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ボランティアとは ~十人十色なボランティア観のうちのひとつ~

最近は美術館や博物館に行くことが多いです。特に絵を描くことが得意なわけでもない、手先が器用なわけでもない私ですが、ときどき足を運んでいます。なにか目的を持っていくわけではないのですが、家でnoteを書きながらぼんやりと考えていみると、美術館や博物館へ行った後は満足感と心のゆとりが生まれているように感じます。

忙しすぎるときに行くんですかね、それともプロジェクトが一段落したタイミングで行くんですかね。いつも不意に「美術館(博物館)に行こう!」と思うので、今度行きたいと思ったとき自分がどんな精神状態で、そんなスケジュールのときに行きたいと思うのか考えてみます。

このnoteにたどり着いた人はたぶん、、

  • 新着の欄で出てきた

  • ボランティアの経験はないけれど、ボランティアをする人はなぜしているんだろうと思った

  • ボランティアを経験したら、なぜボランティアをしているのかわからなくなってきた

という人が多いのかな?と思います。
今回は私の思う「ボランティア」について綴ります。

私はこれまで様々なかたちのボランティアを経験してきました。
ボランティアという名前の付いたもの、そうでないけど振り返ってみるとボランティアだったかもというもの、日本で参加したもの、海外で参加したもの、知っているコミュニティのために行ったもの、見ず知らずの人のために行ったもの。

(ここまで読んでくださっているみなさんも一度自分のボランティア経験について思い出してみてください。)

ボランティアについて思い悩む場面やボランティア経験について発信する場面に出会うと決まって「偽善」というワードを見聞きします。
「ボランティアって偽善なんだろうか。。。?」、「偽善と思われてもいいから私はやる。」などなど。
偽善を「自己満足」というワードに置き換えても然りです。
でもみなさんボランティアをしているときに、「今私は偽善の心で動いている。」、「私は自己満足のために活動している。」と頭に浮かびますか?
少なくとも私は浮かびません。
これらのワードが浮かぶのはいつも活動の前後や、活動中ふと暇になり無力感に襲われたタイミングではないでしょうか?

「ボランティアとはなにか?」この問いに対する私の答えは、一言で表すと「ボランティアとはスポーツだ。」です。

「え。なにを言っているんだこの人は。」と思った皆さん。ここまで読んでくださりありがとうございます。どうか読むのを止めずに、最後まで読み切ってください笑

個人競技でも、団体競技でも、スポーツをしているときを思い浮かべてみてください。言葉で多くを交わしていなくてもどこか一体感が生まれたような気分になり、満足感や心のゆとりが生まれていませんか?(もちろん、試合でこてんぱんに負けた後はべつですが。)

私はボランティアをしているとき、もちろん同じ作業をしながら言葉を交わすこともありますが、共通の言語をもたない人と作業をしているときでも、一緒に作業をしているうちに次第に相手の意図が分かるようになり、こころが通じ合ったような気持ちになることが多いです。
活動を通じて相手と心が通じ合い、活動のあと心にゆとりが生まれる。そんな意味で私は「ボランティアとはスポーツだ。」と思います。
丁寧に言うと、「スポーツと似たようなものだ。」と思います。
(もちろん、言語コミュニケーションを通じて、様々な人と仲良くなれるのもスポーツやボランティアの魅力ですよね。)

これが私のボランティア観です。お察しのとおり、このボランティア観を持ってからというもの、ボランティアを先ほど挙げた2つのワードのように思うことはありません。想像より、成果が残せなかったときも落ち込むことはありません。

このボランティア観は「私」がこれまで経験して感じた、「今の私」のボランティア観です。
みなさんも同じである必要はないと思いますし、変化していいと思っています。

さて、みなさんにとって、「ボランティアとは何ですか?」


ここまでを振り返って気付いたのですが、「満足感」と「心のゆとり」という表現、冒頭の美術館と博物館の話でも使っていました笑
美術館や博物館に行った後、ボランティアをした後、スポーツをした後、どれも共通して、私にとって充実した時間であり、非現実的な時間なんですかね。
なんか瞑想みたい。


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