無・生命・宇宙

宝石の国の続きを読んでいる。


ずっと仏教だと言われてはいたが、

しっかり仏教なうえに科学的でもあった。

それはそもそも仏教が量子力学的であることも含める。


シメジシミュレーションは、科学を背景としたテクスト(文)によって、文学的でロジカルなアプローチで生命のあり方を考えた。


一方で、宝石の国は、宗教を背景としたコンテクスト(物語)によって、芸術的でエモーショナルなアプローチをしている。


シメジで残った違和感は、生命シュミレーションの想定について。

混沌から無へとの間に生じた物が生命とするのはなぜか。

最初の記号や熱を与えたのは何者なのか。

加速度的進化の果てと無の関係は。


宝石で不明だったのは、無への絶対的信頼と渇望について。

無を安寧を求め祈るべき救いとして描かれるのはなぜか。

シメジは無を恐れるが、宝石ではそれを希う。

この違いはなにか決定的な差な気がした。


その差異をぼんやりとどめながら、

近ごろ読んだユクスキュルの環世界や、

オッペンハイマーを見て物理学に触れた上で読む。


うっすら身につけた物理学において、神はサイコロをふるらしい。

そして、宇宙のはじまりの一撃はどうやら必要がない。

潜在的なエネルギーを持つ真空が想定される。

要するにはじまりは無であるらしい。


無から偶発的に発生した宇宙は、加速度的に膨張し、破滅する。

すると、宝石の世界観における宇宙の設定はかなり堅い。

103話はこの辺りの表現があまりにも直感的で美しい。

ただ、消滅でなく流転とするのは宗教的救済か。


何にしろ、無を渇望する思想の不思議に少し触れた気がした。

シメジや僕自身(西洋的個人主義)において宇宙とは、

その破滅や無とは、パスカルの感じた沈黙に近い。


その反面、宝石で語られる無とは、自由である。

その姿は奔放で豊穣。進化はないが流転する。

人間が不要だというのだけは厳しいが。


世界の終わり(あるいは始まり)を考えるとき、

どうして無が想起されるのかという疑問は、

自分の中である程度の解決がついた。


そして、その取り扱いに対する2つの差については、

人間(的)である事をやめられるか否かということだ。

それは、物理学を始めとした知性(確率的に存在する)を、

進化や進歩に必要な向上心や探究心(欲望)を手放すこと。

生命としてのあり方によってのみ、世界を感じること。


安直に言ってしまえば、聖か俗か、自然か不自然かである。

この対局の視点を内在化させるのに、環世界という認識が役立つ。

人間の生きている世界の他に、生命の世界に開かれておくこと。

あくまでも人間としてできることはそのくらいなのだ。

人間であることは疲れるとベルクソンも言っている。

次の読書はベルクソンにしようの決めた。


余談だが、みんなの幸せを願う鉱物生命体、というのは、

もちろんそのまま読むほうが素敵だとは承知の上で、

やはり安直にも宮沢賢治を想起してしまう。

石とその詩にも、ちょっと影響を感じる。


何にせよ、宝石の国の最後を楽しみにしている。

どのような読後感を感じるかわからないが、

しっかりと見届けたい。










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