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人の行動原理と道徳について考える

自分が嫌いだと思っている相手は、大抵の場合、相手も自分のこと好いていない。
嫌いな人に行う言動の端々には負の感情が現れ、相手に伝わってしまうものだ。

同じように経営者が社員に対して悪意をもっていれば社員も経営者に対して悪意を持つようになる。

悪意を持っている人々は悪意の対象である相手に悪事を行うことを厭わなくなる。
悪意を持った社員はまず、会社の為に頑張ろうという意欲を失い、組織の道徳心が破壊され、人々はいがみ合い、良い働きが職場からなくなり、行きつく先は組織の破綻だ。

根が腐っている木はやがて腐る。
同じように、組織の指導者が悪意を持っていればやがて組織も朽ち果てる。

逆に組織の指導者が道徳心をもって社員に接すれば、組織全体に道徳心がいきわたり、人々は会社の為に働き、良い組織となる。

しかし、この意見に中国の思想家である韓非子は「明主のその臣を導制する所は、二柄(にへい)のみ」(すぐれたトップは二つの柄を握っているだけで部下を使いこなす)と異を唱える。

韓非は人を確実に動かすものは結局のところ道徳や信頼などの類ではなく「利益」と述べた。

韓非子の考えはこうだ。

  • 道徳心や真心で人が働くなら給料や法は必要無い。

  • 人は皆、利己心を持っているので罰を恐れ、賞を喜ぶのが常である。

  • 信頼や道徳や正義や真心と言ったようなもので動くような聖人君主は、100人のうち10人もいない。

  • 道徳や真心というようなものは人格者しか動かすことができない。

  • 給料による報酬と法による罰が人々に与えられる利益の量を操作し、これが人々の利己心に働きかけ人を確実に動かす。

利己心とは他人の迷惑などを顧みず自分の利益だけを図ろうとする心だ。
世に100人の人がいればそのうち100人は己の利益を欲している。

だから経営者が罰と賞の二つの権限を握っていれば、社員を震えあがらせたり、手なずけたりして、想いのままにあやつることができる。

凡人や悪人に対して道徳心をもって接しても相手は恩に報いることなどを考えずにこれ幸いにとばかりに怠け、これ幸いとばかりに自分の私益の増幅を試みる。

これをしたら給料をいくら増やす、これをしたら給料をいくら減らすというようなことを明確にしておけば、聖人君子でない人であっても、人々は自分の利益の増幅を考え、勤勉に働いて悪事を避けるようになる。
つまり、法は道徳や信頼などと違い100人中100人の利己心に確実に強烈に働きかけると考えた。

一方で孔子の考え方はこうだ。

  • 法や報酬は小手先の応急措置でしかない。

  • 法による厳しい統治をおこなうと、人心が破壊されて道徳心が破綻する。

  • 法によって縛られると最終的に人は自分の利益のためだけに動く。

人と人とを真に強固につなげるのは信頼関係や道徳だ。
凶弾に倒れ、悲痛の死を遂げた安倍元首相はこの信頼関係を築く天才といわれ、各国の首相と利害関係を超えた関係を築いた。

彼のような外交手法は、信頼を築く前に行うことは不可能なので、ポッと出の総理大臣では同じようなことはできないだろう。

金をばらまく相手に、受け取る側が良い顔をするのは当然のことだ。
だが、その先に良い関係性を築いていくことができるだろうか。

ファンを大事にせず、裏で悪口ばかり言うアイドルが長続きしないという事例や立場のある人が、その立場を離れた途端、周りから人がいなくなったという事例、つまり利益だけを追求した結果、結局何も残らなかったという事例は枚挙に暇がない。

法によって結束した組織は、自分の利益のためだけにくっついている烏合の集なので、容易に離散する。

これらの考え方はどちらが正しく、どちらが間違っているといった話ではなく、考え方の問題、つまり教育や育ってきた環境によって形成される価値観の問題だ。

道徳に欠けると韓非子のような利益追求型の考え方に至るし、道徳が満ちていれば孔子のような考えに至る。

道とは、人が従うべきルールのことであり、徳とは、そのルールを守ることができる状態をいう 。

「子の曰く、これを道びくに政を以てし、これを斉うる(ととのうる)に刑を以てすれば、民免れて恥ずること無し。これを道びくに徳を以てし、これを斉うるに礼を以てすれば恥ありて且(か)つ格(ただ)し。」

「先生が言われた。法制禁令などの小手先の政治で導き、刑罰で統制していくなら、人々は法の網をすり抜けても恥ずかしいと思わないが、道徳で導き、礼で統制していくなら、道徳的な羞恥心をもってその上に正しくなる。」

(孔子 「論語」より抜粋)


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