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作品の良し悪しについての考察

主に文字のみで構成された作品の良し悪しとは、何なのでしょう。小説とか、短歌とか、今書いているこの文章とか。

私の答えは「わかりません」です。

正直、わかりません。有名でも無名でも、私が何か人の作品を読んだときに、今後もこの人の作品を読みたいと感じる基準は

好き か あまり好きでない
 あるいは
気持ち良い か あまり気持ち良くない

くらいの、非常に私的で曖昧な感覚しかありません。もちろん、自分が書いた作品について言えば、間違いなくそれは自分が「好き」で「気持ち良い」ものです。そのために書いています。でもその感覚を共有してくれる人がどれくらい世の中にいるのか、私にはさっぱり見当がつきません。もし統計が取れたとしたら、自分の作品に共鳴してくれる人の割合はおそらく少数派の方ではないかと思っています。これは俺って変でしょアピールとか逆に謙遜して言っているとか、別にそういう事ではなく。私にとっては文学というのは本当にそういう存在です。

作品を手にとって読んでもらわない限り、私の知らない誰かが私の作品を好んでくれるかどうかなんてわからないので、「おもしろい作品なので読んでください!」と自ら謳って人に薦めていくということが、私には上手くできません。

バンドで音楽を作って世に出す時は、もう少し違った感覚があります。私は楽曲というものには人の好みの基準となる要素がもっとたくさん存在すると思っていて、それはメロディ、アンサンブル、歌詞、歌唱技術、演奏技術、録音技術、ヴィジュアル、など多様です。多くの場合、制作段階で関わってゆく人の数もはるかに多いので、客観的な意見も制作段階でかなり入ってきます。その結果、出来上がった作品についての自信と基準というものが、自分の中にはある程度明確に出来上がります(それでも最終的には人の好みですけれどもね)。

私の場合、小説では、それが希薄。
そこが、難しい。

そうやって考えた末にたどり着いた結果は、繰り返しになりますが、私自身にほんのちょっと興味を持ってもらうという事です。それでこれを書いています。たまたま作品以外の何かを見て「この人、自分と似た感覚持ってそうだな」と感じてくれた人になら、じゃあ小説も読んでやろうじゃないかと思ってもらえるかもしれないな、というわけです。そしてそういう人にだったら作品を「好き」と思ってもらえる可能性も高いかもしれない。私は結局、書いた作品で有名になりたいわけでもお金がほしいわけでもなく、読んだ人にただ少しだけ良い気持ちになってもらえたらそれで幸せなんです。そういう意味では、音楽をやっている時の気持ちと、まるで一緒なのです。

次回は、小説をかきはじめたきっかけについて。

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