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ぼくらのよあけ 感想とジュブナイルものの描き方

映画『ぼくらのよあけ』を観てきた。
今回はその感想と、少年少女を中心とした冒険モノの描き方に関して触れたいと思う。

○団地と少年のアニメ映画。

お気づきの方がいるかもしれないが、筆者が9月に観て感想をnoteに書いた『雨を告げる漂流団地』と同じ要素が含まれた作品である。
奇しくも、団地と少年少女などなかなか絡みそうにないモチーフが、ほぼ同じ時期に劇場アニメという形式で公開されたのだ。かつて団地を巡っていた身としては無視できない現象である。
そして、一部のマニアに書くが、団地団の常連客としては観ないという選択肢などあるはずはない。
筆者は、公開当日の夜、会社帰りに映画館へ足を向けた。



西暦2049年、夏。
阿佐ヶ谷団地に住んでいる小学4年生の沢渡悠真は、間もなく地球に大接近するという“SH III・アールヴィル彗星”に夢中になっていた。
そんな時、佐渡家の人工知能搭載型家庭用オートボット・ナナコが
未知の存在にハッキングされた。
「二月の黎明号」と名乗る宇宙から来たその存在は、2022年に地球に降下した際、大気圏突入時のトラブルで故障、悠真たちが住む団地の1棟に擬態して休眠していたという。
公式HPより

原作は2011年に月刊アフタヌーンにて連載された今井哲也氏のコミックである。
ストーリーは主に上記のそれ。
かつて実在した阿佐ヶ谷住宅を舞台のモデルに、宇宙から飛来してきた未知なる存在との交流を交えつつ、友達間、姉弟間、そして親子間の微細な感情の変化を巧みに描いた作品である。

最初に書いておくが、これは名作だった。
とにかく褒める要素が多い。
残念ながら筆者はSF作品には詳しくなく、宇宙やロボット工学に関しては避けなければならない。
しかし、それらはおそらくこの作品の秀逸な要素を占めるには半分にも満たないはずだ。

○大人が観るジュブナイルものとして

『ジュブナイル』という単語を調べてみると、少年期と出てくる。つまり、ジュブナイル作品と言われると、物語が少年を中心としていて、読者層もまた少年から10代、20歳前後のヤングアダルト層に向けた作品ということになる。
それだけに、この手の小学生が中心となって物語が動いていく作品に大人がどのような視線を向けるかは難しい。
人によっては抵抗があるかもしれない。実際、漂流団地の舞台挨拶では大きなお友達的な言葉を投げかけられた。つまり、どこか大人たちが観る作品なのかという違和感を抱えているのかもしれない。

大きなお友達、永遠の小学生が観ているのかもしれないが、ありふれた大人にとっては少年少女時代などはるか昔の話であり、その時のあどけない感情がもたらした感覚など微塵もないかもしれない。
それだけに興味自体が失せ、共感力もまた残っていないのかもしれない。

しかし、この作品は違う。
なぜならば、その少年たちの描かれ方が卓越だからだ。
微細な感情の変化が卓越に描かれていた。
少年ならではの、いい意味でも悪い意味でも無邪気で無鉄砲な様。それが故の不器用な様。家庭での若干内弁慶な様。姉弟同士、同級生同士のすれ違いや感情の苛烈な摩擦、少女同士での陰湿なやりとりと同調圧力……
それらが実に丁寧に描かれているのである。
丁寧に、つまりはくどさがない。
激しい感情が出ているはずなのだが、それがうるさくないのだ。実にバランスが取れている。
実際にあり得るシチュエーション、もしくは視聴者の大人たちもまたかつて少年時代に通ってきたかもしれないシチュエーションをリアルに描くことにより、うるさく思えるよりも「わかる」などの理解に変換されてしまう。理解できてしまう感情表現だからこそうるさくは感じられない。
この巧みな表現には拍手を送りたい。

このかつて見た・体験したシチュエーションを丁寧に描くことにより得られる理解があるからこそ、大人たちも楽しめるジュブナイル作品と言えるのではなかろうか。
また、丁寧に描くことによって視聴者たちのかつての感情も喚起され、少年たちを暖かく見守りたくもなる。
かつての不器用で荒々しかった自分を温かく振り返るように。

ジュブナイル作品と思って侮ってはいけない。

○大人たちの物語

また、この物語は子供たちだけの話ではない。
大人もまた、重要な登場キャラクターだ。
つまりは、子供たちの親もまた、それぞれストーリーを抱えている。物語に繋がる過去を抱えている。

どういうストーリーを抱えているかは実際に作品を観てから確認してほしい。
ただ、そのストーリーがあるからこそ物語の説得力に厚みが増している。
そして、なによりも親(大人)たちから子供たちにかけられる言葉にもまた説得力と重みが増してくるのだ。ただ口うるさい存在だけではない。
我々視聴者が暖かく(登場キャラの)子供たちを見るように、大人たちもまた思うところを多分に含めながら言葉を投げかけるのだ。
大人たちの存在により、視聴者が親世代の人々なら、一緒に親目線を持って観ることもできるはずである。

そんな大人たちの目線があるからこそ、子供たちの感情の詳細や変化が冴えてくる。
そして、その感情が煩わしく思えてはこないのである。抑制された意味合いもある。

○第三者であるオートボット・ナナコの存在

更に重要な存在が、オートボット・ナナコの存在だ。
ナナコは、お手伝いロボット的な立ち位置ながら、かなり主人公に感情を持って接してくる存在である。
そして、母親ほどではないが結構主人公のことを気にかけている存在でもある。

そんなナナコに対して、主人公は当初かなりぞんざいに扱ってくる。感情を持ったロボットなのだが、まるで物のように扱う。

しかし、物語が進むにつれナナコの存在が重要な要素を(強制的に)帯だし、物語を通じながら主人公はナナコへの接し方が変わってくる。

これは、わかりやすく言えば少年の成長を描いている。ジュブナイル作品では定番ながら、むしろ絶対的に必要なテーマである少年の成長をナナコを利用して描いているのである。

ナナコの何がどうなって、それをどう受け止めて成長に結びついていくかはネタバレになるので書けないが、是非とも作中で確認してほしい。

○そのほか、ストーリー以外でも

ストーリー以外でも、おさえておきたいポイントはある。
原作今井哲也氏のデザインは割と漫画的な空気感だが、映画になると吉田作画監督の少しリアルめに寄せたシャープなキャラデザが目につく。
人によっては意見が分かれそうだが、何度も書く通りにリアルな少年たちの様がリアル寄りなデザインとマッチしていて筆者的にはむしろ良かったと感じている。

また、団地映画としても見離せない箇所がある。
それが、団地が故の部屋の狭さだ。
そして脱帽なのが、その狭さゆえに起きる現象がさりげなくだがしっかりと描かれていること。

主人公の部屋や友達の部屋にもあった2段ベッド。これは、耳をすませばの雫の部屋にもあったくらいに団地の子供にとってはお馴染みなのかもしれない。
(余談だが、筆者の小学生の頃の友達も何人か、団地の部屋に2段ベッドを置いていた)

また、団地そのものへの哀愁にも触れなければならない。
漂流団地といい、ぼくらのよあけといい、どちらも団地は解体中から始まっていた。
そして、物語が終わる時に団地も本格的解体を迎え、それに合わせるようにして両作品の主人公は団地を去っていく。
あの、物語で非常に効果的だった給水塔もその運命を避けられない。
物語の最後の最後、主人公が団地を去っていく中で、団地の象徴的存在であった給水塔もまたその役目を完全に終え、消えようとしている様が映り、エンディングロールへと入っていく。
人ではなく物であるはずなのだが、その光景にもどこか哀愁を感じてならなかった。だが、その哀愁を乗り越えて少年たちは成長を遂げていくのだろう。

更に何より触れておかなければならないのは、岸わこと真悟の姉弟関係である。
狭い団地の部屋を2人が共有している。
常に一緒に接している状況が作られている。
しかも、姉と弟という立ち位置。
このシチュエーションが作られることにより、当然2人の関係性は悪化する。
もし、2人それぞれに個室が与えられていればまた違った関係になっていただろう。もちろん、仲良くまではいかないが、あそこまで犬猿の仲にはなっていなかったのではなかろうか。
団地の狭さがもたらした関係性と空気と捉えられる。
それをしっかりと描いてきたストーリーには脱帽せざるを得ない。

これほどまでにしっかりと少年少女を描いてきたのだ。
ここに、筆者の乏しい知識では触れられなかったSF要素を交えたストーリーラインがある。
もちろん、宇宙から飛来した二月の黎明号にだって深いストーリーはあるのだ。
そんな黎明号の事情と絡めながら少年少女たち……いや、その大人たちも含めて何人もの人間がそれぞれにドラマを展開させていく。
これはもう、名作と言えるだろう。
是非とも、本作を観てもらいたい。


○ジュブナイル団地アニメの比較

こういうのをやるのは野暮というやつかもしれないが、冒頭でも触れた通りにほぼ同じ時期に同じようにして団地を舞台にした少年少女たちの冒険アニメが公開された。
しかも、筆者は先に漂流団地に触れ、割と批判的な内容で書いた。そして今回のぼくらのよあけでは一転して好感な態度を示した。
となると、どこにどのような差があったのかを検証してみたくなるものではないか。

・咎める者 見守る者
その差の一番の要素が、不器用で感情が出やすい少年少女を咎めたりなだめたり、時に優しく見守ったりする存在がすぐそばにいたかどうかではないか?

これは、漂流団地のときに書いたが、あの作品の欠点は主人公たちのくどさにあった。くどさ、つまりは主人公たちの終わらない口論にあった。
その口論自体は問題ない。きちんと口論になるべきストーリーも描かれていたからだ。しかし、劇中頻繁に行われ、しっかりとなだめられる存在が誰もいなかった。むしろ、他の子たちもそれぞれに勝手な存在になって、うるささを助長していた。
子供らしさ(幼さ)を表現したかったのかもしれないが、むしろ子供の煩わしさだけが悪目立ちしていて観ている者を疲れさせる結果になった。

漂流団地の記事で触れたが、本来はその見守る役目を請け負うのがのっぽという謎を秘めた存在ではなかったのだろうか。彼の本来の存在を考えてみれば、充分に子供たちを見守れる役割をこなせるはずである。
しかし、そもそも自分の存在が何者かを忘れさせ、更に見た目までも少年で描いてしまうことによってその役を解いてしまった。そのため、漂流団地では誰も少年たちを制御できずにうるさい雰囲気が続いてしまった。

対してぼくらのよあけはどうか?
確かに、自分勝手な主人公や少女同士の嫌らしさは描かれていたが、これがうるさくは感じられなかった。
それが親の存在でありナナコの存在でもある。これらの存在を入れることにより、子供たちがまだ幼く分かっていない感を醸し出せている。そして、観ている側も時に親目線で子供たちの行動を見られるわけだ。
そして、それらが最終的に成長へと綺麗なラインを作れるのである。

また、なによりも表現の仕方に差が見られていた。全ての感情をイチイチ言葉で表さず、表情や舌打ち、間などの『態度』で表現することにより過剰さを削ぎ落としているのだ。
映像表現の基本かもしれないが、そこがしっかりと表現できているか否かで差を生じさせている。

パンフレットに書かれてあって気がついたのだが、主人公がナナコを呼ぶ際の呼称も物語を通して変化している。
そういう細かい表現でもまた、キャラの感情変化を描いていたりする。

漂流団地もまた、漂流してくる他の施設を通して、それぞれのキャラに重要な過去の思い出を呼び起こすギミックがあり、この表現は本当に面白く感じられた。
過去の建物とキャラの思い出がリンクすることにより、発生するドラマ。そこに漂流の深い意味合いがあったはずだ。
ただ、その記憶と成長を自然に見せるような演出が少なかった印象がある。
小学生だけでは自然な演出に無理があったのではなかろうか?
それを自然な方向に向かわせる役割がのっぽであったはずなのに。

・団地の屋上

両作品ともに少年少女たちが団地を舞台にして冒険活劇を繰り広げる話ではあるが、もう一つ細かい点で共通する。
それが、団地の屋上が重要な場になることだ。
漂流団地では、のっぽが屋上にテントを張っていて、ぼくはのよあけでは、屋上で宇宙船とのやりたりが行われていた。

リアルな団地の屋上というのは、まず間違いなく入れない場である。鍵がかけられて入れなくなっている。
大げさに書けば、禁断の場なのだ。
そんな禁断の場をメインステージとして選ぶところは興味深い。
いわば、子どもたちにとっては危険な場に足を踏み入れているとも言えるし、危険を犯す『冒険』を身近なところで繰り広げているわけだ。
子どもたちがいけないことを犯していく。
そしてそこでアクシデントに見舞われつつも、成長していくのである。
そういう演出の場として、団地の屋上は最適であったに違いない。


○阿佐ヶ谷住宅

さて、最後に、筆者が約10年ほど前に壊される前の阿佐ヶ谷住宅に訪れた撮った写真を掲載してこの記事を締めたい。

映画を観た人の中に、この阿佐ヶ谷住宅が実在したのを知らない人も多いのではなかろうか?
建築マニアや団地マニアには有名な団地だが、壊されてもうだいぶ経つ。都内在住でも知らない人はいるだろう。
映画の中でも描かれた給水塔も、あの形で実在したのだ。

思い出がてらに鑑賞してほしい。

かつてあったこの団地でも、漂流したり宇宙船が飛来したりはしてないが、色々な思い出があったはずだ。
それらを想像して終わろう。


缶蹴りしていた公園はここかな?


物語で重要な役割を果たした給水塔


劇中では描かれなかった低層住宅


追記

どうやら、映画ファンや原作ファンだけでなく、主題歌を歌った三浦大知さんのファンも読んでいただいているようです。
結構驚いた。

この曲、映画の終わりに驚くほどマッチしていて、思わず筆者もダウンロードで買ってしまいました。
まさに、エンディングで団地を去っていく主人公の流れに合わせた曲調と歌詞でエンドロールを盛り上げています。
ファンでない方も、筆者のようにチェックを!

鑑賞後、買ってしまいました。

支援いただけるとより幅広いイベントなどを見聞できます、何卒、宜しくお願い致します。