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コンピュータ後半【5】24歳

配属が京都に決まり1週間が過ぎた。
住んでいたのが大阪の下の方の泉佐野市というところだったが、勤務先は京都の四条通りの信用金庫だった。
通勤に時間がかかるってはいたが、僕はそれでも良かった。
しかし会社の総務から連絡があり、通勤費が4、5万かかっているからもっと安くならんかと連絡がきた。
そこで、引越し料金を会社負担にしてくれたらなるべく近くに引越しますと言うと、それがそのまま通った。
結局泉佐野から寝屋川に引っ越す事になった。最寄りが香里園と言う駅だったが、歩いて30分はかかっていた。
通勤費は15,000円くらいに下がった。

引越してからここでは色々あった。友達とその彼女が流れで一緒にする事になったりとか貧乏すぎて、缶詰が贅沢品になったりとか目の前のカレー屋さんに行きたいけど金が無くて給料日にだけ買いに行くその店のカレーパンが美味しかったとかあるがそれは仕事に関係ないので流す事にする。

最初に驚いたのは、コンピュータルームの中の機械がかなり古かった事だ。
ウルトラマンの基地の様な大きく丸いテープが回っていた。そしてCPUが並んでるからそこは気をつけてくれと言われた場所に見に行くと冷蔵庫くらいの大きさの物がズラーッと何十台と並んでいて、何故かその奥にプリンターの用紙がストックしてある。台車で取りに行くのだが、絶対にぶつけてはいけないと言われた。
使われていた言語はCOBOLと言う言語で、25年前の当時でもかなり古い言語だった。

エピソード1
ここで夜勤をする事になったのだが、夜勤が夜中の2時くらいに終わる事がちょくちょくあった。
僕はお金がないのでタクシーで帰る事もできず。朝までやっている喫茶店で過ごすか、駅の入り口の階段のところで寝て始発を待つしかなかった。
駅の入り口の階段で10月中頃に寝ていた時、流石に夜中で寒いなと思っているとホームレスのおじさんが僕に新聞紙を分けてくれた。この時新聞紙って薄いけど暖かいんだなと思った。
おじさんとは仲良くはならなかったが、お礼は言ったのだけは覚えている。

エピソード2
夜勤が夜中の2時に終わる事があるので会社に電話をし、帰れないのでタクシー代を会社に持って欲しいと頼んだ。するとわかったと言ってくれた。領収書を送ってくれたら給料にプラスするからと言われた。
助かったと思い。それからはタクシーで帰り、領収書を送っていた。
その次の給料日に振り込みの確認に行くとタクシー代が含まれていない。慌てて会社に連絡すると、振り込みは2ヶ月先になると言われて少し言い合いになった。結果2ヶ月は生活が破綻してしまった。友達に10万を借りてそこを凌ぐ事になる。あの時は貸してくれて本当に助かった。(3年後に全額とプラス2万を返した事は言うまでもありません。)
それからは必ず給料の振り込みなどは先に聞く様にしている。
トラウマになりました。

エピソード3
京都の怖さを知る事になる。
夜勤でタクシーで帰れない時は始発まで駅の入り口の階段で寝てるか、喫茶店でコーヒー一杯で粘るかしていると先輩に言うと、送ってあげると言われたので、助かりますありがとうございますと言って一度送ってもらった。
次の日、会社に行くとみんなから送ってもらったんと聞かれたので、本当に助かりましたって言うと少しへんな笑い方でどっかに行ってしまう。
あまり気にしていなかったのですが、僕をいじめていた先輩が僕に

「送ったるって言われて本気で大阪まで送ってもらうヤツがいてるんやな、普通遠慮して断るで、コレやから大阪から来たやつはわかってないな。」

と言われて、コンピュータルームの皆んなの対応はそう言う事やったんやなってなった。
京都の人への対応は本気で難しいんだなって思った出来事だった。

そんなこんなで働いていたが、やはり専門学校を出ている人と大学の理工系を出ている人の中で、普通科の高卒の僕では知識量に差があって、虐める人も何人かはいた。
特に同じ会社から出向で来ていた。直の先輩は酷かった。

エピソード4
僕の仕事はライブラリアンと言うプログラマーと言われる人がパソコンの前にいて、プログラマーが何番のカセットを何番の場所にかけなさいと言うのを見たり聞いたりしながらかけていくのが仕事だった。
同じ会社から出向の先輩はプログラマーだったので、指示を聞いてライブラリアンの先輩と2人でカセットをかけていた時の事。
同じ会社から出向の先輩が何番に何番をかけろと言ってきたが、本体側の番号がいつもと違う色に光っていたので、おかしいですけどかけるんですか?って聞くと早くかけろと怒鳴られた。しかしいつもと違うのでかけん方がいいと思いますけど良いんですか?ってもう一度聞き直した。
更に怒鳴られて、仕方なくかけた。
するといつもはデーターを読み込むのか書き込むので、少し出てくるまで時間がかかるのですが、すぐに出てきた。
おかしいと思い。コレで良いですかと確認すると、その直の先輩が、

「データー全部消えてるやん、何してるん、そこにかけたらあかんやつやん、本体側の字の色見てなかったんか」

と大声で怒鳴り散らした。
僕は、

「聞きましたよね、先輩にいいんですかって、先輩がいいっていうたからかけましたよ。」

といいかえしましたが、

「人のせいにするな。」

と言われて、僕は言い合いをやめた。
先輩ですが、僕の方が3つ年上だったので、言い合いをしていても仕方がないのでどうしますかとなった。
プログラマーの上の人がとりあえず。夜勤はこなせるから明日昼勤が来て対策考えてくれるからこのまま進めよかってなった。
同じライブラリアンをしていた先輩が、僕の所に来て小声で、

「何回も確認してたよな、言うて来たろか。」

と言ってくれたけど、

「それでもかけたのは自分なんで、このままでいいです。ありがとうございます。何回も確認したんですがね。」

と返した。
次の日、出勤するとシステムエンジニアの人が10人くらい集まっていて、その中の1人にこの会社でバスケットを一緒にした先輩がいて、この人が僕に

「データー壊したらしいやん、アレ10年保存せんとあかんやつやったから朝から大事になってたけど、他のデーター全部あったから復元できるから、心配せんでもいいからな。」

って言ってくれた。助かったーってなって何回もありがとうございますって言うたのを覚えている。
直の先輩は、えらい事してくれたなってばっかりみんなの前で僕に言うていた。

次の昼勤の時に部長に呼ばれて、頭取に謝りに行かなあかんから一緒に来て欲しいけど、嫌なら俺1人で行くけどどうするって聞かれたので一緒に行きますと言い。謝りにいった。途中で部長に本当にお前でいいんかとも聞かれたが、理由はどうであれかけたのは僕なんで、僕でいいです。
と言った。しかし謝りにいくと部長が注意されて、僕にはあまり何も言ってこなかった。
コンピュータルームに戻る時に部長はあまり気にせんでいいから、たいした事ないから復元できるし、次から気をつけてなって言ってくれた。
はいとだけ言ってそのままコンピュータルームに帰った。
直の先輩はコンピュータルームの他の人に俺のせいにされそうになったと言いふらしていたので、僕は働きづらくなったのは間違いない。
温厚な僕もしばいたろかと思ったは言うまでもない。

良い事もした。

エピソード5
僕がしていたライブラリアンと言う仕事は、書庫というところに過去の信用金庫の取引データのカセットテープが山盛りあった。
カセットテープといっても映写機に使うくらいの大きさの物でそれが何百も本棚の様な棚に雑然と並べられていて、それは何処に直すとか決められていなかった。
夜勤で使うカセットは少し進んでいて、大きめのファミコンのカセットくらいの物だった。
夜勤で使う分はキチンとラベリングしていて、すぐに言われたカセットを見つける事ができたが、大きい方はそんなに頻繁に交換して行く物ではないので、整理していなかった。
僕はそれが納得できなかった。言われて探し出すのに結構時間がかかる。慣れている先輩でも、色々な人が出し入れしているので、前の勤務の人ならこの辺かなとかいう感じで探していた。
なので、全てのラベリングを書き出し、消えかかっているラベルを作り直し、書庫の棚に英語と数字で住所を決めテープを直す場所を全て決めて何処にどのテープがあるかを描いた地図を作った。
かなり時間がかかったのと仕事をしながらなので、別の人に直す場所を理解してもらうまでは、書かれた所にテープが帰っていないという事で、逆に混乱してしまって先輩に怒られた事もありました。
しかし何回も何回もやり直しながら、絶対に整理した方が後々便利になりますからと説得して、やり続けていると、3ヶ月目くらいからほとんどバラバラにならずに使いやすくなってきた。
その後すぐに辞めてしまったのですが、同期で信用金庫に入社した人がいてその人と偶然駅であったのですが、あの地図が今ではかなりやくに立っているといっていたので、頑張って良かったと思う。新しく人が来た時に探し回るのって新人だしかなり気を使うので、それが少しでもマシになったのなら良かった。

エピソード6
忘年会をその年の最後の出勤の後にコンピュータルームのみんなでする事になった。
部長の奢りだったが、晩御飯を食べてすぐにお開きにするので来て欲しいと言われて僕も参加した。
高級な中華の店で美味しい中華料理をたくさん食べた。
この辺で終わりかなってなった時、部長が近づいて来て僕に小さな声で、
「お腹いっぱいになったか?
給料少なくてご飯もしっかり食べれてないんやろ、デザートたのめ」
と言いに来てくれた。
僕は嬉しくて嬉しくて泣きそうになった。
昼メシ代がなくて、自分で弁当作って行くのだけど、中身はご飯と卵焼きかウインナー焼いたやつのみ。
夜勤時はギリギリまで寝ているので、200円だけ持ってジュースと薄皮クリームパンのみだった。
見られていたんだなと思った。

デザートは胡麻団子を2皿で四つ頼んだ。めちゃくちゃ美味しかった。その日から僕は中華のデザートは胡麻団子になった。
いつもたべながら、今の生活って贅沢になったなって思いながら胡麻団子を食べている。
物凄く良い思い出です。
しかもこの年2000年問題といって、年が変わる時にコンピュータが暴走するのではないかと言われていて、年末年始の年が変わる瞬間は携帯を持って自宅待機していて欲しいと言われていたのも懐かしい思い出です。
何もなかったのですがね。

そんなこんなで頑張りながら、時には同じ会社から出向の先輩にいじめられながら信用金庫の人達とバスケのチームで一緒に練習したりして過ごしていた。

ある日親から電話がきた。
オヤジの会社の借金が返せないから、戻って来て一緒に返して欲しいと言う電話だった。
僕の今の仕事では自分の生活も本当にギリギリだったので、仕送りをする事は考えられなかった。
オヤジの会社を辞める時に薄々はこんな感じになる事はわかってはいたが、本当に電話がかかってきた時は一瞬だが断ろうとも脳裏をよぎった。
しかし、ここまで自由にさせてもらって来た。
勝手にガス会社辞めて大学行くために予備校に行くからと事後報告して、大学落ちたからまたガス屋で働かせてもらって、コンピュータ会社にも入れた。
まだまだこの仕事をしてみたいのはあるけど、親を見捨ててまでやる事なのかと思い。
即答で了解した。

母親は喜んでいた。
オヤジはすまんすまんと言っていたが、今の会社はイジメられてるし辞めようと思ってたところやからとウソをついた。辞める気はなかった。でもそう言わないとオヤジが僕にかなり気をつかう事はわかっていたのでこの嘘はいいだろうと思った。
僕はコレもまた自分の運だと思った。
次の日信用金庫に退職の旨を伝えて、
その後すぐに自分の会社の技術の部長と総務の部長に連絡した。
色々言われたが、ひと月後に退職になった。
辞める2週間前に送別会を開いてもらった。

エピソード7
送別会はコンピュータルームの人全員が来てくれて、ワイワイやっていた。お酒もかなり入ったところで、主任が、

「もう辞めるんやからこの会社で嫌いな人ベストスリーをあげてよ。言われた方も無礼講でいいですかー」

といったら

「オッケー、いってみよう」

となった。
ここで引くのは面白くないと思い。

「わかりました。本気のヤツいきます」

と答えて、ベストスリーをいう事にした。

「3位課長 理詰めで怒って怖いから」

「2位主任 顔が怖いから」

ここまでは凄く盛り上がってて、なんでやねんとか、来週からお前に仕事はさせんとか言われて無礼講ですやんとか言い返して盛り上がっていた。

「1位同じ会社から出向で来ている先輩」

と言ったところで止めといたら良かったのですが、本当に色々イジメてくれたのとお酒が入り過ぎていたので、近いていってしまった。

「俺は色々教えてあげたし、世話してあげたのになんやねん」

「お前には何一つならってない。先輩じゃなかったらシバキあげてるところやで、かなり我慢してたけど、ええ加減にせーよ。舐めんなよ。」

と言ってしまった。
会場はドン引きになっていた。シーンっとなってた所を課長が、

「無礼講やから楽しもか」

と言ってまた普通のテンションに会場がなった。
その後はあまり何もなく、次も頑張ってなとか寂しくなるなとか言われてお開きになった。

この後の辞めるまでの2週間先輩にじわじわとイジメに会う事になる。
社会人の無礼講は本気でいってはいけないとこの時思った。仕事の鬱憤が歯止めを効かなくさせるようです。

しかし僕としてはそこそこ面白かったので2週間の針のむしろは良しとします。

色々な経験が出来て良かったと思う。しかしこの仕事だけはまたに思う事がある。
もし辞めていなかったら僕はどんな人生になっていたのだろうかって、コンピュータ関連の仕事を続けていけたのかもしないとかね。
僕の人生はやらないでする後悔だけはしないと強く思って生きています。
もしあの時親を見捨てていたら今頃もしかしたら大後悔しているのかもしれないとは思います。


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