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松竹橋親柱(松竹映画発祥の地)

奇跡的に残っていた撮影所前の橋の遺構

★ジャンル【文化】
★場所 大田区蒲田55-37-3
★最寄駅 蒲田駅

★碑文
「当地には、かつて、松竹キネマ蒲田撮影所があり、その正門前を流れていた逆川(さかさがわ)には「松竹橋」がかかっていました。 「アプリコ」のあるアロマスクエアには、1986年(昭和六一年)に公開された映画「キネマの天地」撮影のために製作された「松竹橋」が、蒲田の歴史を物語る記念碑として移設されています。 こうした地元の思いを知った鎌倉在住の方より、戦中戦後の混乱を経て、もはや現存しないものとされていた親柱の寄贈の申し出があり、蒲田東口地区街づくり協議会が懸橋となって、七十数年ぶりに、当地への里帰りが実現しました。 この親柱を、大田区の貴重な歴史的遺産として、地域文化創造の拠点となる区民ホール「アプリコ」に設置しました」

★解説
 高砂香料発祥の地と同じアロマスクエアにある大田区民ホール「アプリコ」のエントランスホールにあります。この碑文内には「発祥」の文字はありませんが、文中にある「復元」松竹橋のところには「松竹映画発祥の地」と書かれています。
 松竹は劇場の売店経営者だった大谷竹次郎(おおたに たけじろう)が、1895年に京都阪井座を買収して演劇興行に進出したのが始まりです。松竹の名は、双子の兄の白井松次郎(しらい まつじろう)がと共同で会社を設立した際に、二人の名前を取って「松竹」(まつたけ)としたためです。読みを「しょうちく」と改めたのは1937年でした。
 大谷は盛んになりつつあった映画に注目し、欧米視察の結果、映画制作に進出することを決めます。1920年、築地で「松竹キネマ合名社」を設立、蒲田の工場跡地にスタジオを建設します。
 そして早くもその年のうちに第1作を公開し、次々と作品を送り出します。1923年の関東大震災で撮影所は壊滅しますが、翌年には製作を再開し、これ以降「蒲田調」と言われる映画スタイルが確立しました。
 しかし1930年代になってそれまでの無声映画からトーキーが主流になる

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