見出し画像

『龍は眠る』

最近自分の文章を読み返す機会があり、いろいろと感じることがあり、興味深かった。文章に残すことはなかなか良いことなのでは、と感じたため、また書いている。

昨日今日とnoteでフォローさせていただいている方が文体と分人主義についての文章を書いておられた。
分人主義については聞いたことのある程度だったが、個人に色々な文体が存在するということは、分人が存在することを示している、深く関連しているということを書いておられた(と、理解した)。
分人とはひとりひとりの中にある人格のようなものであり、人は一つの人格でなくたくさんの人格(分人)を持っているとのことだ。それら分人はどれかが司令塔のようになっているのではなく、互いに関連しつつ存在しているらしい。
それに関連すると感じるのだが、体の器官ついても、つい最近までは、脳が全体を統括し司令を出しているトップダウンのように考えられていたが、今は胃腸から脳に司令が行ったりするように、それぞれの器官がそれぞれに関連して存在していると考えられるらしい。確かに胃腸が第二の脳と言われたり、はたまた足が第二の脳と言われたりするし、胃腸の調子がわるいと気分が悪くなったりする。あるいは今は筋肉から脳に伝わる情報もあると言われたりする。確かに体感的に、気分が乗らなくても動いてみるとさらに動きたくなったり、笑ってみると(顔の筋肉を使ってみると)気分が良くなったりすることもある。各器官はそれぞれが考えをもっている個体で、お互いに話をしながらあるいみ有機的に関係しながら体を動かしていると考えると、面白い。まるでおのおのが別の行動、働きをしながら関わり合い大きな環境を作り出している自然界のようである。そして人間も自然界の一部であることを考えると、確かに体の中も有機的に繋がり合っているのが“自然”に思えてくる。

これが分人主義に似ていると思ったのである。これまで私は自分は一人だと思っていた。でももしかしたら自分は複数人の共同体で、代表者もおらず、それぞれ独立して関わり合い、あるときはAという自分が、またあるときはBという自分が、そして今度はCという自分が現れると思うと、それは実はすごく自然なことなのかもしれないと感じる。

私は統合失調症的な症状が出た時のことを思い返すと、まるで自分でないひとが私の中に住んでいて、暴れ出したようだと感じることがあった。宮部みゆき『龍は眠る』を、治療期間中に差し入れしてくれた友人がいた。主人公にはサイコメトラーの一面があり、それを宮部みゆきは『彼の中には龍が眠っている』と表現した。それを読み、まるで私の中にも龍が眠っていて、あるとき体のバランスが崩れて、暴れ出したのだと納得することが出来た。私の場合はサイコメトラー的な自分ではなく統合失調症的な自分だが。

そう考えると、病気の治癒も一面的に捉えるのではなく、多面的に捉えられるのかもしれない。そもそも病気と健康との境目はグラデーションになっている。人は病気の自分も、健康な自分も持っている。私については、今はさまざまなバランスからして、健康的な部分が多く出現しているが、病気の部分もなくなったわけではなく、同時に存在している。またバランスが変わったときに出てくるはずだ。そして私の病的な面は(これは長所でも短所でもないが)「感じ取りやすい」「考えすぎる」などの性格にも現れている。というか、性格や病気、健康などはバラバラでなく、グラデーション的に混じって存在している。映画を見るときや、ショックな出来事が起こったときなど、普段は目立たないそうした特質が出る。それは考えるに、普段からいつもそうした感じやすい面を出していると、疲れてしまうからなのかもしれない。そうして私は複数の人格の総合体である自分を守っているし、表現している。そしてそれは別に変なことでもなんでもなく、むしろ当然のことなのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?