲の風景と馴染む、外と建物の境界があいまいになり、存在感は薄いが、見えないがゆえに、天からビニールを垂らしたかのように、途方もなく大きく見える。空が入口のゲートを抜けると一面にLEDに照らされたキャベツ畑が広がり部屋の中は均等に明るかった。温室内では、棚とビニールカーテンでゾーンに仕切られていて、キュウリやトマトなどの野菜を栽培するゾーン、米を栽培する穀物のゾーンに分けられている。

これらの栽培する品種は、出荷先のスーパーや商店にあるレジのデータを集計して、売り上げから、消費者の好みをAIが解析をする。この情報をもとに機械で種まきをし、余らないようにコントロールをして市場へ出荷される。これらの工程は機械化されており、工場内は省人化され水撒きも収穫もロボットで行う。ここで生産されている作物は全体的に透明感があり、色が鮮やかで、プラスチックのような清潔さがあった。

こうした農業工場が政府主導で全国各地に作られるようになったのは、二十一世紀が半ばに入って、日本が慢性的な食糧不足に陥ったからだ。

二十世紀後半から進んだ少子化によって、後継者不足による耕作地放棄が深刻化し、食料自給率の危険水域まで下落した。内で作れないなら外から買うしかない。十九世紀の生糸と同じ理屈で輸入食料に頼っていたものの、2020年代に発生したコロナウィルスの影響やロシアのウクライナ侵攻の長期化により、海外においても農産物全体の生産量が減り、日本への輸出量が激減した。さらに30年代に入ってから、石油などの化石燃料は枯渇し始め、供給量が減少したことにより、かつてのように大型船が頻繁に航行できなくなってしまったのだ。このことにより、日本に入ってくる農産物の輸入量も激減し、日本は慢性的な食糧不足に陥ることになり、政府は国民に栄養不足を補うためにゼリー状の栄養剤を配布する事態になっていた。こうした食糧危機への対応とさらに地方で深刻化する若者層への就業対策として、政府は市町村ごとに農業工場を建てたのだ。

空は工場の内部に建てられた白い管理小屋に入り、更衣室で白の作業着に着替えると事務所へ入った。工場で働いているのは火伸を含めて十二人だった。この工場ではロボットが収穫や水やり、梱包もすべてやるので、この人数で賄うことができる。作業員の八割は、空を含めた技術者で機械が壊れた時に修理を行う職種で、残りは農作物の出荷先との折衝を行う仕事をしている。

グエンさんは空が事務所に入るなり、駆け寄って話しかけた。火伸くん、この前言ったけども、今遅れずに十時にゲートのところに来てね。アライさんにも話してあるから。今日は小学生が社会科見学でこの工場に来る。グエンさんはヴェトナムから日本に来た移民二世で総務の仕事をしており、社会科見学では、彼女が工場の概要を説明し、自分が機械の詳細を補足説明するのだ。

空はグエンさんが工場の説明をほとんどしてくれるので、空は横で立っていて時折彼女が話しかける質問に答えればよくて気が楽だった。普段の仕事も機械の点検が主で、新しい機械の導入や故障などイレギュラ―の事態が発生しなければだいたい定時に帰宅できる。

空が朝の機械の点検を終えて事務所へ戻ると、すでに工場のゲートのところに二十名ほどの小学生が列を作っていた。空の直属の上司であるアライさんがその姿を見て空に向かって言った。今日の学校は人数が多いな。午前の日程は昼過ぎまでかかるかもな。昼飯は先に食っておくから。そういって、アライさんは現場の方へ向かった。

グエンさんの隣に立って小学生の前に立っていた。

学校の先生に目くばせした後にグエンさんが声をかけた。

みなさん、こんにちは。グエンさんはスマホ大のプロジェクターを掌に載せて説明を始めた。この機械はボタンを押すと説明資料が宙に浮かんで映し出される。今日の工場見学は小学校一年生と二年生が合同できている。彼らは空の子供時代に比べると、体格は小さく、その影響で皆頭が大きく見えた。二十人もいると体を左右に揺らし、落ち着きのない子もいて、グエンさんの説明中に前へふわふわと歩いてくる女の子もいる。黄色い帽子をかぶっている一年生の子どもだった。LEDの照明に照らされた苺畑を見て叫んだ。いちごぉう、いちごぉうぉだ。グエンさんはそう苺ね。いちごは大好き?うん。お昼にはいちごを食べるからね。子供たちの間からうぉーぃ、うぉーいと波のようなざわめきがでる。そうか、今の子供は苺だけでこんなに喜ぶんのだなと思うのと同時にグエンさんの返しのうまさにはいつも空は感心する。自分だったら無視をするか、苦笑いして学校の先生の助けを待つだろう、自分はコミュ障なのだ。

今日、午前中にこの工場を見た後に、お昼を海岸で食べた後に種を保管している倉庫へ行きます。皆さんの見学にはこの工場の機械について詳しい火伸空さんに一緒に来てもらいました。

火伸です。よろしくお願いします。火伸はそっけなくそれだけ喋ると、野球場のような広い工場の中をグエンさんと空は案内をした。 

空が行う機械の説明も、資料は先輩から引き継いだものを、空なりにアレンジしたものを喋ればよいだけだったので、床一面に広がるキャベツ畑をワイヤーで、空高く引き上げられる仕組みも、ビニールカーテン一枚で二十度近く温度が変わる仕組みも言葉をレールに乗せるように説明ができた。天井からつるされた白いLEDの照明が映る水田を通り、毎日決められた日に畑に散布される水も見学に合わせて散布された。あの落ち着きのない女の子もあれ以外は大人かったし、他の子も静かに聞いていた。

馬のような四本の足で動く収穫ロボットを説明している最中に、突然、先生、この機械は誰が考えたんですか?黄色のトレーナーを着た周りに比べて小柄な男の子が質問をねじ込んだ。

今までよどみなく説明していた空は言葉に詰まった。

空が黙ってしまったので、機械音の鈍い音が周囲に響く。たしかにこれらの発明をしたのは誰なのか、自分も知らなかった。電灯を発明したはエジソン、飛行機の発明者はライト兄弟、みんな知っている。でもこの機械を発明した人は誰なのだろう?そもそも工場で使用をされている機械のすべては誰が発明をしたものなのだろう。未知の人々は発明の名誉もほとんど知られず、彼らは無名のまま死んでいき、機械だけが残る。工場には無名の発明の集積で満ちている。

グエンさんが空の代わりに答えた。これらのロボットに関わらず、すべてはひとりの人が考えたのではなく、何人かの人が集まって考えたものなのです。一度にできたものではなく、少しずつ今の機械の形になるように手を加えながら、長い時間をかけて、ここまで来たのです。そしてそれは完成をしていない、すべての機械は永遠に完成をしないものなのです。最後の方のグエンさんの話し方は未熟な音声ソフトが与えられた原稿を読ませられているようだった。空にはあの質問を含めて、すべてあらかじめ仕込んでいるのではないかと思わせた。


午前の見学が終わり、空は管理室で弁当を食べ終わると、午前中の終わりにグエンさんとの話に出た小屋へ向かった。小屋はプレハブ造りで中には五頭のヤギが飼われている。工場を建てる時に牧場は取り潰され、牛は他の牧場へ引き取られたが、他の動物は工場で引き続き飼われることになったのだ。空は入口近くでおとなしくしているきなこを持ち上げた。きなこと名付けられた動物はフォルモッサだった。グエンさんは午後からきなこも一緒に連れてくるように空に頼んだ。今日は気候もいいし、きなこを連れてきてもいいかな。倉庫だけだと面白くないから、低学年の子どもだときなこに会うと喜ぶしね。

きなこは日本に来てから百六十年以上たっていた。今ではほとんど跳ねることも無くなり、耳から発するにおいも弱くなった。かつて撫でると掌に刺さるように硬い毛は柔らかくなり、滑らかだった。空も含めて工場の人たちも昔外国から来たウサギと言うこと以上のことを知らない。

グエンさんは種を育てている倉庫の前では子どもたちと一緒に弁当を食べており、午後から合流することになっていた。

工場入口のゲートにアスファルトのスロープがあり、そこから入江の倉庫に降りられるのだ。空はきなこを抱えて砂で滑りやすくなったスロープを降りる。スロープの下には砂浜が広がっており、海岸から緩やかな坂をあがるようにして道路が通っている。かつてこの道は小田原と熱海を繋ぐ道だったが、やはり過疎化によって交通量が減り、ほとんど車も人も通っていない。スロープの出口の右側に倉庫は工場とは対照的な古びたプレハブの建物だった。海が近いので壁を止めるナットがところどころ錆びている。この錆びが工場よりも木や海などの自然の風景に近く思えて、この場所に来ると空は安心する。

倉庫の前には青色のビニールシートが敷かれ、子供たちは弁当を食べていた。工場で支給しているもので、今日は工場で捕れたレタスとチーズのサンドイッチと午前中に話題になった苺を食べている。空は弁当の配布までする必要があるのかと思うが、工場見学も国から求められている事業であり重要な仕事のひとつなのだ。

ビニールシートから少し離れた場所に座って波を眺めた。もともと灯台があった場所に置かれた風力発電のプロペラの先につけられたLEDのライドが回っているのが目立って見えた。三本の羽のひとつにランプが取り付けられており、旋回をすると縦に光の輪が現れる。そのまわりをカラスが横に旋回をしていた。

食事を終えて子供たちはビニールシートを片付け始めた。腕時計をみるとあと十五分ほどで午後の見学が始まる。先ほどロボットの発明者は誰かという質問をした子どもが波打ち際に数人の子どもたちが波打ち際に向かって走り回っている。

一瞬雲が途切れたのか、水平線の海と空の間に白い隙間が現れた。雲の切れ目から垂直に光が落ちている。きなこは急に波に向かって駆け出した。空も見たことがないくらい小刻みに足の筋肉を動かして跳ねた。海からの向かい風できなこの耳がはためいた。耳が風に乗るとオレンジグミのようなにおいを空は嗅いだ。空の視界が海辺の風景がだんだんと暗闇の中へ引いてくる。言葉の断片が空の周囲を蝶のように飛んでいる。かすれ、かすれにその音なのか風景なのかを空の体にぶつかってくる。とその都度、瞬間的に光が付くように何か見たこともない記憶が、新しい懐かしさが体の中に現れる。きなこの記憶が、きなこに出会った人たちの記憶が、自分の中で立ち上がってくるような気がする。言葉がつかまえられない。

暗闇の中で水滴が弾けた。建物の隙間に張られた水滴が整列をしている糸。これは蜘蛛の糸なのか。自分は籠に入れられているのか。狭い。布が引かれた。周囲の視線が自分に集中して痛い。何かの声で籠が開けられると自分は飛び出た。飛び出ると見知らぬ外国人が自分を見ている。外国人は目と口を大きく開け、幽霊のようにゆっくりをこちらへ向かってくる。突然、外国人は背後から引っ張られた。庭の光景も一緒に後ろへ過ぎ去っていく。

白い。夏の強い光が眩しい。空を見上げると青空だった。今度は知らない男におぶわれている。会ったことのない男の顔だが懐かしさを感じる。どこか髙いところから海を見た。空、空と自分に話しかける女の声も懐かしい。若い時の俺の両親なのだろうか。この海は相模湾だろうか。女の声を聞いているうちに俺は涙が出た。ここで会えるとは思わなかったが、ここで会えたらもう会えないのだ。そうなのか、そうなのだろう。女は俺の気持ちが分からずただ泣いているように思っているのか、俺の体を抱き上げた。太陽が視界いっぱいに広がった。白い闇が辺り一面を覆う。俺はどこにいるんだ?見たことのない景色が次々と高速で空の中を抜けていく。きなことも自分とも関わりのない世界だった。ビニールシートの工場が無くなり、風力発電のプロペラが無くなり、倉庫も子供たちも何もかも一切なくなっていた。自分の体もなく、ただ砂浜と遠くに象のような岩があるばかりだった。懐かしさも目新しさもない無味無臭の風景だった。

あごのあたりがちくちくとする。きなこの胸の鼓動が自分の体に伝わった。いつの間にかきなこは空のもとへ帰ってきたのだ。先ほどと同じように、子供たちは波打ち際で遊んでいる。グエンさんは先生との打ち合わせを終えてこちらへ向かってくる。こう見るとグエンさんは意外と肩幅が広いのだな。空は目を瞑った。体がゆっくりと落ちてくる。闇。暗闇の奥の、そのまた奥から、こちらへ向かって音が聞こえ


◆参考文献


「真鶴町史」

「蚕 生糸を吐く虫と日本人」畑中章宏著 晶文社 

「日本推理作家協会賞受賞作66 横浜、山手の出来事」徳岡孝夫著 双葉社 双葉文庫 

「二都物語」チャールズ・ディケンズ著 加賀山卓朗訳 新潮社

「千のチャイナタウン」海野弘著 リブロポート

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