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【人間】希望のコトワリ


神の前で自我という衣を脱ぎ捨て

心の中を空にして、すべてを受け取る心構えをすることこそが

「希望」を持つための姿勢です。



あるがままを、あるがままに受け入れる。



それは世界で起きる事象に対して、

何もしない

あきらめる

指をくわえてただ眺めている

そういうことではありません。



世界は我々の思い通りにコントロールすることはできません。

しかし起きたことについて、自身のやり方で寄り添うことはできます。




事を認めて受け入れつつも、

そこで人々が抱く悲しみや喜びに同情したり

果たすべきことを行うことはできます。



私たちには、できることとできないことがありますが

己も世界の一部で

そこで起きる発心も、また世界であり

私という存在に、様々な感情が湧き上がるということは

希望でもあります。




大切なことはストーリーを妄想しないことです。

世界で起きる事象に、原因と結果を勝手に見出して、

そこをループしないようにすることです。



そのことについては、人は現実に降伏しなければなりません。

あるがままを、あるがままに受け入れるとは

降伏することです。



事象を恣意的にとらえて

悲しいストーリーや、楽観的なストーリーを頭の中で作らないことです。

私がストーリーを作らないとき、

そこには「あるがまま」があります。

「希望」が秘められていることに気づけます。




時には、心身にとって辛いことがやってきます。

そんな時には、私たちは苦痛を避けようとすることでしょう。

それは当たり前のことです。

避けようとすることも、私と世界の摂理のあらわれとして

退避すればよいでしょう。

休めばよいでしょう。



でも私という衣を脱ぐことは容易ではありません。




特にこの世で行われている諸々の不正や

人々の間にはこびる不公平について思いをはせる時

たちまち心は私をとらえて

憤りや悲しみ、苦しみや憎しみの感情が湧いてくることでしょう。




まず私たちは、そんな不正や不満、不平等とされることが、世界で起きていることを素直に認めなければなりません。

同時に、そのことについて、己が頭の中で勝手に練り上げたストーリーを当てはめていることも意識しなければならないでしょう。




自身の頭でグルグルと考えることを一旦やめて、思考を静かにします。




己を大切にしている人にとっては信じがたいことかもしれませんが

思いを止めることで、私たちはその場で

言うべきこと

行うべきこと

が自然に教えられます。




何かが起きているのが世界

そのことを認識する自我も世界

自我が思うことも世界とするのなら

そのコトワリにしたがい、何を行うべきか発心する我も世界なのです。



すべては創世に礎とされた摂理にそって

粛々と、ですが悠然として

世界は在っています。




そのことに気づき、

あるがままを、あるがままに受け入れることこそが

「すべてよし」と心の底から確信できるような

希望へと繋がっていくのだと思います。

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