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クリスティーナ・カッターネオ『顔のない遭難者たち』(晶文社)、「訳者あとがき」

[2022年11月に日本語訳が出版された、クリスティーナ・カッターネオ『顔のない遭難者たち』(栗原俊秀訳)の「訳者あとがき」を、版元である晶文社の了承を得た上で、以下に転載します]

訳者あとがき

 イタリア最南端に位置するランペドゥーザ島は、青く透きとおる海がヴァカンス客を引きつける、風光明媚なリゾート地である。だが、同時にこの島は、アフリカから海を渡ってやってくる移民・難民にとっての、「ヨーロッパへの玄関口」でもある。日本のメディアでも散発的に報じられているとおり、粗末な漁船やボートにすし詰めになって海を渡る移民のなかには、志半ばで命を落とす人びとも少なくない。IOM(国際移住機構)の報告によれば、二〇〇〇年から二〇一六年までに、少なくとも二万二千四百人が地中海で没している。すでに広く定着した(「使い古された」とさえ言えるかもしれない)表現を借りるなら、地中海はもはや、移民・難民にとっての「集団墓地」と化してしまった。世界がコロナ禍に見舞われ、国境という障壁がかつてなく厚みを増した今日にあっても、地中海における決死の航海は跡をたたない。
 簡単なことではないが、ここですこし、想像力を働かせてみてほしい。あなたは祖国に家族(妻か、夫か、子どもか、あるいはきょうだいか……)を残し、アフリカからヨーロッパへ移住した。生活の基盤も整ったので、祖国の家族を移住先へ呼び寄せることにする。だが、待てど暮らせど、家族がやってくる気配はない。やがて、愛する家族が乗りこんだはずの船が、地中海で転覆したというニュースが報じられる……。
 おそらくあなたは、理屈のうえでは、妻や子どもは海に沈んだのだと察するだろう。だが、感情の面ではどうか。あなたはその目で遺体を見たわけではない。その手で遺体に触れたわけではない。それなのに、自分にとってほかの誰よりも大切な人がもうこの世にはいないという事実を、ほんとうに受け入れられるだろうか。海に沈んだ遺体が回収され、損傷が激しいのであれば科学的な同定(身元特定)が行われ、それがほんとうに愛する家族の亡骸なのだと判明するまで、心から納得することはできないのではないだろうか。
 遺体に触れて、愛しい相手の死を確信しないかぎり、「正しく喪に服す」ことはできない。この、「確かさが得られないこと」の苦しみを、今日の心理学は「曖昧な喪失(ambiguous loss)」と呼び、鬱やアルコール依存を招きかねない危うい心理状態として注意を促している。現在のヨーロッパには、この「曖昧な喪失」に悩まされる移民が、数万、数十万の規模で存在している。
 本書『顔のない遭難者たち』("Naufraghi senza volto: Dare un nome alle vittime del Mediterraneo", Raffaello Cortina Editore, 2018)の著者であるクリスティーナ・カッターネオは、地中海に沈んだ移民の遺体に「名前」を与え、「曖昧な喪失」に苦しむ人びとを助けるために奔走している、イタリアの法医学者である。現在は、本書のなかでもたびたび登場する、ミラノ大学の「ラバノフ(犯罪人類学歯科医学研究所)」で所長を務めている。本書は二〇一八年に刊行されるやたちまち大きな反響を呼び、翌二〇一九年には、優れた科学啓蒙書に贈られる「ガリレオ文学賞」を受賞している(同賞を主催するパドヴァ大学は、かつてガリレオ・ガリレイが教鞭を執った大学である)。移民問題への関心の高さからか、隣国のフランス、ドイツですでに翻訳が刊行されており、仏「ル・モンド」紙をはじめ、多くのメディアから好意的に取りあげられている。さらに、本書をもとに、映像を交えた「朗読劇」も制作され、伝統あるピッコロ座(ミラノ)のストレーレル劇場で上演されている。
 本書のなかで焦点が当てられる遭難事故はおもにふたつ、二〇一三年十月三日(ないし十一日)と、二〇一五年四月十八日の事故である。移民・難民を乗せた船の地中海における遭難事故は、二十一世紀に入ってから現在まで継続的に発生しており、この二件だけが例外的な悲劇というわけではない(第五章で著者が述べているとおり、「悲劇に順位をつける」ことなどできはしない)。それでも、犠牲者の数という面でふたつの事故は群を抜いており、関連の報道がイタリアやヨーロッパの市民に与えた衝撃も大きかった。十月三日は、地中海における人道的危機を想起するための象徴的な日付として記憶され、事故から二周年に当たる日(二〇一五年十月三日)には、前述のランペドゥーザ島にて追悼セレモニーが行われた。*1
 著者が所属するミラノ大学の「ラバノフ」は、シチリアをはじめとするイタリア各地の大学の法医学教室と連携して、これらふたつの事故の犠牲者と向き合っている。ラバノフの研究者が取り組むのは、死者にアイデンティティを取り戻させ、尊厳を回復させる仕事である。移民・難民の絶え間ない流入にたいして、けっして世論が好意的とは言えないなかで、これまで培った専門的な知見を、「もっとも弱い立場に置かれた人びと」のために活用しようとする。
 日本の読者のなかには、二〇一一年三月十一日の震災を通じて、法医学という学問が遺体の身元特定のために利用されることを知った方も多いだろう。本書第四章でも説明されているように、指紋鑑定、遺伝学、歯科医学の三つを主たる手段とし、法医学者は「名もなき死者」の身元を探ってゆく。さらに、著者が勤務する「ラバノフ」には人類学者や考古学者も籍を置き、それぞれの技術を遺体の同定に役立てている。第七章で描写される「海辺の霊安室」の作業では、袋に入った大量の骨が何名の個人に帰属するのか、人類学者があざやかな手際で解き明かしている。これなどはまさしく、机上と現場の双方で、長い学習と実践を経験したものだけが得られる技術と言えるだろう。
 著者は本書の最終章で、「バルコーネ」――二〇一五年四月一八日に沈没し、のちにイタリア海軍によって引き揚げられた漁船――の保全活動について触れている。この船は二〇一九年、スイスのアーティストで大がかりなインスタレーションを得意とするクリストフ・ビュッヘルの手により、ヴェネツィア・ビエンナーレで展示されている。「バルカ・ノストラ(私たちの船)」と題されたビュッヘルのインスタレーションは、「現代の移住について伝えるモニュメント」として芸術界でも大きな話題を呼んだ。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の報道官であるカルロッタ・サミは本作を鑑賞し、「この作品を、過去の遺物と捉えてはいけない。今日もまた、新しい難破船が、この船は私たちの〈現在〉であることを伝えている」とコメントしている*2。こうした反応を見るかぎり、バルコーネをめぐる物語を「語り継がれるべき歴史」として伝えたいという著者の願いは(いまのところは)実現しているようにも思える。ただ、ビエンナーレでの展示後にバルコーネがどうなったのかという情報は、インターネット上を探してもなかなか見つからなかった。そこで訳者は、この点について著者クリスティーナ・カッターネオに、メールで直接に問い合わせてみた。著者の返信によれば、バルコーネはいまもアウグスタ(シチリア海軍の基地がある土地)にとどまっているらしい。カッターネオはかねてより、ラバノフの附属博物館(正式名称は「人権のための人類学博物館」)の正面にバルコーネを設置することを望んでいるのだが、「政治的な怯懦」のために、なおも実現の見通しては立っていないとのことだった。
 
 二〇一六年、ベルリン国際映画祭で金熊賞(最優秀作品賞)を受賞した「海は燃えている」(ジャンフランコ・ロージ監督)は、ランペドゥーザ島を舞台にしたドキュメンタリーである。このフィルムは、漁師の家庭に生まれたサムエレ少年の淡々とした日常と、ヨーロッパを目指す移民・難民の命がけの航海とを、ナレーションも解説もなしに交互にスクリーンに映し出す。移民・難民は、島に到着してすぐに収容所に移送されるため、島民と移民の生活が交わることはない。少年と移民の世界は、両者の診察にあたる島で唯一の医師(ピエトロ・バルトロ)を通じてのみつながっている。作中には、医師の診断により、サムエレ少年の左目が「弱視」であると判明する場面がある。「弱視」に相当するイタリア語(occhio pigro)は、字義どおりに訳すと「怠けた目」という意味になる。

 「弱視だな。意味はわかる? 目がちゃんと働いてない。怠けてるんだ。だからきみの脳は、左目に映るイメージを受けとっていない。無理にでも、左目に仕事をさせないといけないね」*3

 こうして、少年は治療器具で右目を隠し、それまで「怠けていた」左目だけで生活を送るようになる。
 ロージ監督の映画に脚本は存在せず、少年の弱視が発覚したのも撮影を始めたあとのことである。それでも、私たち観客は、この弱視に象徴的な意味合いを読みとらずにはいられない。作家の小野正嗣は本作「海は燃えている」を評した文章のなかで、次のように指摘している。

 極端に視力の異なる二つの目もまた、交わることのない昼(島民)と夜(難民)の世界のメタファーだと言うことは可能だ。そして、それは難民問題を直視しようとしない僕たちの「怠惰な目」のメタファーでもあるだろう。*4

 自分たちが暮らす小さな島に、移民・難民の収容所があるにもかかわらず、ランペドゥーザの(一部の)島民には、移民・難民の姿が見えていない。瞳は現実を捉えているはずなのに、脳がそのイメージを受けとっていない。サムエレ少年の「怠けた目」を矯正するバルトロ医師は、島に流れつく移民や難民の現実を直視するよう、スクリーンを眺める私たちに呼びかけているようでもある。
 本書の著者カッターネオが、バルコーネを保全して後世に残そうとするのも、イタリア人や、ヨーロッパ人や、命がけの移住とは無縁の国で生きる人びとが、「怠けた目」に映る現実に気づくよう願ってのことなのだろう*5。本書『顔のない遭難者たち』のドイツ語版には、「数字ではなく、名前を(Namen statt Nummern)」というタイトルがつけられている。本書で述べられているとおり、二〇一三年十月三日の事故では三百六十六人が、二〇一五年四月十八日の事故では約千人が亡くなった。だが、カッターネオや「ラバノフ」の仲間たちは、「数字」を数えるだけでよしとせず、地中海で没した犠牲者に「名前」を取り戻させようとする。航海の途次で命を落とした移民や難民を、たんなる「数字」として片づけるのではなく、そのひとりひとりに「顔」があり、「名前」があり、「物語」があったのだと知ることは、移住の現実を「わがこと」として捉えるための第一歩になる。本書『顔のない遭難者たち』は、「怠けた目」に映る現実を私たちが受けとめるうえで、またとない手引きとなる一冊である。

 本書の刊行にあたっては、晶文社の深井美香さんにたいへんお世話になりました。訳者は本書の翻訳・刊行を実現すべく、二〇一九年から日本の出版社への働きかけを始めていましたが、企画を引き受けてくれる版元はなかなか見つかりませんでした。編集者から断りの返事を受けとるたび、本書の第二章で著者が書いている「遠さ」(42ページ)を実感する思いでしたが、深井さんに関心を寄せていただいたことで強く勇気づけられました。本書の訳文は、千葉大学大学院の法医学教室で教授を務める、岩瀬博太郎先生に監修していただきました。『新版 焼かれる前に語れ 日本人の死因の不都合な事実』(柳原美佳との共著、WAVE出版)など、一般読者向けの著作で日本の法医学を取りまく現状をわかりやすく解説されている岩瀬先生からは、法医学や解剖学の専門用語を中心に、拙訳の問題点を丁寧にご指摘いただきました。また、「あとがき」のなかで触れたとおり、著者のクリスティーナ・カッターネオ先生は、訳者のぶしつけな質問にたいしても、真摯かつ親切な回答を寄せてくださいました。この場を借りて、皆さんにお礼を申しあげます。
 この本が読者にとって、日本と地中海の「遠さ」、私たちの日常と移住の現実の「遠さ」を埋める一助になることを、心から願っています。

二〇二二年九月、佐倉にて
訳者識

[版元紹介ページはこちら

*1. 北川眞也「グローバリゼーションと移民」、『教養のイタリア近現代史』土肥秀行、山手昌樹編、ミネルヴァ書房、二〇一七年、三〇九‐三二二頁。ランペドゥーザ島で継続的にフィールドワークを行っている北川は、イタリア人による移民・難民の救助活動を「感動的な」美談として演出しようとする当局の欺瞞を指摘し、海を渡ることを移民・難民に強いている主体は誰なのかと問いを投げかけている。以下を併せて参照。北川眞也「ランペドゥーザ島 モノが照射する境界化の政治」、『「政治」を地理学する 政治地理学の方法論』山﨑孝史編、ナカニシヤ出版、二〇二二年、二一七‐二三一頁。
*2. Siobhán O'Grady, "A migrant ship with a tragic history is at the Venice Biennale. A new migrant boat sinking shows it’s more than a relic", The Washington Post, 2019-5-10 (https://www.washingtonpost.com/world/2019/05/10/migrant-ship-with-tragic-history-is-venice-biennale-new-migrant-boat-sinking-shows-its-more-than-relic/). 事実、サミがこの作品を鑑賞したのと同日にも、地中海で移民を乗せたボートが転覆し、数十人が亡くなったとされている。
*3. ジャンフランコ・ロージ『海は燃えている イタリア最南端の小さな島』二〇一六年(発表)、ポニーキャニオン、二〇一七年(DVD)。引用部分の翻訳は訳者(栗原)によるもの。
*4. 小野正嗣「闇のなか、カメラを灯火にして ジャンフランコ・ロージ『海は燃えている』をめぐって」、『新潮』二〇一七年三月号、一六一頁。
*5. イタリアでは九月に総選挙が行われる予定だが、この文章を書いている段階では、移民排斥を声高に訴えるジョルジャ・メローニが率いる、極右政党「イタリアの同胞」の勝利が予想されている。メローニが首相となれば、イタリアの移民政策に大きな変更が迫られることは間違いない。訳者はカッターネオに宛てたメールのなかで、九月の選挙の結果は「ラバノフ」の仕事に影響を与えるかという点も尋ねてみた。それにたいする著者の答えは、「亡くなった移民にかんして言うなら、メローニが勝ったところで、大きな変化はないだろう」というものだった。左派も含め、死んだ移民に関心のある政治勢力など、はじめから存在しないからである(その一方でカッターネオは、もしメローニが勝てば、「生きている移民」にとっては厄介なことになるとも書いていた)。地中海の犠牲者の尊厳を回復させる仕事は、市民や政治家の無関心――私たちの「怠けた目」――によって妨げられている。

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