それを すてるなんて とんでもない!

ドラゴンクエストシリーズが好きだ。
複数人で隊列を組んで、強敵に立ち向かうのが楽しい。ドラゴンクエストには「職業」があり、主人公は「勇者」であることが殆どで、主人公の仲間は武闘派の「戦士」や「武闘家」、魔法攻撃でサポートする「魔法使い」、回復魔法などで味方をサポートする「僧侶」といった具合だ。縛りプレイやRTAでは1人でクリアすることもあるんだろうが、王道の進め方は主人公(勇者)と戦士、魔法使い、僧侶あたりで隊列を組む場合が多いんじゃないだろうか。

ドラクエに限らず、たいていのゲームのキャラクターのステータスにはHP(体力。これがなくなったら戦えなくなる)とMP(魔力。これがなくなったら特殊技や呪文が使えなくなる)が存在している。他にも、攻撃力や防御力、すばやさや賢さなど、個人を表すバロメーターは様々だ。戦士はHPや攻撃力が高めに設定されているし、魔法使いや僧侶などはMPや賢さが高いといった風に、個々の役割に応じた能力設定がされている。

戦い方としても、パーティーの前線(相手からの打撃系ダメージを受けやすい)には勇者や戦士といった耐久力の高いメンバーを配置し、後列には耐久力がさほど高くない僧侶や魔法使いを置いて、前線の勇者や戦士をサポートする戦い方が多いと思う。じゃあ全部勇者や戦士、武闘家みたいなパワー系で構成すればいいじゃん!と思うかもしれないが、魔法使いの攻撃呪文でないと倒せない相手もいるし、僧侶が回復しないとそもそも隊列が全滅してしまうので、最終的にいろんな職業、役割で構成されたパーティに落ち着くのだ。


筆者の中で名作と評判のドラクエⅤ

小さい頃は勇者や戦士になりたい人生だった。なぜかは分からないが、少なくとも中学に入るまでは、自分は物語の主人公になれるという感覚があった。今思えば小学生時代も決してクラスの中心ではなかった。性格もどちらかといえば卑屈だし、町内会のソフトボールチームでも下位打線に組み込まれていたし、サッカーでもキーパーの控えという、出番が皆無なポジションだった。それでもまだ勇者になれると思っていた。

公立の中学に入ると状況が一変する。3つの学区が集まるのだが、中学に入った途端「ヤンキー」「DQN(ヤンキー崩れ)」が紛れ込んでくるようになった。これが相手側だったら戦うのみなのだが、どうやらヤンキーやDQN達は勇者側になっているらしく、クラスというパーティーの中心に居座っている。とはいえヤンキーは魔王討伐にでも行っていたのか、学校に来る日が徐々に少なくなっていたので厄介ではなかった。

問題はDQN(ヤンキー崩れ)の方だ。DQNは学校には毎日来るからだ。内申点を気にしているため素行には気を配り、教師の前ではおとなしく過ごしている。とはいえ自分より下の立場の人間にはイジメと見なされない程度に害を加える。周囲を巻き込んで(周囲もDQNなため同調圧力も強い)
多少のコミュニケーション能力、運動部であること、かつそこそこの見た目、トレンドを抑える能力さえあれば割と簡単にDQNにはなれていた気がする。
※DQN(ドキュン)とは、日本語の文脈で「粗暴」「非常識」「軽率」「反社会的」「低脳」な者、またはそのように見える風貌の者へ使われるインターネットスラング蔑称の一つである(ウィキペディアより)
※DQNの解釈は様々だろうが、私の中では”ヤンキーになるまでは非行に走っていないものの、物理的、精神的に攻撃的な人物=DQN”とカテゴライズしている。

こうなると、勇者(ヤンキーやDQN)の素質がないのに、勇者ぶりたい私にとっては分が悪い。あまり思い出したくもないのだが、中学2年まではあまりいい思い出がない。入学当初の私の言動にも問題があったのは確かだ。私の中学では勇者に気に入られなかったら敵側に回るようだった。もはやスライム同然である。
なお、ヤンキーはそもそもスライムを相手にするほど暇じゃないのだろう、あまり私には害はなかった。

スライム


私は中学の野球部のレギュラーだったが、素質がないのでDQNにはなれなかった。そのうえ、中学2年で新チームになるまでは、スコアラーという裏方の役回りだった。選手が兼任してスコアを書く学校もあったが、私の学校の場合、スコアラーはベンチ入りができない。試合に出るチャンスもないのだ。私がスコアを書いていた理由は実力がないからではなく「スコアをかける人間がいなかった。」どころか、もっと言えば「ある程度の地頭があった=スコアをかけるとみなされた。」ためだ。
(現に、上級生が引退した新チームではすぐに一桁の背番号が与えられた。)
本人の意思をオール無視した采配。私はスコアを書きたいと言った覚えはない。野球部で勇者になるどころか、戦いの場にすら立つことができない。
※スコアラー:試合の結果を1球ごとに記録する。プロ野球だと付けたスコアを分析に回すが、中学レベルでは記録だけして終わることが多い。

このころから、勇者になりたい自分を完全に抹消するようになった。目立ちたくても何もうまくいかない。何なら心身ともに疲弊している。自分の長所も生かせない、何もかもが楽しくない。そんな自分も好きになれない。

それなら、自分が目立たず周囲にも邪魔にならない立ち回りが賢いのでは、と考え、今の人格を形成するに至った気がする。

ここで真っ先に捨てたのが「承認欲求」という防具だ。小学生までの私なら捨てられなかった。タイトル通り「それを捨てるなんてとんでもない!」ものだった。しかし捨てないと冒険がこれ以上続きそうになかったので捨てることにした。承認欲求を捨てると、自分ができることは何なんだろうと考えるようになる。相手を分析して、周囲の攻撃をいなすことに必死だった結果、自分以外の人を見る目が少しずつ磨かれた気がする。とりあえず自分にDQNの被害が向かないように立ち振るまうこと、場の雰囲気を壊さないことが第1の目的になった。あとは思考の軸を相手に移し、自分主体の考えを完全に捨てたのがこのあたりだった気がする。

この選択が正しかったのかは分からない。今は目立ちたいなんていう感情が欠片も湧かなくなった。頑張っている同僚や後輩など、周囲の人間が目立てるには、脚光を浴びれるようにはどうすれば、という考えが軸になっている。相手に対して攻撃的な言動はしないようにしているし、飲み会でもどうすれば場が盛り下がらないかという考えで臨めるようになった。
愚痴を聞かされることも多いし、いじられた時やダメ出しを食らった時には70点以上の返しができるようにもなっていると思う。そんな姿を見てか、上司や先輩に「愛されキャラだね」「いじられていいね」と言われる。素直に嬉しい反面、1回こっち側に来てほしいなとも思う。私の立ち振る舞いは天性のものではない。思った以上にもがき苦しんで習得したものなのだ。

とはいえ、私は会社というパーティーの中では後方で勇者や戦士をサポートする役回りにフィットしている気がする。今のところ対人関係で衝突したことはない。自分で前線に出ないといけないケースもあるのだが、そうすると一度捨てたはずの承認欲求がつい頭をもたげてしまう。呪いの防具である。
仕事だと、承認がないとなおさらメンタルが不安定になる。
頑張っている勇者や戦士もきっとそうなんだろう。
だから私は周囲の気分が上がる、テンションが上がる言動を使う。
攻撃力を上げる補助呪文のように。
だから私は周囲をほめる、ねぎらう。
傷を癒す回復魔法のように。
これからも誇りをもって、時々葛藤しながら、
僧侶のように、魔法使いのように、呪文を唱え続けよう。

ここまで悩み続けた自分は嫌いじゃないです。
勇者になりたかった元スライムの話でした。

ちなみにnoteの人たちはビアンカ派?フローラ派?
どちらですか?
私はビアンカ一択です。

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