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首を括り損ねた10年前の僕へ

 「瞳゛を゛ーと゛じーれ゛ばーあ゛な゛ーた゛がーーー」
 彼女が物干し竿の近くに立ち、ひとりで音割れしながら「3月9日」を歌っていた。確かにいまは卒業・入学シーズンだ。それを意識しているのかと思ったが、そんなことはなかった。単純に、いまそれを歌いたい気分だから、という理由で選曲したようだ。
 そのまま「まぶたの裏にいることで」と歌いながら僕のまぶたを持ち上げて中に入ろうとしてきたので、やめてほしいと伝えると、不思議そうな顔をしながらやめてくれた。いくら恋人とはいえ、まぶたの裏に入れることはできない。

 僕は高校の卒業式で「3月9日」を合唱したので、一応すべての歌詞を覚えている。ただ、卒業式の記憶はほとんどない。ちゃんと覚えているのは、3年間お世話になった担任の先生を最後まで困らせていたことだけだ。

 先生は美術を担当していた。クラス替えは毎年あったのに、僕は3年間同じ先生のクラスに振り分けられていた。彼は灰色の髪にメガネをかけた、いわゆるおじいちゃん先生だった。私たちの卒業と同時に定年退職をすることが決まっていた彼は、いつも柔らかく上質なスーツを着て、身につけたスーツと同じくらいに上質な、優しい声音で僕に話しかけてくれる人だった。学校は嫌いだったが、先生のことは好きだった。好きではあったが、卒業式の日はどうしても、彼を困らせなければならない理由があった。

 僕の高校には制服があり、始業式や入学式、それから卒業式では「正装」としていくつかの決まりを守った着こなしをする必要があった。たとえば、ふだんはネクタイ着用が認められている女子生徒も、式典の時にはリボンを着用する、とかそういった類の決まりごとだ。

 僕は戸籍上女子生徒だったので、制服は女子のものを着用していた。19の時に性同一性障害(つまり、精神的には男)と認められることになるが、当時は診断が下りていなかったから、当然のことながら扱いは女子生徒だったのだ。

 つまり、卒業式にはリボン着用で出ることになっていたのだが、僕はそれがどうしても嫌だった。当時の僕としては「スカート履いてやってるだけでも5億歩は譲っているというのに、リボンなんか付けてられるか」といったところだ。

 だから卒業式の日、ほんとうは覚えていたのに、わざとリボンを”忘れて”教室に入った。そのまま何食わぬ顔で体育館まで歩き、会場に入る直前で、先生に首を傾げられた。

 「くらや、リボンは?」
 「忘れました」

 直前まで黙っていたのは、事前に何かしらの策を講じられて、リボンが手に入ってしまうことを防ぐためだった。先生はやはりというか、すこし困ったような顔をしていた。予想通りとはいえ少しだけ心が痛んだ。

 ウーン、というような音がしたあと、予想よりも早く先生は気を持ち直したようだった。

 「……まあ、でも、いいかもね。君らしいよ。いってらっしゃい」

 先生はそう言って微笑むと、問題児を式に送り出してくれた。なんて大人だ。私は、すみません、とか何とか口走ったかどうか定かではないが、とにかく「先生を最後まで困らせてしまったな」と、少し申し訳なく思っていた。

 そもそも、入りたくもなかった高校だった。卒業式に、なんの思い入れもなかった。明るいうちに家に帰れる日が続いて嬉しいなとしか思っていなかったかもしれない。
 いい思い出も、演劇部に所属していた最初の1年ほどを除けばほとんどない。
 在学中、危うく、本当にうっかり、明日が来ることが気が狂うほど嫌になって首を括りそうになっていたほどには、追い詰められた高校生活だった。

 首を括るのに失敗したのは高校1年の冬なので、ちょうど10年ほど前のことになる。

 僕は今でもあの日のことを事故だと思っている。はっきりそれとわかるほどのきっかけも、無い。ただ、心が折れただけだった。自分の性別が女の子だと思われていることも、母親の心が死んでいることも、一切の育児を放棄されていることも、家にお金がないことも、食べるものがなくて調味料と水だけ飲んで寝たことも、当時の僕にとっては何もかもが重圧だった。
 16年間、朝起きて呼吸をした瞬間に、身体があることを認識する度に、制服を身につけた途端に、心に深く傷がついていた。治療の仕方がわからないのでそのまま放置していたら、だんだん痛覚が麻痺して何も感じなくなった。これ幸いと感情が鈍麻したまま生きていたら、ある日突然、しっぺ返しのように今までの重圧が僕の心を死ぬ寸前まで砕きにかかってきた。見ないふりをしていた「重さ」のようなものが、溜まりに溜まって、折れてはいけない部分を折ってしまったのだ。

 僕はその日、死ぬのをやめて家に帰った時には、ただ、情けないとだけ思っていた。このままでは明日が、未来が来てしまうのに、なんで一歩踏み出せなかったんだろうとそればかり考えていた。
 一年ほど経ってすこし心が持ち直した時にその日のことを思い返した。単純に僕の中の事実として、あれは希死念慮に肉体の意志を奪われた状態だったと思う。別にしにたいと思ったわけではない。首を括って足を踏み出す前にも、ああ、しにたくないなと思っていた。それなのに、明日が来るのがもう本当に本当に嫌だったのだ。たぶん、あの気持ちを正確に翻訳するなら、「もう傷つきたくない」という言葉になると思う。自分の心と体の「もう傷つきたくない」を無視し続けた結果の強制執行が希死念慮だと思った。だから僕はあれを事故だと思っている。世の中の、自分で自分の人生に決着をつけた人のニュースを聞くたび、僕は事故死だと感じている。

 その日、つまり気が狂うほど「明日が来るのが怖かった」日に起きたことといえば、演劇部の先輩と小道具か何かの買い出しに行って、先輩の声かけでなんとなくプリクラを撮った。それだけのことだった。もっと言うなら、何のことはない、プリクラの落書き機能で「演劇部女子」と書かれただけのことだ。

 「女子」。
いつまで僕は女子なんだろうと思った。
今後もこうやって誰かに「女子」の字を上から描かれ続けるのか。なんとなく、そう思った瞬間に、本来切れるべきではない部分が音もなく切れた。瞬間、周囲の音が遠くなったことはよく覚えている。

 僕が死ぬのをやめたのは、なぜかそのときに、どこかで聞きかじった謎の知識が脳裏にチラついたからだった。
 「自殺したら死後の世界で永劫苦しむらしい」
 みたいな。どこで聞いたのか忘れたし、今の僕は「嘘こけ、そんな救われない話があってたまるか」と思うのだが、当時の僕はなぜかそれを思い出して死ぬのをやめた。
 「生きていれば良いことあるよ」だの、
 「死ぬなんて逃げだ」だの、
 そういう言葉は、少なくとも僕の希死念慮の前では無価値だった。生きていて良いことがある保証なんかどこにもない。現に今、限界に近いほど傷ついている。それでも、それと同じくらいに、「自分で命を絶つと、死後の世界で永劫苦しむ」という噂が「完全に否定できない」ことも事実だった。少なくとも、当時の僕にとっては。

 その日を超えて僕が理解したことは、毎日感じるつらさは、見えなくなったからといって無くなったわけではなかった、ということだった。僕はようやく「自分はかなり傷ついていたようだ」と自覚した。その傷に対処するために、ようやく性同一性障害の診断をもらえる病院を探し始めたのは、その日から3年経った後のことだった。

 心の傷は、体の傷と同じ。
 その場ですぐに適切な治療を施さなければ悪化するし、放置していても血が止まらないこともある。それを放っておいたら、いずれは命に関わる。それを教えてくれたひとが、いま僕の目の前で「音割れ版3月9日」を歌っている女の子だ。

 10年後の僕がこんな顔で笑っているのを、
 10年前の君は知らないと思う。

 だから、悩むのはやめろとか
 だから、未来を信じろとか、
 そういうことは言わない。
 生きていたくないわけじゃなく、
 明日が来るのがどうしようもなく嫌なのは、
 わかる。わかるけど聞いてほしい。

 あの冬の日に一歩踏み出して、終わりきれなかったことを、いまの僕はとてもありがたく思っている。

 とりあえず、心に重くのしかかるものをどけてみると良い。どけられないならもがくしかないけど、意外といろいろ、暴れることはできる。ひとまず病院で診断もらいな。ああ、自分はそういう人なんだって知って、対処法がわかるとめっちゃ安心するから。あと声が変わると案外みんな、なんとなく男の子だと思ってくれる。ふつうの企業に就職もできる。人事の人に洗いざらい話したら、ふつうに気に入られて、ふつうに男性社員としてプログラマーになれた。ネット上の暗いニュースは信じなくていい。性同一性障害だと就活面接で人格を否定されるとか、書類の時点で全部落ちるとかそんな情報は無視していい。君の人生で起こったこと以外は全部嘘っぱちだ。あと、君はもうすこしやりたいことを思い切りやってもいい。変わるのには勇気がいる。でも、勇気を出す方が、何故かいい方向に行く。これは確かなことだ。説教くさくてごめんけど、でも事実なんだ。

 君はまだ知らないだろうけど、
 森山直太朗さんがうたう、とてもいい歌があるから、演劇ノートに今日の気づきを書き込み終わったら聞いてみてほしい。

 それじゃあ、今日はここまで。
 またね。


 

 

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