小川榮太郎氏の新潮45に寄せた文章について思うこと

 概要

 新潮45に掲載された『政治は「生きづらさ」を救えない』という文について、初めて認識したのはこのツイートだったと思う。


 これが8月号に掲載された杉田水脈氏の文についての是非を問うものであった、というのはこのツイートの後から知った。
 小川氏の文章は杉田氏に対しての擁護、または否定を主に組み立てられている文というよりは、小川氏個人のLGBTへの偏見、嫌悪感、排除を主張する文に読めた。伝統的な、保守的な立場としてLGBTを認めるわけにはいかない、というような論調に過激な例え話を散りばめ、偏見や差別的な言葉を含んだ文章は、あまりに品がなく、また、読者がどう受け取るか、という配慮もなく、果たしてこれは原稿料を払って掲載し、読者の購入に値する文なのだろうか?という疑問が湧いた。
 ひとまず杉田氏のことはおいておき、小川氏のこの文章について一個人の感想を書き留めたのがこのnoteである。今後はジャンルを問わず、ツイッターなどにするには長文になるな、と判断したものを時折投稿していきたい。

新潮45への小川氏の寄稿文について

 まず、小川氏はLGBTについて調べておらず、このことについて今後も調べるつもりもない、という前提でこの文章を書いている。この時点でお金を払って読む文章とは思えない。論文、と小川氏は自称しているが、論文とは「論理的な手法で書き記した文章」である。小川氏の思い込みや誤解が、事実と異なる事柄や、現在のLGBTの状況を一切知ることもないという立場でLGBTについて書かれていますよ、と宣言されている時点で、論文ではない。これを論文と呼ぶのは読者を馬鹿にしているのではないだろうか。ある主張に対してまったく知識のなく、学ぶ意欲もない者の偏見と差別など、雑誌に掲載して広く読まれる価値があるのだろうか、という話だ。「よく知らないけど認めません」では幼児だって納得しないだろう。

 全て駄文であると切り捨ててもいいけれど、とくに物議を醸し出している「LGBTの権利を認めるならば痴漢の権利を認めてもいいのでは(要約)」の部分について触れていきたい。
 先般のツイートの箇所である。これだけを読んで言えることは、なんで痴漢という犯罪の権利を認めなあかんねん、である。
 おそらく、多くの方々がなにいうてんのこの人、どうした新潮社、という反応をしたであろうし、私もした。
 しかし、小川氏を擁護する読者や、一部の方の発言を読むに、それは誤読であり、小川氏は決して痴漢をよしとしているわけではなく、あなた方は痴漢を認めませんよね、それならLGBTの方々について権利を認めるのもおかしな話なのですよ、なぜならどちらも脳の問題なのだから、という反応を引き出すための論調なのだ、ということらしい。
 さて、それならばそういう風に読んでみよう。しかし、そのように読んだとしてもやはり問題はあるのだ。


 この箇所をメインに疑問に感じた箇所を箇条書きにした。
 ①SMAG(小川氏の造語)、サドマゾお尻フェチ痴漢とLGBTは本質的に同じである、という前提
 ②LGBTと痴漢という犯罪を並列に比較する、という問題
 ③痴漢に触られた女性の気持ち悪さの権利を考えるなら己のLGBTに対する不快感も権利として認めよ、という論調

 言いたいことは山ほどあるが、とくにこの三点だ。


 まず①、LGB(Tは性別の立ち位置の問題のため、分けて考えるべき)とサドマゾお尻フェチは、前者は性的指向、後者は性的嗜好、また、痴漢は犯罪である。
 LGBT自体、LGBTと分類することへの問題、指向と嗜好は重なる部分があり、分けるのはナンセンスであるという意見があるのは承知している。LGBとTは同列に語ることができないのは当然のことであり、またこの括り方に関しては私も疑問を覚える。そのことはさておき、あえて現行の分類にならって述べるのであれば、LGBなどの指向と性的嗜好は重なり合い分かつことができない側面もあるけれど、それは異性愛にも言えることであるし、重なろうが指向性は無視できない重要な枠組みである。同じもの、として述べるのは乱暴すぎる。しかし、だからといって小川氏の意見であるトランスジェンダーという概念規定で縛るのはよくない、科学、医学的なものではなく、政治的に反応すべき主題ではない、というのはいかがなものだろうか。トランスジェンダーはつまり、心の有り様と体の不一致、違和感なのであるからして、身体、つまり医学とは密接に関係のあるものだし、そうした人々への理解を促し、社会的に認める必要のあるものであろう。
 続いて②、SMAGとして、嗜好と犯罪を並べるのも如何なものか。そもそも、何故小川氏はSMとお尻フェチ、そして痴漢を並列し抜き出した造語を作ったのだろうか。寡聞にして存じ上げないので、どなたかご存知でしたら教えていただきたい。
 小川氏曰く、脳の本能的な部分、言い換えれば、理性の効かない性癖として全てを同じ扱いにしているが、いわば矯正しようとしても変えられない、という部分に値するのは性的指向だろう。誰を愛するか、という話である。その上で、嗜好、つまり趣味の部分は社会的に保障する立ち位置からはずれる。そして痴漢、こちらは専門家の方が述べているので参考にされたい。

 大前提として、痴漢は犯罪である。そして、LGBTは犯罪ではない。当然のことながら、これは同列に語るべき事柄ではなく、そこに至る発想自体が偏見と差別であると言えよう。また、LGBTの方がこれを読んで、不快に思うだろう、などの配慮に欠けており、読者を想定した文章ではないことがわかる。人に読ませる視点が欠けている文章など落書きにすぎない。
 そして③、痴漢被害者の存在を軽んじているとも取れてしまうため、女性が痴漢に触られることと個人のLGBTへの不快感を同列に並べることも、あり得ないことだ。LGBTは不快であると小川氏個人で思うことは止められないかもしれないが、そうした偏見を公言し、犯罪被害を我慢しろ、俺だって精神的ショックを受けてるけど我慢している、となんのイコールにもならない論調を述べるのは、LGBTだけでなく、被害にあう女性の権利をも軽んじているからだろう、と受け止める読者がいてもおかしくないのである。また、女性に限らず、全ての痴漢被害者の感情を逆なでしている。
 繰り返して述べるが、全て対比する対象がおかしい。ここまで差別的で不快感を煽るように書く必要性がはたしてあるのか、という話だ。

メディアの良心

 こうした意見はネット上でも散見されていて、新潮社の社員の中にも新潮45について疑問視している方々がいるようだ。特に調べもせずに書かれた文に原稿料を支払い、校閲が入ったとは到底思えない文章を掲載した出版物なのだ。そうした声が上がらない方が異常であろう。
 しかしこうした問題は、新潮社に限った話ではない。いかにも正しいことかのように偏見、差別を増長する文面、野次馬根性を煽るゴシップ、そうしたものを発信するメディアが数多く存在している。
 良心に背く出版は、死んでもせぬ事(佐藤義亮)この言葉を、今一度、新潮社だけでなく、また出版界隈だけでなく、テレビなども含むメディアにかかわる人間は今一度心に刻んでほしい。

LGBTと社会的権利の保障

 それにしても、なぜLGBTの社会的権利を認めるかどうかという比較対象に、痴漢であったり性的嗜好を取り上げて論じられているのか。これが私には全くわからない。
 シンプルに、異性愛者が既に得ている社会的保障と、現在のLGBTの状況を比較すれば良いのではなかろうか。ここを同じ土俵にあげない理由が、私には見つからない。
 トランスジェンダーをも纏めてしまうと混乱するので、愛する人がいる身体的な意味での同性愛者、とここでは表現させていただくが、彼らはなにも特別扱いをしろ、というわけではないだろう。単に、家族、パートナーとして、社会的に異性愛者が得ている権利を同じように得たい、というだけの話である。
 例えば、結婚相手として届け出を出せること、パートナーに当然の権利として遺産が相続されること、万が一の時、病院で家族として遇されること、そういった、今ある権利、ただし異性愛者限定となっている枠組みを拡げればいいだけの話なのだ。これだけのことをするのに、税金がどれだけかかるだろうか。今ある制度の対象の枠を取るだけである。私には、それほど巨額とは思えない。もしもどこかで大幅な仕組みの改定が必要で、税金が多くかかる、というのであれば、少額でもできることから制度の対象としていってもいいのではないだろうか。議論の場にのせることは、良しとされるべきだ。
 小川氏は『政治は「生きづらさ」を救えない』としているが、同性愛者に関しては、はたしてそうだろうか。社会的に整備され、当然の権利として認められる土壌ができれば、少なくとも今よりは息がしやすい社会にはなると思う。
 税金の使い道、少子化対策や社会保障の充実が最優先である、というならば、社会の一員である同性愛者の社会保障も考慮したって、いいだろう。
たとえば、むやみやたらに膨れ上がっているオリンピック費用の方が無駄なように、私には思えるのだ。豊かな他国での開催でも構わないだろう。選手には恵まれた環境で競技を行ってほしい。自国開催を楽しみにしている選手のことをどう思うのだ、という意見が出てきそうだが、自国開催に耐えうる状況でないのに開催地に手を挙げたこと自体が間違っていたとして、なんの落ち度も選手にはないが、その点をご考慮下さいとしか言いようがない。
 論点がずれたが、災害に多く見舞われ、そちらでも税金を必要とする現在の日本で優先すべき事柄とはいったいどこなのだろうか。まずは国民の幸せを優先してほしいものである。私は、何をおいてもLGBTの権利を優先しろ、ということではなく、特にこの小川氏の文章において、まるで議論すること自体が無駄なように扱われることに多大な疑問を覚えている。

同性愛と偏見が起こりうる謎

 小川氏のように伝統的保守派だと名乗る方々の中にある、同性愛者への偏見および差別、これはなんであろうか。一つは、何でもかんでも性的に意識しすぎている、ということはないだろうか。
 その意識は小川氏のパンツを履け、という一文にも感じ取れるが、異性愛者の恋人がいる、結婚している、という発言に対して、性的な事柄をいちいち意識するものだろうか?  同性愛者のカミングアウトは、それと同等であろう。もし他人が付き合ってるんだ、と言った端から性愛的な事を連想し妄想しているのであれば、それは貴方に品がないだけだ。
 同性愛の禁断さ、怪しさは快楽の源泉でもあるだろうという一文を小川氏は述べているが、何でもかんでも性行為に結びつけすぎている。LGBTという用語が一般的に使われるようになった現代において、そもそも同性愛は禁断である、ということ自体が時代錯誤といっても良いだろう。指向と嗜好をごっちゃにして認識しているからこういうことになるのかもしれない。無知とはおそろしいものだ。無知の知、という言葉があるが、知ろうという姿勢が全くないのだから小川氏の無知は無知のままである。
 人間は理解し得ないものには拒否感を覚えるというが、過剰に意識しすぎなのではないかと思う。同性が好きなんだ、へぇそうなんだ、で済む話なのだ。カミングアウトするとむやみに構えるのは自意識過剰である。異性ならなんでもいいわけがないのと同じように、同性ならなんでもいいわけがない。もし、告白されたなら、そのときは礼儀正しく自分の気持ちに基づきお返事すればいいだけの話なのだ。男女間となにも変わらないであろう。
 ついでに述べれば、同性愛者の話に、少子化を持ち込むのはナンセンスである。なぜなら彼ら、彼女らは同性愛者の権利が保障されようがされるまいが、パートナーと子どもを作ることはないからである。しかし、子どもを養育する、という面において養子縁組など方法がないわけではないので、少子化対策をと述べるのであれば、倫理などももちろん考慮しつつ、議論の場に載せたほうが良いだろう。例え結論として子どもに関する問題は認められなかったとしても、パートナーを愛する社会的権利は認め、少しでも幸福を得られる国民が増える方向へ進んだ方がよくはないだろうか。

終わりに

 今時、男女間でも結婚を選ばない人間がいる。同じように、選ぶ選択肢があれば良いと思う。また、現状として、男女で結婚できても選ばない、という選択肢をとる人も増えているということも考慮して、婚姻制度自体を現代社会に合うようにもう一度見直す時期に来ているのではと、私は思う。
 伝統とは、引き継ぎ、語り継がれるものであるが、一方で、社会にあわない制度に関しては、淘汰されながら培われて来たものでもあるのだ。これまで必要だったものは見直しの上守り、これから先新たに必要なものはその都度作り上げる、私はそんなバランスのとれた社会を望む。


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