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【詩】奏でられた幻想

薄く茶色がかった古いピアノ

薄汚れた壁紙が剥がれかかったリビングで

真昼の名残りの陽光を浴びていた。


今はもう誰もいない

この白亜のお屋敷。


幼子の鳴き声や

子どもたちのはちきれんばかりの声

夫婦の仲睦まじい、なにげない会話

祖父の穏やかでのんきな笑い

ここには幸せがあった。


欠けたピアノの鍵盤たちは

かつて幸福の空間を

柔らかな音で満たした。


今は奏でられることのない音

その名残は

朽ちた白と黒の鍵盤にのみ残っている。



心ゆくまで幸せを享受した主

幸福が終焉した時

力任せに鍵盤に拳を振り下ろした。



幸福の名残を

断ち切るかのように。



役割を果たさなくなったペダル

切れた弦

ヒビが入った天板



調子外れの音しか出せないけれど

調和は失われたけれど

でもそこには

微かに漂っていた。



幸せの響きが。


私がそっと鍵盤を叩くと

かすれてワレた音が鳴る

本来の音とは程遠い響き

されどかつては楽園で奏でられた音が。



不意に流れてきたメジロの鳴き声が

ピアノの音と絡み合った

心のおもむくままに音を奏でると

鳥のさえずりと調和した。



役目を終えて朽ちしモノよ

これからは夢の中で生きよ。

奏でる者はもういないが

小さき生命の奏でる音と

夢幻の中で伴奏せよ。



きっとあの幸福だった日々も

幻想だったのだ。

ガラス越しに差し込むきらめく陽光が

この手につかめないように。

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