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慶應義塾発祥の地 「日本近代文化発祥の地」

中津藩邸内に開いた蘭学塾が起源

★ジャンル【学校】
★場所 中央区明石町11-6
★最寄駅 東京メトロ日比谷線築地駅

これまでの23区発祥の地一覧

★碑文
「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」(上部)
「安政五年福沢諭吉この地に学塾を開く。創立百年を記念して昭和三十三年慶応義塾これを建つ。」(正面)
「慶応義塾の起源は一八五八年福沢諭吉が中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学の家塾に由来する。その場所はこれより北東聖路加国際病院の構内に当る。この地はまた一七七一年中津藩の医師前野良沢などがオランダ解剖書を初めて読んだ由緒あるところで、日本近代文化発祥の地として記念すべき場所である。」(右面)

★解説
 聖路加国際大学南側、立教学院発祥の地の碑と道路を挟んだところの三角地帯上にあります。道路の付け替えでできた小さな島状の小公園です。碑文にもあるように、塾があった中津藩邸は現在の聖路加国際病院の西側と中央保健所のあたりに広がっていました。
 碑自体には碑銘やタイトルのようなものがなく、通称「慶應義塾発祥の地」です。隣に別の大きな碑がありますがデザインが似ており、同時に建てられた「蘭学の泉はここに」です。「解体新書翻訳地」と言ったほうがわかりやすいです。これは別稿で紹介します。そしてこの二つを合わせて「日本近代文化事始の地」と称しており、小さな看板があります。
 福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)は九州の中津藩奥平家の家臣でした。しかし生まれたのは父の勤務地だった大阪で(当時は大坂)、父が亡くなって中津に戻ります。その後19歳で長崎に出て、長崎奉行配下の役人宅で手伝いをしながら蘭学を学び始めます。
 そのまま中津には帰らず、父の跡を継いで大坂で務めていた兄のもとへ行き、緒方洪庵(おがた こうあん)の適塾で学び始めます。兄が死にいったん家督を継ぎますが、学問の道を捨て難く家財道具を売り払ってまた大阪に出ます。詳細は知りませんが、この辺りが許されてしまうのが、武家社会と言っても結構鷹揚に思います。現代企業ならクビですよね。
 そして1857年、22歳の若さで適塾塾頭になると、さすがに蘭学が盛んだった中津藩。見出す人がいるんですねえ。岡見清熙(おかみ きよひろ)と

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