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他人は他人

自分の無力さに虚無感を感じる。落ち込みはしないのは進歩してるけど。元々自分にできることなんてないと知ってるから落ち込みはしない。でもむなしい。自分の経験が役に立たない時、人は虚しいのかもしれない。

とはいえ先日はめちゃくちゃ人の役に立てた。感謝された。素直な人はやり易い。若い時よく素直になれと言われたのが今になってとてもよくわかる。頑固者は放って置かれる。話を終わらされて無視される。

私の父は頑固。そしてそれを咎めるものもいなかった。だから私も口ぐせが移って人が何か言っても「でもさ〜」から始まる返事しかしなかった。たとえそれが肯定の内容の返事でも。それで友達が「もうなんで『うん』って言わないの?!?!」てキレても何で怒ってるのか本気でわからなかった。

「本当にそうかなぁ?」をベースに人と話してたらそりゃそうなるわと思った。人の気持ちがわからないASDの親とその親のおかしさを信じてしまう、見抜けないASDの子どもの典型だと思う。女性だから修正してもらえる機会に多めに恵まれて本当に良かったと思う。

男性だと怖いし可愛くないから言われる機会少ないと思う。
私も無力な経験は忘れて、「私こそ人の役に立てて嬉しいよ」と言った私に泣きながら「親身に相談に乗って下さりありがとうございます」と言ってくれたことの方を強く意識して覚えておこう。それに知ってる。頑固には頑固なりの事情があること。自分がそうだったから。

頑固者には少しも頑固なつもりはない。ただ自分の譲れない大切なものを守るために必死なだけ。余裕がないだけ。誰も悪くない。悪くないけど、そういう人が病気になった時、残酷さを思い知るのは他でもない本人。周りは自己責任でしょ。気合いが足りない。病気でもこれくらいはできるでしょと経験したことないくせにいや無いからこそテキトーに行ってくる。

反論しようにも頭が回らない。少し話すとしんどい。指先を動かすことも目の前のやかんのお茶を組んで飲むこともできなくなる。そして周りの人間にこう言う。「なんで止めてくれなかったの?!」周りの人間は言う、「止めたよ!何回もね!」。お決まりだ。これは発達障害のASDの人が何か正しいことに気づいた時にも起こる。「感謝の気持ちはありがとうってちゃんと声に伝えたほうがいいよね!」「それ前から何回もあんたに教えてたわ!」みたいにね。


この経験しないとわからないけど経験が活かされることは少ない。なぜならば快復に膨大な時間がかかりその間に治ったらこの経験を生かして頑張るぞ!という気持ちが枯れるから。それは加齢のせいでもあるし私の場合学習性無力感が大きい。やる気を出して頑張りかけては倒れるのを繰り返した。躁うつ病なのにうつ病の薬を飲まされ続けるとそうなる。訴えても勝てない。「医者も見抜けない仕方ない」だそうだ。また、父親に夢を語れ否定しないからと強制され語ったら否定されるなどを繰り返したのも大きい。

今となっては何くそという気持ちがあった頃が他人事のようだ。何度も気がふれかけたことが大きいと思うが、今はできれば一生働かず遊んでいたいと思っている。学生時代の自分が知ったら頭真っ白になるだろうな。

私に感謝してくれたあの子が毒親とうまく距離取れてますように。
頑張り屋のあの人がいつまでも健やかでいてくれますように。


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