嫌い

 私は洗い物が嫌いだ。おそらくはこの世界の全ての人間を母数としてもその大半は私と同じ感情を抱いているんじゃないかと思う。しかし私は洗い物が「嫌い」という人類の普遍的ともいえる感情にも「嫌いだけど好き」などどうしようもない雑種が存在しており、その中で私の嫌悪は相当純度が高い。まな板を洗わず食材の色が転移。ほぼ一週間シンクにフライパンを放置して白い浮遊物が発生。挙句には急須を用いてカビを培養する始末だ。この洗い物からの回避行動がもたらした被害は大きい。

 この嫌いという感情はいったい何者なのか。嫌いだから先延ばしにするのか、先延ばしにするから嫌悪感が生まれるのか、はたまた元々私が怠惰なだけなのか。おそらくは私の惰性がすべて物語っているのだろうが、心底こういうところだけは頑固でなかなか受け入れようとしない。だから終わらない、螺旋状の環のような思考に陥ってしまう。自業自得だ。先ほどは洗い物を例にとったが、正直にすべてを告白すると、私の生活には嫌いなことばかりが目立つ。そのほとんどは「きれいにすること」であるからいかに私の心が汚れているのかが皆さんにはたやすく見当がついてしまったのではないだろうか。こうしてつらつらつらと先を考えずに書き綴ってしまうから周りからの評価も汚れてしまう。私の脳には自己防衛という機能が備わっていないのだろう。そんなことはしょせん自分でどうこうできるものではないから今回は放っておく。さてこの嫌いという感情と仲良くするにはどうすればよいのか。イチャイチャできるわけでもないし、顔色を窺ってウイスキーの一杯や二杯おごってやることもできないし、性欲もないから風俗にだってこの嫌いさんは興味がないだろう。どうせ勃起なんて概念がない。つまり人間の欲求とはまるっきり別次元に存在していることになる。何がマズローだ。あんな奴くそくらえだ。欲求とは正反対。おそらく欲求と嫌いは陰陽の関係なのだろう。嫌いをなくせば欲求もなくなる。なかなか手ごわい奴だ。エヴァンゲリオンのアダムとリリスの関係ならまだよかったのに。実際急須のカビやフライパンの白いオラオラした物質のほかにどんな被害を被っているのかというと、期限という単語が心底憎くなるということだ。色んな期限があるが、みんな死んでしまえばよい。しかし人間が社会を維持する限りは期限に犯され続ける。なんてことを今考えている。

 つまり嫌いってやつとは死ぬまで契りを交わすことになる。どんなにもがいても奴が消えることはない。それで死を選んだとしてもそこにもう私の心はない。このスカスカの頭で単純に言うとこうだ。生きるか、無か。ただそれだけだ。こうしている間にも嫌いは隣に座っている。洗い物、期限。いい加減お前が上機嫌になれるものを教えてくれ。