見出し画像

子宮の詩が聴こえない1-⑩

始めから読む) (⑨を読む

■| 第1章 詩人の勧誘
⑩「別離」


保育園に迎えに行くと、今日も泣きながらマコが駆け寄った。
まさみは、面倒くさそうに抱き上げる。

大きめのキャリーケースを持っていた。
担任保育士からの「どこか行かれていたんですか?」の問いに、「いえ、これからちょっと」と微笑んで答えた。

そのまま、空港へと向かう。
渡航先はO県だ。
一人で2歳の娘を連れて旅行するのは初めてで、以前まではハードルが高いと思っていた。今は、自ら望んだ帰郷に胸を躍らせている。

マコがぐずっても、普段と違い「もう少しの我慢だよ」と言う余裕がある。
その優しい言葉は自分に向けられたものでもあった。

間もなく搭乗。誠二からの何度もの着信に、ようやくコールバックする。

「もしもし。まさみ、今どこだ」
いつも落ち着いている夫が珍しく取り乱し気味だ。そんなことで出し抜いたような気分になっていた。

「もう空港。実家に帰るわ。しばらく」
「そんな急に……。いつまで? マコは?」
「気が収まるまで。マコもいる。連れて帰る」
「島に行くつもりなのか」
「……しばらく、そっとしておいて欲しい」

声を聴いた誠二は少しだけ安堵した。音信不通で失踪することが最悪のパターンだと考えていた。

「……お金、自分の口座に入れたんだな」
口座から消えた300万円のことを聞いた。
まさみには悪びれる様子もない。
「ええ。使わないお金は消えていくんだって、番長あきちゃんもぎんさんも本で書いてる」

誠二はがっくりと肩が重たくなったのを感じた。

「いつか海外旅行したいって言ったから貯め始めたお金だろ。マコの教育資金でもあった」
「いつかじゃなくて、今から必要なの。洋服もバッグも化粧品も番長あきちゃんプロデュースのものを買うわ。ラッキーちゃんのオンラインサロンにも入りたいし」

子宮の詩を詠む会は様々な商品を売り、高額なサロン会費やスピリチュアル系の情報商材で荒稼ぎしている。
ブログなどで知って、警戒したつもりだった。だが、こんなにも早く、妻が無断で貯金にまで手を出すとは。

誠二は自分の認識の甘さを悔いた。
「……使いたいのは分かった。でも、相談もなく持って行っていい額じゃない。家族のお金だ」
一瞬の沈黙を破り、まさみは呆れたように吐き捨てた。

「ケチだなあ。だからいつまでもお金が増えないのよ。使わないから減るの!」

意味不明なことを口走る妻に、意を決して厳しく返した。
「君は子宮の番長だの鳩矢だのと言い出してから、明らかにおかしい。スピリチュアルもいいし、誰かに憧れるのも悪くない。でも上辺だけを真似したって何にもならない」
「……」
「お金は使わないと減る? 馬鹿なことを。マインドと現実は違うだろう。入るあてもないのに無計画に使って増えるなんて、ただの妄想だ」

もはや反発もない。
まさみも聞く耳を持たない。夫のいつもの正論が始まったと、煩わしく思っているだけだ。

「飛行機の時間。もう行くね。お母さんには私から言う。マコの面倒も見てもらうんだから余計な連絡はしないで」
「……マコを頼むよ」
「いつも子どものことばかりね!」
乱暴に会話を絶たれ、誠二は虚無感に襲われた。


会議室。約束の時間通りに衣笠デスクとの面談が始まった。
誠二は、半ば愚痴のような形でも聞いてもらえたらと、必死で切り替えようとしていた。
その事情を聴き、衣笠はうなった。

「驚いた。もうそんなにハマっていたのね」
「セミナーに行った時に偶然にもずいぶんと評価されたようです。もう今は洗脳のような感じで……。説得のしようもありませんでした」
「でも、そこまで近付けたのなら都合がいいわ」
「と、言いますと……?」

衣笠の眼鏡の奥が光る。
「結論から言うと、子宮の詩を詠む会の取材計画を取り止めます。違う方向の独自取材に切り替える」

資料を広げながらの説明が始まる。
驚いた誠二が目を向けると、「社外秘」の文字に続き、

『豊島区連合の現在について』
そう記されてあった。

「この、連合というのは……?」
衣笠は丁寧な言葉遣いながら、やや興奮気味に続けた。
「子宮の詩なんてスピリチュアルは、ただの人集めのためのダミーかもしれませんよ」

子宮の詩を詠む会の裏には、かつて33回も警官隊と衝突したという伝説の暴走族「豊島区連合」から派生した集団がいる可能性が高い。
O県華襟島(かえりしま)の施設の所有者はこの連合の元総長だというのだ。
衣笠は取材の手応えからそう踏んでいると説明した。

誠二はにわかに信じがたく、再確認した。
「つまり、スピリチュアル系のミジンコブロガー達が、半グレのような集団と繋がっているというんですか?」
「そう。番長あきやラッキー祝い子らは出資した形のようね」

誠二が資料の次のページをめくると、若い男の顔写真があり、名前が書かれている。
『豊島区連合元総長 若田ショウ』

額から汗が噴き出す。
「……妻から聞いた、ミジブロのプロデューサーです!」

衣笠が資料ごと机をバンと叩いた。
「決定的ね。常に番長あき達と行動しているみたいだから」

妻が傾倒した胡散臭いだけの集団の裏に、暴力的な匂いが立ち込めている。不安にかられ、誠二の冷静さは失われた。
「人を集めて何をするつもりだ……祭りのようなイベントも計画しているらしいのですが」

それを聞いた衣笠は、「待ってました」と言わんばかりだ。
「そう。何を企んでいるのか。できるだけ強力な取材チームを作って派遣することにしました。スピマガだけでなくて、フリーの優秀な記者も含め、部署を超えて人員を選抜します」

ミジンコブログ社は、今や日本のフェイスブックとも称され始めた大企業だ。
政府や中国資本とも繋がりがある。
もしも反社会的組織との繋がりを明らかにできれば、報道大賞ものの大スクープになる。

誠二は、大手新聞社に勤める未久に相談したことを少し後悔した。
取材力に秀でた義姉がこのネタの端緒を掴むのも時間の問題だろう。

「黒田君、これは奇跡のような偶然よ。奥様をそのまま泳がせて、実態を掴んでから洗脳を解くだけでわが社は“特ダネ”をものにできる。分かるわね」

不安な誠二への配慮もなく、衣笠デスクの目はずっと輝いていた。
もともとスクープを連発した週刊誌の編集者として名を馳せ、スピリチュアリズムマガジンに異動したのだ。

「そんな……。できればそれは避けたいです。妻を危険に晒したくない」
「奥様が潜入できなくても責めないわ。でも、会社命令として取材の方針は変わらない。あなたにも行ってもらう」
「自分も、取材陣に?」
「もちろん。たびマガジンの記者なら島を訪ねたって不自然じゃないでしょう」

子宮の詩を詠む会なるスピリチュアル系団体。それに妄信した妻との諍い(いさかい)と、暴走。そして社の特命での取材へ。
急展開に、頭の整理が追いつかない。


しばらくして、誠二は誰もいない自宅へと帰った。

いつもの癖で、玄関前で娘の泣き声に聞き耳を立て、「いないんだった……」とつぶやいたことで、寂しさがこみ上げる。

まさみが散らかしたままの服や、マコの食べ残しを片付けた。
作業の途中でメッセージを送った。
「無事に着いたか。お義母さんに宜しく」

既読にはなったが、まさみからの返事はない。
報告をした方がいいと考え、未久にも念のため着信を残した。

まずは妻と娘の安全確保が第一だ。
できれば「あえて潜入させて泳がせる」という、衣笠デスクが望むような危険な手段を使わずに済むように。

湧き上がる正義感や好奇心も相まって、ともかく一刻も早く、O県に向かいたいと考えている。
業務命令でそれができるのは好都合だとも思う。

眠れない時間を、誠二はひとまず取材準備に費やしていた。


― 第二章に続く ―

(この物語はフィクションです。実在する人物、団体、出来事、宗教やその教義などとは一切関係がありません)

サポートをいただけた場合は、係争のための蓄え、潜入取材の経費、寄付など有意義に使わせていただきます。