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【短編小説】代償
その子に出会ったのは、その子が死ぬ1週間前だった。マンションのエントランスに独り座っていたので、気になって声をかけた。
「ママと喧嘩しちゃったの」と女の子は寂しげに笑った。体つきは細く、華奢と言うよりはガリガリといった印象だった。
「こんな所にいたら危ないよ。俺が一緒にママのところに行ってあげる」
「ううん、いいの。今帰っても、多分許してもらえないから」
女の子が固辞するので、俺は仕方なくそのまま家に入った。
数時間後、深夜に小腹が空いたので、俺はコンビニに出かけることにした。1階までエレベーターで降り、エントランスに差し掛かった時、さっき出会った女の子がまだ座っていた。眠いのか、うとうとと頭を揺らしている。
「あっ、おじさん…」女の子は俺に気付き、気まずそうにそう言った。まだ自分がここにいることを咎められると思ったのか、首を引っ込め体を強張らせている。
俺はおかしいと思った。いくら何でも、深夜まで子供を外に放置するなんて、普通の親ならありえないだろう。それも大学生ならいざ知らず、まだ小学生くらいの女の子を。
俺はどう声をかけるべきか悩んだ末に、女の子の前にしゃがみ込んだ。
「今度こそ、俺と一緒にママのところに行こう。もうずいぶん遅い時間だからね」
「ううん…」と彼女は悲しげに首を振った。
「ママはお仕事に出かけちゃったから、帰れないの」
俺はどうしたものかと思い、彼女を保護すべきか悩んだ。とりあえず通報でもすべきだろうか。そんな考えが頭の中を巡り続ける。
そんな時、彼女のお腹がぐぅ、と大きな音を立てた。そういえばと思い出す。夕飯時からずっとここにいたんだ。きっと何も食べていないんだろう。
「ちょっと待ってて」
俺は慌ててコンビニまで走り、サンドイッチとジュースを買って戻った。女の子は不安そうに俺を見上げている。
「これ、食べな」俺は先ほど買ったものを差し出した。彼女はじっと袋の中を覗き込みながら「いいの?」と言った。
「もちろん」俺は一緒に買った缶コーヒーを手に、横に座る。もう少し様子を見て、誰も彼女を引き取りに来なければ通報しよう。
「ありがとう」女の子は空腹に負けたのか、あっという間にサンドイッチを平らげた。
「そういえば、名前はなんて言うの?」俺はジュースを美味そうに飲む彼女に訊いた。
「アリサ、河野アリサ」
「そっか、俺は高山ジュンって言うんだ。5階に住んでる」ちゃんと身分を明かしておいた方がこの子も安心するだろうと思い、名前と住んでいる場所を伝えた。
「わたし、7階なの。1番端っこ」
彼女も俺に釣られて住んでいる場所を俺に教えてくれた。これで通報時にスムーズになりそうだ。
それから、彼女と他愛のない会話を重ねた。学校のことや友達の話をする時は明るく、嬉しそうに色々なことを教えてくれた。
一方で、家庭のことに関しては触れてほしくないのか、訊いてもはぐらかされることが多かった。
「ジュンおじさんは、お仕事何してるの?」
缶コーヒーが空になり、そろそろだなと思っている頃に、そう聞かれた。
「ただのサラリーマンだよ」と、俺は嘘をついた。こんな小さな子に説明するには馬鹿馬鹿しいような、難しいような研究を本当はしてる。見知らぬ女の子とはいえ、「何それ」と笑われるのは嫌だなぁという思いがあった。
そんなことを考えていると目の前に男が立っていることに気付いた。ジャージ姿にボサボサの金髪。目は怒っているが、その怒りは女の子の方に向いていた。
男は乱暴に女の子の腕を掴むと「帰るぞ」とだけ言って引っ張って行こうとした。女の子は先ほどまでの明るい顔はどこへやら、何かを諦めたかのような暗い顔を男に向けていた。
俺は呆然と、ただその様子を見ることしか出来なかった。エレベーターに2人の姿が消えた時、俺はハッとした。俺は、あの男を呼び止めるべきだったんだ。いや、もっと早く通報すべきだった、と。
1週間後。テレビのニュースに彼女の名前が載ることになった。彼女は家庭で虐待を受けており、その末に亡くなった、と。
俺はそのニュースを、拳が白くなるほど握りしめながら睨んでいた。
俺の馬鹿馬鹿しく難しい研究。端的にいえば、タイムマシンの開発だった。ただ、過去に戻れたり未来に行けたりするマシンを作るというよりは、別の時間軸に通じる時空の歪みを見つけるマシンの開発、と言った方が正しい。
どういう訳か、この世界には大小様々でありとあらゆるところに目に見えない時空の歪みがあり、それは様々な場所や時間に通じていることが研究で判明した。
昔の論文なので詳しくはないが、きっかけは猫がワープするという研究だったらしい。その当時はただ猫が時空の歪みを利用してあちこちに移動している。という程度の発見だったらしいが、今ではある程度の確度で時空の歪みがいつ、どこに通じているかを見つけることができる。
人間がその時空の歪みを利用した際の影響はまだ研究されていない。そもそもが時空の歪みの発見までしか研究が進んでないし、過去や未来に干渉することに関してはもっとシビアな議論になる。端的にいえば、タイムパラドックを起こしかねない、ということだ。
たまたま知り合っただけ女の子のためにそこまですべきなのか?
きっこのことがバレればそんな風に世間で騒がれるだろう。ただ俺は、直接関わった俺としては我慢がならなかった。彼女の笑顔。自分の不甲斐なさ。様々な感情がごちゃ混ぜになって、俺は無我夢中だった。
俺は研究室から試作タイムマシンこっそり持ち出すことにした。タイムマシン自体はノートパソコンを改造したもので、大きくはない。
俺はリュックにタイムマシン突っ込み、仕事を早退した。
正直、家に帰りつくまで気が気じゃなかった。道中同僚に話しかけられた時には、心臓が飛び出すかと思うほどだった。
どうにか無事に家まで持ち出し、俺はタイムマシンの時刻を設定する。1週間前、深夜1時。
あとはマシンが指示する場所に行き、過去の時空に通じる歪み飛び越えればいい。
歪みの場所は自宅マンション横の公園に設置されたトイレの裏側だった。
俺はタイムマシンを握りしめ走った。時空の歪みは目視では確認できず、そこにはただトイレの壁と公園の生垣に挟まれた細い通路があるだけだった。
ただ何も考えず俺は時空の歪みに突っ込んだ。途中黒猫がびっくりした様子俺を見ていたような気もするが、構うものか。
ぐにゃりと視界が歪んだかと思うと空が目まぐるしく昼と夜を行き来する。片足が地面に着いたかと思うと、周囲は静かな夜になっていた。
俺はスマホの時刻を確かめる。1週間前、深夜1時。
無事時空を飛び越えた喜びよりも、俺は焦っていた。急がないとあの男が帰ってきてしまう。
俺は遠くからエントランスの正面部分に移動し、こっそり覗き見る。そこには楽しそうにおしゃべりをする女の子と俺が座っていた。
涙が込み上げそうになりながら、何も考えず俺は110番した。夕刻から深夜まで女の子が独りマンションのエントランスに座っている。家に帰りたがらず、体にあざのようなものがある。まぁ、あざに関してはニュースで聞いただけで実際見てはいないが、そう伝えた方が警察も早く動いてくれると思った。
マンション前に居るので来て欲しいと伝えて、俺は電話を切った。あとは過去の俺がどうにか誤魔化してくれると信じ、俺はタイムマシンで元の時空に通じる歪みを探す。
どうか、うまくいきますように。
俺は家から2駅隣のカラオケ店横の路地まで、急ぎ足で移動しながら、そう祈った。
時間は戻り、1週間後。
俺はカラオケ店横の路地に転がるゴミ袋に足を取られながら、急いでスマホニュースを確認する。
そこには10歳少女が保護されたこと、母親が虐待で逮捕されたことが端的に書かれていた。
これで、一安心だ。
俺は満足しながら、スマホを仕舞う。がやがやとした繁華街を抜けて、駅に足を向けた。
その瞬間、背中に何かがぶつかった。
かなりの勢いだったので、思わず背中に手をやった。ぬるりと生温かな液体に触れる感触が手に伝わる。
まさかと思い、俺は後ろを振り向く。
そこには1週間間に女の子を連れて行ったあの男が、真っ赤になった包丁を握って立っていた。あの時、女の子に向けられていた怒りが、今度は俺の方に向いている。
「よくも…」男が震えながら口走る「よくもアリサを連れて行きやがって!」
俺はそこまで聞いて、立っていられなくなった。
そういえばと、先ほどのネットニュースを思い出す。母親は捕まったと書いていたが、男が捕まったとは書いていなかった。
周囲からきゃあ、と悲鳴が上がり、続いて怒号が飛び交う。
地面に突っ伏した俺は、男の方を見る。周囲の誰かが男を取り押さえたのか、男は地面に押さえつけられ地面に血染めの包丁が転がっていた。
これが、時空を身勝手に飛び越えた代償なのか。
喧騒に囲まれながら、俺の瞼が静かに落ちた。
※少し関係あります。