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主日の礼拝(2022.5.29)

タイトル:主の昇天(2)派遣
聖書箇所:使途の働き 1章1~11節
メッセンジャー:吉川直美牧師


吉川直美牧師

教会福音讃美歌58番は、作詞した中山先生とオンラインで話す機会があって…教会の好きな賛美で、自分たちの教会のテーマにようにして、よく歌っているんですよ…とお伝えできたり…コロナ禍ではあるが、少し、人々の動きが出てきている感じがします。
その一方で、世界の不穏な動きも感じながら…時を過ごしている状態です。
来週がペンテコステで、先週の木曜日が、教会歴では「主の昇天」でした。
前回は、ルカの福音書から説き明かしをしましたが、今回は「使徒の働き」からです。この2つは、同一作者で「続きもの」なんですね。
ルカ福音書の最後のほうにも、この「使徒の働き」にも、イエス様の昇天について書かれていますが、それぞれ書かれている内容に違いがあって、それは作者が同一でありながら、伝えたい内容が違うからだ…という話を、前回は致しました。
ルカ福音書では用いられなかった「使途」という言葉が、「使徒の働き」では用いられています。いわゆる「12弟子」のことです。
ルカ福音書では、6章で、イエス様が12人の弟子を任命したと記されています。そのなかにはイスカリオテのユダも入っていました。
それまでのイエス様と、それに従ってゆく弟子だち…というストーリーから、今度は、イエス様は天に昇られたあとに、弟子たち、使徒たちが、どうやって生きていくか、が「使徒の働き」では書かれていくことになります。
「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。
まずは、キリストが苦しみを受け、3日目に死人のなかから蘇り、その名によって、罪の許しが、あらゆる国の人々に述べ伝えられる…エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります…と、ルカの福音書のほうには記されていて、「使徒の働き」では、エルサレム、サマリア、あるいは地の果てまで、わたしの証人となります…と記されています。
「証人」となるんですね。
旧約聖書に書かれていた「救い主」、力強くイスラエルを再興する王ではなく、イエス様は、十字架に掛かって、しかも犯罪人として殺され…けれども3日目によみがえって、復活のいのちを与えられるという…思いがけない「かたち」で与えられる「救い」であるということを…人々は神に立ち返って、そして神さまから許されて…そして神と人間との関係が回復するということにある…これまでイエス様が行ってきた奇跡や癒しも、その予言も、全て、このためにあった…という証人となる、ということですよね。
ヨハネの福音書では、過ぎ越し祭りの前の夕食の席…いわゆる最後の晩餐のときですよね…イエス様が、弟子たちに、約束されたことが書き記されています。
「あなたがたは私を探すことになるが、あなたがたは、私が行くところに来ることができない。しかし父の家に、あなたがたの場所を用意したら、あなたがたを迎えに来る」
これはヨハネの13章ですけれども…イエス様が黄泉に下られるときも、天に昇られるときも、弟子たちは、ついてこれないんですよね。地上では、ついて行くことができたけれども、もう、イエス様に、ついていくことができない…でも、場所を用意したら迎えに来ると、そうおっしゃっている。
また、ヨハネの14章でも、聖霊について、とても丁寧に、イエス様は説明しておられる。
「わたしが父にお願いすると、父は、もう一人の助け主をお与え下さり、その助け主が、いつまでも、あなたがたとともにいてくださるようにして下さいます。」
この方は真理の御霊である…あなたがたを孤児にはしない…聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが、あなたがたに話した、全てのことを、思い起こさせてくださいます。
その聖霊は、いつまでも…ともに、いてくださる…という約束です。
聖書を理解できるのも、聖霊によるのだけれども、彼ら(使徒たち)の、心の目を開いたのも、聖霊の働きであって、イエス様を通して、聖霊は、既に働いておられたんですね…。
聖霊というのは、教会の教えの中でも、一番よく分からないと云われることが多いと思うんです…なかなか実感することが難しいし…旧約聖書でも、聖霊というのは、働かれています…ただ、それは一部の人々であったり、一時的に特別なときであって、ずっと、ではなかった…これからは、いつまでも、分け隔てなく、イエス様を信じる者たちには、聖霊が、与えられる…そして、その聖霊を与えられた者たちの集まりが、キリストの体…つまり教会である…ということなんですね。
わたしは、このことを考える時に、自分が救われたときのことを、思い起こすんですね。教会に行き始めた当初、とても、戸惑うことがありました。
それは、私は、聖書を読んだり、誰かに教会へ誘われたり、また、何か、聖書に興味を持って、教会へ来て、説教を聴いて…そのような中で、救われたのではなかったからなのですね。
私は、もともと神さまを全く信じていませんでした。合理的なものしか信じない人間だったので…。そんなものがいるはずがない…いるとしても、私には縁がない…私になにかしてくれるとは思っていなかったんですね。
でも、あることによって、自分にとても深い絶望をして…もう自分では自分を助けることができない…ということがわかって…そして何か…超越的な、何者かが、この世界に存在するのだったらば、助けて欲しいと、祈ったんですね。
そのとき、わたしの手元にあったのは、アッシジのフランシスコ作とされている「平和の祈り」だけだった。そして同時に、自分の心を落ち着かせるために、沈黙して、今、自分は、ここにいる…という、そういう瞑想のようなもの…今で云うところのマインドフルネス…のようなものを、長い時間、使う時間を持っていました。
そのようなことをしているうちに、この世界に、神は存在していて、そして、それは、恐ろしい神ではなくて、この世界を、とても愛しておられる…そういう神である…ということに、目が開かれました。そして、それは紛れもなく、イエス・キリストであるということを…かなり時間が、かかりましたけれども、聖霊によって、教えられたんですね。
読んだこともない聖書の言葉が、わたしのなかに入ってきました。
これから、じゃあ、どうしたらよいのかなぁ…というときに、あなたの知りたいことは、すべて、聖書に書いてある…そして教会に行きなさいという…聖書と教会という、2つのことが示されたんですね。
それで、教会に行ってみると…ですね、クリスチャンという人たちは、聖書を読んで、教会に来て…という正式なルートがある…わたしは何か裏口から入ってしまったらしい…と、いわゆる聖書を読んで信じたとか…何か、そのようなルートで、信仰を持った人が、羨ましいと思いました。
そこで、聖書を学びたくて、すぐに、お茶の水聖書学院という…信徒向けの学校に入ったんですね。面接のときに、面接官から「どうやって救われたんですか?」という質問を受けて、聖書からではない自分の信仰体験を説明できずに、半泣きをしてしまいました。今、思えば、あれは聖霊の働きだったと思うのです。
聖書と教会につながる…ということが、聖霊の、いちばんの意味だと思うんですね。
このようにして教会は、イエス様に呼ばれて、聖霊を待って、聖霊によって遣わされてゆく人々の集まりです。
聖霊のバプテスマは、目に見える王国、イスラエルの再興ではなくて、イエス様が述べ伝えてきた「神の国」が立てられた、そのことの証人となるために、与えられるものなのです。イスラエルを超えて、全世界の回復が、そのことによって始まる…すでに始まっている…それを伝えていくのが…言葉によらず、自分という存在をもって伝えてゆくのが、使徒たちに与えられた使命であります。
イエス様が度々語られた例え話のなかに、主人が留守のあいだに家を守る…主人がそうであるように、あわれみをもって、自分たちの部下を治めて、主人が帰ってくるのを待ち望むという…そのような僕(しもべ)が出てきますよね。そのような役割が、使徒たちに与えられた…ということです。
そして、ここで、もう一つ、大事なことは、イエス様が「待ちなさい」と仰っていることです。4節に「エルサレムから離れないで、私から聞いた父の約束を待ちなさい」…その「父の約束」というのが、聖霊のバプテスマを与えられるということなんですけれども…この「待ちなさい」という言葉は、もともと「留まる」という意味の言葉です。
ヨハネの福音書、先ほども取り上げた最後の晩餐、その箇所で、この「留まる」という言葉が、再三でてきています。よく聞く言葉として「私に留まりなさい、わたしも、あなたがたに留まります」…その「留まる」という言葉の、とても強い、その強調された言葉が、この「待ちなさい」という言葉で使われているんですね。
ですから、時間的に、待っていなさいということだけでなく…留まっている…つながっている…信じて待っている…ということが言われている。まぁ、それだけなんですね…待っていなさい、留まっていなさい…エルサレムで、じっと待っていなさい…でも、それだけっていうのが、たぶん、人間にとっては、けっこう、難しいんだと思います。
なんか、こう、そこで、やらなければいけないんじゃないか?と思ってしまう…でも、ルカの福音書の最後でも、この「使徒のはたらき」の始まりでも、徹底して…弟子たちが自分でやることはない…すべて神さまが、イエス様が用意して下さって、それを受け取る…受け取りなさい…ということが、強調されています。
そしてイエス様は、弟子たちが見ている前で、空高く挙げられて、雲に覆われて、見えなくなってしまった…とあります。雲の上に、スッと挙げられていく…それが実際にどういう場面であったかは分からないというか…人々に分かりやすい表現を使っている…そして雲は、旧約聖書の幕屋でも…雲は、重要な役割を果たしていて、神さまの臨在をあらわしています。そして再び、そのようなかたちで、迎えに来てくださる…そのことが約束されています。
わたしたちは、こういう風にして見てくると、自分たちで、何か、地の果てまで述べ伝えなければいけない…というふうに、ちょっと、プレッシャーを感じるかもしれませんけれども、イエス様のほうで、もう、そのように用意して下さっていて、もうすでに、遣わされる者となっている…こう、頑張れば派遣するよ、ということじゃなくて、もう、誰もが、遣わされている。その自分という存在が証人となっている…だから、なかには、直接、宣教の技に携わる者もいれば、そうでもない人もいる。約束を信じて、聖霊とともに生きていくということが「遣わされる」ということではないでしょうか。
カール・マルクスは「宗教は民衆のアヘンだ」と批判をしました。現実から目を背けさせる、まぁ、いわゆる対処療法だ…と批判して、マルクス主義は宗教を信じないという道を選んだわけですけれども、わたしは、そうは思わないんですね。現実を直視しても生きてゆけるというのが、イエス様の約束を持っているということではないか?と思うんですね。
自分が、決して、客観的にみて、主観的にみても、幸福な状態…とは思えないとしても、貧しいとしても、あるいは豊かであったとしても、健康であったとしても、病を持っていたとしても、イエス様が、あなたを証人とする…あなたを派遣するという約束は実現する…証人として生きていることができる…ということだと思うのです。
弟子たちにしても、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ全土、そして地の果てまでも、証人となりなさい、と言われましたけれども、ここから、この「使徒のはたらき」を見てゆくと、彼らが計画性をもって、それを実現した訳ではなくて、なんか、やむにやまれぬ事情で、どっかに飛ばされてしまうとか、あるいは投獄されるとか、そのような…こう、そとから見たらネガティブな状況のなかで、教えは、述べ伝えられていっています。
ですから、努力しようが、しまいが、成功しようが、失敗しようが…ですね、神の国は広がっていって、今も、わたしたちは、この教会につながっている訳です。
では、使徒たちの存在とは、いったい何なのか?というのは、それでも、使徒たちを通して、神さまはなされる…聖霊は、なされる…聖霊は、使徒たち…つまり、信じる者の集団…集まり…つまり教会、そして、みなさんなしでは、聖霊の働きを進めることができない…わたしたちは聖霊なしには何もできないけれども、聖霊も、わたしたちなしでは、働くことはされない…ということです。
最後に、この教会について、がテーマである「エフェソ人への手紙」の1章20節には「…。」というふうに書かれています。先週、イエス様が、天に召されて、今は、神の右の座についておられて、全宇宙の王となられた…というお話をしました。天も、地も、地の下も、死者の世界でさえも、イエス様の支配のもとにあると、お話しましたが、「エフェソ人への手紙」の1章20節を読むと、空間だけでなく、時間も超えておられる。今だけでなく、次に来る世…たとえ世界が滅びたとしても、新しい天と地を、主が治めてくださる…イエス様が王として、わたしたちのことも、また被造物のことも、ケアしてくださる…世話してくださるんですね。
教会は、イエス・キリストを告げ知らせるだけではなくて、キリストを頭(かしら)として、弱いと見えるところも、強いと見えるところも、異なるはたらきも、すべて、キリストのからだとして、この痛みのある地上に、平和の使者として、イエス・キリストをいただいた者として、遣わされていくものであります。
ですから、みなさん、ひとりひとりが、キリストの使者であり、使徒であり、遣わされている者として、今日も、明日も、来週も…活かされていくものであります。


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